最近 読んだ本(1997年 7月〜)

重くなったので、1〜6月分を別ファイルにしました

最終更新日 1997.12.26

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「独断と偏見のSF&科学書評」の森山和道さんが、「ベストサイエンスブック'97」という投票企画をやっています。詳しくはこちらをごらんください。

1998年版作成開始



12月
11月
10月
9月
8月
7月

コメント

鎮魂歌 ―不夜城 II― (馳星周)
昨年の話題作『不夜城』の続編。
『不夜城』から二年後。歌舞伎町の台湾人のボス楊偉民に飼われる「凶手」郭秋生と、北京マフィアのボス崔虎に使われる元悪徳警官の滝沢。楊偉民の命令で北京の「四天王」の一人を秋生が殺し、滝沢が崔虎にその犯人の捜索を請け負わされるが、二人の行動はやがて歌舞伎町の力関係のきしみを拡大していく。その陰に見え隠れする楊偉民と楊偉民に恨みを抱く劉健一の不可思議な動き。やがて上海マフィアと日本のヤクザも巻き込んだ抗争が、再び歌舞伎町を襲う。二年前の再現。五つ巴、六つ巴の戦いの中で、秋生と滝沢の手も血にまみれていく。このシナリオを描いたのは誰なのか、そしてその目的は――?

というような話で、前作に増して陰惨なストーリーと救いのない結末。読んでいて気が滅入るが、読み出すとやめられない。面白い…ってことになるのかな、やっぱり?でも、もう一度読もうとは思わないな。

<角川書店:1997年8月刊:本体1500円>
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クローン羊の衝撃(米本昌平)
クローン羊「ドリー」誕生に対して、どのような議論が起こり、世界各国はどのように対応したのか。生命倫理に関する議論と、政治的規制に関する議論を紹介しながら、我々がいかに対処すべきかを探る。

薄いブックレットだが、内容は充実している。まずクローン動物研究の歴史とその目的を述べ、次に「ドリー」ショック以後の欧米各国(および国際的機関)の対応を、既存の法律や生命倫理に関する従来の議論との関係でまとめている。最後に、日本での対処について提言を行っている。
「ドリー」ショックの何割かは、「遺伝子」や「クローン」についての『DNA伝説』的な誤解に基づくものだったと僕は思っているのだが、それを克服してもなお、クローン技術の人間への応用については様々な倫理上の問題があるのは確かなことに思える。他方で、動物のクローン技術が生物学研究にとって興味深い技術であることも確かだ。問題は、どのような論理に基づいて、どのようなレベルで法的な規制を設定するかだ。この点で、フランスの国家倫理諮問委員会答申や欧州連合のバイオテクノロジー倫理助言グループの見解は参考になる。
いずれにせよ、日本でも、正確な知識に基づいた議論が必要だ。「無意識の底にある共通感情を明確にし、できれば論理化して意味体系を新しく獲得する努力、これほどチャレンジングな課題にそうそう直面するものではない。われわれはこの作業を断念すべきではない」という著者の意見は、世の中のクローン・ショックを、生命操作の倫理に関する幅広い議論を活性化させていくチャンスと捉えるもので、共感を覚える。

<岩波ブックレット:1997年11月刊:本体400円>
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さよならダイノサウルス(ロバート・J・ソウヤー)
恐竜絶滅の謎を探るため、タイムマシンで白亜紀末期へ乗り込んだ二人の古生物学者。彼らが到着したのは重力が小さく、月は裏側を向き、もう一つの月が空に浮かぶ世界だった。そして、それより何より驚いたことには、その世界には恐竜に寄生してかれらを操る「ヘット」という知的生命体が存在していた――。

いろんな所でいろんな人が褒めているので、読んでみたが、うん確かに面白い。ストーリーも良いし、散りばめられた色々なアイディアが最後にきれいにまとまって、ああそういうことか、と納得がいき、快い。

<ハヤカワ文庫SF:1996年10月刊:本体621円>
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科学がきらわれる理由(ロビン・ダンバー)
世の中に根深く存在し、様々な形で現われてくる反科学的感情に対する、科学擁護の書。著者は心の進化論を専門にする心理学者で、本書は人類学を学ぶ学生に対する著者の講義が元になっている。
著者は科学への反感の底には、科学者以外の人々が科学という活動について理解していないという「情報のギャップ」があると見る。そこで著者は科学とはどのような活動であるかを述べ(「科学とは、特定の理論というよりは、方法論に関する規範だ」など)、この方法が西洋固有のものではなく、「高等生物の特徴として普遍的なもの」であることを、非西洋文化はもちろん、他の動物の行動をも例に引いて主張する。その前提の上に立って、著者はそのような前科学的な認識方法と区別された「科学」が、なぜ大きな成果をあげることが出来たのか、それと同時になぜ科学外部の人々には分かりにくいものになってしまっているのか、その要因となっている科学の特徴を明らかにしていく。本書の後半では、科学ジャーナリズムの問題、科学と政治・経済・文化の関係、といった問題についても論じている。

僕は反科学の立場に与するものではない。しかし科学のことは(金だけ出して)科学者に自由にやらせておけ、とも思わない。科学という活動それ自体が自己目的化し、それ自体が価値になるという在り方や、科学者社会だけの論理で科学が動いていくような在り方には反対だ。科学は(好奇心の充足というようなことも含めた)人類の幸福に奉仕すべきものであり、最終的な科学のマネジメントは(専門家も含めた)社会の合意のもとで行われるべきだと考えている。そしてそのためには、社会の構成員の科学を理解することが不可欠であり、反科学の風潮はこれを阻害する深刻な問題だと思う。
この点で、科学擁護の書という、どちらかというとあまりカッコイイとは言えない本を書いた著者に、まずは敬意を表したい。しかし同時に、各論の部分では、僕の感覚では「言いすぎ」に思える箇所が結構あって、必ずしも著者に全面的に同意はできなかった。あと、基本的に地味な本で、文章も(原文に責があるのか訳文が悪いのかは分からないが)読みやすいとは言えないので、薄い(<厚さのことね)本なのに読むのにずいぶん時間がかかってしまった。

<青土社:1997年6月刊:本体2600円>
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サマー・アポカリプス(笠井潔)
『バイバイ、エンジェル』で描かれた「ラルース家殺人事件」から半年たった夏の黄昏時、ヤブキ・カケルを見えない敵の銃弾が襲う。その凶事を予告した女はエコロジスト・グループの指導者シモーヌ。カケルとシモーヌは「ラルース家殺人事件」でのカケルの行動を背景にして思想的に対立していく。南フランス、中世の「異端」カタリ派の聖地に舞台を移し、カタリ派の謎を追うカケルたちの周囲で起こる「ヨハネ黙示録」をなぞった連続殺人事件。再び探偵役をかってでたナディア・モガールを尻目に、すべてを見通しているかのようなカケルは、しかし事件の解決をはかるでもなく、その言動は謎に満ちていた。カケルの真意はどこにあるのか?

『バイバイ、エンジェル』と同様に重厚な、まさに「本格推理」そのものという作品。カケルと登場人物の思想的対決というモチーフも共通している。しかし前回の対決の相手が「悪」と呼びうる相手であったのに対して、今回の相手シモーヌは、その対極にあるような聖性をもった人物だった。だからこそむしろカケルの思想的闘いは激しいものになり、物語の重苦しさも前作に増している。
でもね、『熾天使の夏』を読んだときにも思ったのだけど、僕にはこのヤブキ・カケルという人の思想が、結局何だかよく分からない。やっぱり『テロルの現象学』を読むべきなのかな…。

<創元推理文庫:1996年3月刊:本体850円>
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魔王の国の戦士(グイン・サーガ外伝12)(栗本薫)
好調なペースでの出版が続いているグイン・サーガ。外伝12巻になる本書は前の巻に続いて、東方の謎の国キタイでのグインの冒険行を描く。
いよいよ宿敵グラチウスの待つ都市ホータンへやって来たグインは、シルヴィア姫とマリウスが囚われている「さかさまの塔」探索に乗り出す。探索の過程で知り合った孤児たちのグループ「青鱶団」の協力を得て塔を見つけ出し、グインは二人の救出のため、奇怪な仕掛けに満ちた塔に乗り込む。

グインのシルヴィア探索もいよいよ佳境に入ってきた。それだけでなく、今後、本伝の方でもキタイ情勢に重要な役割を果たしそうなキャラクターたちが登場してきて、彼らの行く末も気になるところだ。

<ハヤカワ文庫JA:1997年12月刊:本体500円>
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『群論への30講』(志賀浩二)
その名の通り、群論の初歩的教科書。
読むぞ、と宣言して、約1カ月で読み終えました。結構時間がかかったな…。最後の位相群のあたりはよく分からなかったけど、全体としてはとても読みやすい教科書でした。
次は遠山啓の『代数的構造』かな。

<朝倉書店:1989年8月刊:本体2900円>
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進化論の挑戦(佐倉統)
著者の佐倉氏は人間が自分自身を知るためには進化の理論が必要だという。しかし進化論を人間に適用する試みは、かつて優生思想を生み、ナチズムによる政治利用を初めとした様々な悲劇を生んだ。本書はかつての悲劇、そして現在の反対論をも見据えながら、人間の進化論的理解の試みを紹介している。進化論の歴史(第一章)、優生学と社会ダーウィニズム(第二章)、社会生物学論争(第三章)、進化倫理学(第四章)、フェミニズムと進化論(第五章)、進化論と認識論(第六章)、進化心理学(第七章)、バイオフィリア仮説(第八章)という内容になっている。

著者自身も言うとおり、幅広い問題を扱っているために、それぞれの問題の掘り下げ方は浅くなっている。そのためかどうかは分からないが、少なくとも僕にとっては説得力を感じられない議論が最初から最後まで続いた。もっとも気になるのは、このような研究が(研究者の思惑にかかわりなく)「優生学」的思想や差別の固定化に利用される危険性を著者も何度も指摘しながら、結局それへの有効な対策を示すことはできていないと感じる点だ。それができていない限り、このような研究を糾弾する者が出てくるのは当然であるし、僕としてはむしろそちらに与する。そのような危険性が杞憂ではなく現実のものであることは、たとえば『DNA伝説』などを読めば明らかだ。

そのような危険がたとえ回避できたとしても、このような進化論的、社会生物学的アプローチの有効性がいかほどのものなのか、という疑問もある。僕はヒト以外の生物に関する社会生物学的アプローチについても眉に唾をつけて聞いてしまう人間だから、ましてや極端に大きな可塑性をもつ「ヒト」という動物について、たとえば倫理規範や道徳に進化的(適応的)背景があると言われても、よほど説得力のある議論をしてもらわないと納得はできない。
ヒトの個体発生(発達)は、生物学的な要因と、ある特殊な文化的要因(環境)が一体になって実現する。個体発生に関して「中立な」環境などはありえない。ヒトが育ち方によって聖者にも極悪人にもなれるとすれば、そのうちのどれがヒト(あるいはそのサブグループ)の本性かと問うのは無意味ではないか。環境の違いによって変化しうる個体発生の範囲のすべてが、ヒトの可能性だろう。そのような可塑性にもかかわらず、なお普遍的に認められる何らかの性質があれば、確かにそれは本性の名に値するかもしれない。しかしヒトは実現しうるあらゆる文化様式を経験しているわけではないから、少なくとも現存および過去の異文化間の比較というアプローチによってそのような普遍性を見い出すのは困難であると、僕には思える。普遍性を見い出すためには、むしろ生理学や発達心理学のようなアプローチのほうが、社会生物学よりもずっと有効ではないだろうか。それではその進化的起源(適応的意義)が分からない、という不満があるのかもしれない。しかし、そういう生理学的、発生(発達)学的な知見に基づかずに起源を説明しようとしても、存在さえ不確かな「本性」に「適応主義的なぜなぜ話」をくっつけた、きわめて曖昧なものにしかならないように思える。

<角川書店:1997年10月刊:本体1500円>
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ハシモト式古典入門(橋本治)
『桃尻語訳枕草子』『窯変源氏物語』など、日本古典文学の新しい形での紹介でも知られる橋本治が、古典は難しいと思っている人たちのために書いた古典入門。橋本氏は「古典はもともと分かりにくいものだ」ということを認めることから始める。ではなぜ分かりにくいのか?
本書の前半では、日本の文字と文章の歴史をたどりながら、分かりにくさの理由を明らかにしていく。橋本氏によれば、鎌倉時代より前の、「漢文」(古事記)、「漢字だけの万葉がなの文章」(万葉集)、「ひらがなだけの文章」(源氏物語)、「漢字+カタカナの書き下し文」(今昔物語集)、などの文章は分かりにくくて当り前なのである。「漢字+ひらがな」(徒然草、平家物語など)という我々の知る「普通の日本語の文章」が現われるのは鎌倉時代になってからなのだから。それなのに、日本の古典界には「平安時代偏重」という風潮があり、いきなり「分かりにくい」たとえば『源氏物語』から入っていってしまったりする。橋本氏はそのような風潮に異議を唱える。そこで本書の後半では、「分かる古典」の時代から、源実朝と兼好法師という二人の人物をとりあげ、その作品と人物像を深く掘り下げていく。

僕は橋本治のファンなのだけど、近年の古典ものは全然読んでいなかった。「日本古典=つまらない」という図式が高校時代に根深く頭に刷り込まれてしまったので、手を出す気が起きなかったのだ。でも橋本治の手にかかると、源実朝とか兼好法師とかいう偉そうな人物も「現代青年」になってしまって、親しみ湧きまくり状態になってしまうから不思議。高校生の頃、こういう本に出会いたかったなあ、と思いました。

<ごま書房:1997年11月刊:本体1100円>
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羽生 ―21世紀の将棋―(保坂和志)
羽生善治という天才棋士の「将棋観」を読み解く本。著者は羽生の将棋観を次のように要約する。
「人は将棋を指しているのではなく将棋に指されている。一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、棋士の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような指し方に近い指し方のできたものが勝つはずだ」
将棋というゲームは個人の欲望や執念、個々の棋士の「棋風」というものを超えた広がりをもっている。だから棋士は「棋風」というスタイルを乗り越えて将棋の法則を見付け出す必要がある。それを実践しているのが羽生だ、というわけだ。

僕は将棋についてはほとんど何も知らないのだが、この本は少し前に稲葉さん「インタラクティブ読書ノート」で正野さんという方が紹介していて、興味をもったので読んでみた。
将棋素人の僕にとっては、最終章のコンピュータがらみの話がいちばん面白く読めた。「記憶力」と「計算力」では圧倒的に人間にまさるコンピュータが、(チェスはともかく)将棋で人間に勝てていないのは、コンピュータには人間の能力の中で「言語化」された部分しかくみこまれていないからだ。しかし言語化されていないたとえば「大局観」というようなものも、論理の外にあるわけではない。したがってその構成要素を別の言葉に置き換えていくことは可能である。羽生はまさにそのようにして自分の将棋観を人と共有し、将棋から言語化されていない部分を減らしていこうとしている棋士である、と著者はいう。棋士がそういう風にクールに客観的に将棋に取り組むことが可能になったということ、そしてそういう棋士が実際に「最強の棋士」であることが、「21世紀の将棋」の方向を示している、ということなのでしょうね。

<朝日出版社:1997年5月刊:本体1300円>
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科学の終焉(ジョン・ホーガン)
相対性理論、量子力学、ダーウィンの進化論、ゲーデルの不完全性定理、これら輝かしい発見の後で、科学に解くべき重要な問題は残されているのだろうか。科学はすでに成功をおさめており、科学的発見の大部分はもうすでに終わっているのではないのか――"Scientific American"誌で活躍する科学ジャーナリスト、ホーガン氏は、このような疑問を抱き、科学者たちへのインタビューで質問をぶつける。「科学に終わりはあるのか?」、「『究極の答』は存在するのか」と。
ホーガン氏の標的になるのは、各分野にわたる世界の超一流の科学者たち。目次に並ぶ名前を見ただけで、速攻で本屋のレジに持っていきたくなるような、錚々たる面々だ。ホーガン氏は時に気難しい科学者のご機嫌を伺いながらも、率直な質問を投げかける。そして質問に対する反応を楽しみながら、科学者たちを冷静に観察していく。ホーガン氏の描き出す科学者たちの生の姿(いや、いくぶん誇張されていないかという疑いを抱かないでもないのだが…)も面白いし、氏の質問によって引き出される、(科学上の業績と関連はあるにしてもそれとは別のところで)それぞれの科学者が抱いている(いってみればメタフィジカルな)信念も、いちいち興味深いものである。
タイトルと装丁と出版社と監修者の組み合わせで、一見いかにも怪しげな印象をうけるが、どうしてどうして、科学ジャーナリストかくあるべし、というかんじの、良い本でした。

<徳間書店:1997年10月刊:本体2500円>
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かたちの進化の設計図(倉谷滋)
『神経堤細胞』の著者の一人、倉谷氏が、形態学と発生学の観点から脊椎動物の進化を考察する。特に、「エラ」の繰り返し構造が変化して(ゲーテの「メタモルフォーゼ」)、「アゴ」ができ、それがさらに形を変えていく――という脊椎動物の歴史における最も劇的な進化が話の中心になる。倉谷氏は長い伝統をもつ形態学の知見と、最近になって急速な進展をみせている実験発生学、分子発生学の知見をもとに、かたちを作るプロセスとメカニズムを考察する。そして脊椎動物のボディ・プランに「体節」と「エラ」という2つの分節性があるという観点から、このボディ・プランの進化を考察している。

脊椎動物の「かたち」とその進化という興味深い問題について、基本的で本質的な最低限の知識を分かりやすく伝え、かつ知識の羅列に終わらず著者の深い考察が折り込まれている。(むかし『動物の起源論』(西村三郎)を読んだときにも同じ様な印象を受けのだが)生物学を学び始めたばかりの学生にも読めるし、発生学や進化学の専門家にも刺激を与えることができる、良書だと思う。いや、ほんとに、いろんなことを考えさせられた。一つだけ言うと、タイトルの「進化の設計図」という言葉。進化に文字どおりの「設計図」があろうはずも無いが、あえてこのようなタイトルを選んだところに倉谷氏のなにがしかの思いがあったのかな、ということを読みながら色々と考えた。で、思ったのは、ある発生メカニズムを伴うボディ・プランが成立したときに、そのプランの中に後の進化の可能性と限定性というものがすでに刻印されているというようなイメージなのかな、ということ(見当はずれかもしれないが)。もう一度(といわず)読んでみたいと思います。

あ、忘れていたが、本書は『ゲノムから進化を考える』という5冊シリーズのうちの一冊である。(でも、どこに「ゲノム」が?)

<岩波書店:1997年11月刊:本体1600円>
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哲学の教科書(中島義道)
本貸出中につき、感想はしばらくお待ちください。

<:年月刊:本体円>
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うるさい日本の私(中島義道)
中島氏は「スピーカー音恐怖症」である。現代日本は、街を歩いていても、店に入っても、乗り物に乗っても、観光地に行っても、家の中にいてさえ、たえずスピーカーによる音にさらされ続ける「音漬け社会」である。中島氏にとって、そのような音を浴び続けることは耐え難い苦痛であり、恐怖である。しかし中島氏にとっては苦痛であることが、他の人々にはまったく苦にならないらしい。苦痛を訴えても「そんなささいなこと」と相手にされなかったり、訴えること自体が「わがまま」であるとされてしまう。しかし中島氏は諦めることなく、「音漬け社会」と戦っていく。中島氏の言葉によれば、「(マジョリティには錯覚に見えるかもしれないが私にとっては断固実在する)『風車』にまっしぐらに突撃するドン・キホーテ」として。

中島氏は『<対話>のない社会』で「もっと<対話>を!」と訴えている哲学者だが、この本にはその具体的な実践が記録されている。何が「対話」の敵なのかを、氏はこの戦いの中で肌身で感じてきたのだ。『<対話>のない社会』の内容が、氏の実践の中からでてきた真摯な訴えであることがよくわかる。
いきおいで同著者の『哲学の教科書』も読んでしまったけど、この本はいま貸出中なので、感想はまた今度。

<洋泉社:1996年8月刊:本体1700円>
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運命のマルガ(グイン・サーガ 58巻)(栗本薫)
前巻でアルド・ナリスの住むマルガへと旅立ったイシュトヴァーンは、ヴァレリウスの導きによってナリスとの再開を果たす。その席でイシュトヴァーンは中原の将来を左右するおそるべき提案をナリスにぶつける――俺はゴーラの王になる。そして、あなたをパロの王座につけてやる。俺と一緒に中原を奪いにゆこう――と。

本巻に至ってようやく、本当にようやく、「アルド・ナリスのサーガ」がどのような形をとるのかが見えてきたようだ。レムスと一戦交えずには終わらないだろうことは分かっていたが、なるほど、イシュトヴァーンがその発火点になるわけか。人生に倦み飽きていたかのようなナリスをその気にさせ、うじうじしていたヴァレリウスにも腹を決めさせて、イシュトヴァーンの勢いは止まるところを知りませんね。あとは、パロの内乱にグインのケイロニアとヤンダル君のキタイがどういう具合に噛んでくるかと、リンダの運命がどうなるのかが、今後のキィポイントになりそう。うん、楽しみたのしみ。

<ハヤカワ文庫JA:1997年11月刊:本体500円>
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新世紀の迷路 ― 疾走するエヴァンゲリオン ―(鶴岡法斎)
鶴岡法斎氏によるインタヴューで構成されたエヴァ本。インタヴューの相手は、唐沢俊一、米沢嘉博、原えりすん、など十人以上に及び、中には綾波のコスプレをしているイメクラ嬢、なんていう人へのインタヴューもある。

エヴァ本はほとんど買っていないし、買ってもあまり読まないのだけど、唐沢俊一や米沢嘉博といった人達の冷静な意見を読んでみたいと思ったのと、綾波コスプレ嬢からみたエヴァ・ファンの姿というのが面白そうだった、という理由で、この本は買いました。で、それらの話はそこそこ面白かったけど、「はまった」人たちの話は、なんかもういいや、っていう感じでした。以上。

<ASPECT:1997年11月刊:本体1400円>
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満ち足りた人生(別役実)
別役流の人生読本。
人の一生には様々な出来事が起る。誕生から始まって入学、成人、就職、結婚、出産、離婚、葬式など。時には負傷、借金、破産、手術、不倫、なんてことも起りうる。そのような波乱万丈の人生を如何に生きるかを別役実が指南する。たとえば、こんな具合に――。

「借金」:こくのある人生を送るためには、借金をすることである、と言われている。それも、なるべく借りにくい相手に、自分の返済能力を超える金額を借りるのがいい。もうそれだけで我々は、弛緩した人生を活気あるものに仕立てあげることが出来るし、返済期限が過ぎれば、緊張感はさらに高まり、一刻一刻が、ほとんど息の詰まりそうな濃密さで充たされることになる……。

「読書」:読書というものを、もし字を読むことができるのならだが、一度はしてみてもいい。読書のいいところは、何もしていないように見えて、その実、何もしていないようには見えない、という点にある。そして、更にいいところは、何もしていないようには見えないにもかかわらず、その実、何もしていないという点にある……。

アイロニカルな文章の中にも、一片の真実が含まれている――のかどうかは人生経験の足りない僕には分からないが、面白いから、良いのだ。

<白水社:1997年8月刊:本体16000円>
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線形代数30講(志賀浩二)
志賀浩二氏の『数学30講シリーズ』の第2冊。ごく初歩的な線形代数の教科書で、たいへん分かりやすい。もちろん、大学一年の時に一度やっている(使ったのは別の教科書だけど)から分かりやすく思えるというのもあるのだろうけど。本書は当時はよく分からなかった行列の変形の意味なんかが親切に解説してあって、有難い。

で、なんで今ごろこんな教科書を読んでいるのか、ということですが、実はいま僕が勉強してみたいと思っているのは「群論」なんだけど、数学ももう久しくやっていないし、たぶんいきなり未知の領域に踏み込んでも頭がついていかないだろう、ということで、まず線形代数あたりでウォーミング・アップをしようか、というだけの事なのでした。ということで次は同じ著者の『群論への30講』を読みます。(読み終わるのか!?)

<朝倉書店:1988年3月刊:本体2600円>
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テリー伊藤の怖いもの見たさ探検隊(テリー伊藤)
またテリー伊藤の本。普通の人にはなかなか踏み込めない団体、職業、場所、などをテリー伊藤氏が「探検」するという企画で、対象になってるのは、総会屋、交通刑務所、日本相撲協会、公安警察、海上自衛隊の護衛艦、自由民主党、ヤクザ、東大法学部、創価学会、東京都。
こういう風に目次を眺めて見ると、かなり気をそそられる企画だが、読んでみると全体として突っ込みが足りなく、食い足りない。紙幅の関係もあるのだろうけど。下の『お笑い 外務省機密情報』くらいきちんと取材してそれぞれを一冊にまとめれば、どれも面白い本になると思うのだが。

<光文社:1997年9月刊:本体1300円>
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お笑い 外務省機密情報(テリー伊藤)
テリー伊藤の固くて柔らかい『お笑い○○』シリーズ。今度のターゲットは「外務省」だ。
「日本の数ある中央省庁のなかで、明治政府以来、名前が変わらないのは、大蔵省と外務省だけ」(本書より)なのだそうだ。しかし数々の不祥事で泥にまみれ解体論も叫ばれている大蔵省にくらべて、あのペルーの事件以降でさえ、「外務省」の地位は揺るぎないものに見える。しかし外務省がそのような特別扱いに値する「立派な」省庁なのかと言えば、どうもそうではないらしい。大蔵官僚からも「あいつらはエイリアン」と評されるという外務官僚の実態を、数々の取材をもとに、テリー伊藤が暴く。

外務官僚の海外での優雅な暮しぶり、仕事をしない外務官僚たちの実態、外務官僚たちの差別意識、キャリアとノンキャリアの確執、大使館における大使を頂点とした「人間ピラミッド」的支配構造、などなど、話半分に聞いたとしても呆れ返るような話の数々。まあ僕は日本の「国益」なんてものに関心は無いし、日本人は気楽な連中だとなめられるくらいのことなら腹もたたないけれども、差別的な言動によって他国の人に日本人への悪感情を植え付けるようなことは、やめて欲しいものだ。

<飛鳥新社:1997年10月刊:本体1300円>
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午後の行商人(船戸与一)
船戸与一の新作長編。舞台はメキシコ。
メキシコ自治大学に通う日本人留学生の「ぼく」は、旅先の街で強盗に襲われたところを混血(メスティーソ)の老人に助けられる。「タランチュラ」と名乗るその老人が行商を生業としていると聞いた「ぼく」は、老人の旅に同行させてくれるよう頼み込み、二人のメキシコ南東部の旅が始まる。しかし二人の旅に匪賊、サパティスタ民族解放軍、検察庁公安課などが絡み、「タランチュラ」の過去が明らかになるにつれて、「ぼく」はしだいに血生臭さい戦いに巻き込まれていく。

物語は、普通の青年が謎めいた老人(あるいは中年男)に出会い、ともに旅をし、社会の歪みから裂けて噴き出すような流血沙汰に巻き込まれながら、自分の中に眠っていた凶々しいものに気付いていく、という船戸の黄金パターンの一つだ。その舞台となるメキシコ南東部は船戸がルポルタージュ集『国家と犯罪』で最も多くのページ数を割き、『幾度もサパタ――メキシコ南東部ゲリラ紀行』という報告を書いた土地である。この小説の中では先住民たちの生活や「サパティスタ民族解放軍」の蜂起の背景などは十分に語られてはいないが、このルポルタージュをあわせて読むことで、より物語の厚みを感じることができるだろう。

<講談社:1997年10月刊:本体2100円>
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<対話>のない社会 ― 思いやりと優しさが圧殺するもの ― (中島義道)
『人生を<半分>降りる』の哲学者・中島義道氏が「<対話>のない社会」日本を批判し、もっと<対話>を!と訴える。では中島氏の言う<対話>とは何か。それは「真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ『言葉』という武器だけを用いて戦うこと」である。議論に勝つことが目的なのではない。かといって簡単に各人の意見が融合してしまうことを求めるのでもない。自分と他者との「小さな差異」を発見することにつとめ、そこにこだわりながら進んでいくことこそ大切である。そしてその語られる言葉は「自分の人生をまるごと背負った言葉」でなければならない。
日本にはこのような<対話>がほとんどない。では何が<対話>を圧殺しているのか。それは「思いやり」や「やさしさ」という暴力である、と著者は言う。他人の気持ちを「思いやり」、誰も傷つけない言葉を語ることを強要されれば、言葉を否定してしまうしかない。「対立」を避ける日本の風土もまた<対話>を殺す。他人との対立点をみつけ、大切にすることから対話は始まるのに、日本ではそのような異質な「他者」は存在しないかのように、「和の空気」の中で物事が進んでいく。
著者は<対話>の起源となった欧米の社会を理想としているわけではない。現在の欧米社会では<対話>のマイナス面がはびこっており、人々は「真理」よりも「権利」を求めて争う。しかし日本がそのような社会になる心配はない、と著者は言う。だからせめてもう少し、言葉を信じ、対話を尊重しよう、というのが著者の主張だ。

ところで、ネット上の議論を見ていると、逆にもう少し対立を避ける努力をしたほうが、建設的に<対話>が進むのじゃないかなあ、と思ってしまうこともしばしばで、そういう意味では日本的な「和」から自由な世界が、けっこう実現されているのではないかと僕は感じる。中島氏の提案する「対話のある社会」の姿にてらして見ても、この世界、けっこう良い線いってるという気がするのだけど、どうでしょう。

<PHP新書:1997年11月刊:本体657円>
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オタク・アミーゴス!(岡田斗司夫、唐沢俊一、眠田直)
岡田斗司夫唐沢俊一眠田直、によるオタク芸ユニット「オタク・アミーゴス」の本。
暇つぶしに読むには楽しい本だった。内容が知りたい方は上のリンクをたどって下さい。なんか今月、この手の本ばっかり読んでるような…。

<SOFT BANK:1997年3月刊:本体1300円>
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宇宙のランデヴー(アーサー・C・クラーク)
2130年、宇宙の彼方から太陽系に飛来した直径20kmの謎の巨大金属筒。明らかに知的生命体によって建造されたこの物体を調査するために、ノートン中佐率いる宇宙船エンデヴァー号が派遣される。エンデヴァー号の乗員たちはそれぞれの知恵と能力を生かして金属筒内部の探検を進めていく。この物体を作ったのはどのような生命体なのか、そして太陽系へ飛来した目的は?

うーん、何というか、随所にちりばめられた様々なアイディアや、ディテールの描写はすごく面白いのだけれど、読み終わって結局どういう話だったのかを考えると、よく分からない。というか、たぶん、よく分からないのは作者の意図によるもので、クラークは「何が何やら分からないファーストコンタクト」というのを書きたかったのかなー、と思ったのですが、どうでしょう?つまり相手は人類なんか鼻もひっかけてないのに、人類が一方的に盛り上がってしまうという「一方的ファーストコンタクト」を描くことによって、ファーストコンタクトものの中に無意識に入り込みがちな人類の自意識過剰を意識的に描いて見せた、というか…。うまく言えないけど、そんな感じがしました。

<ハヤカワ文庫SF:1985年9月刊:本体544円>
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フェラーラの魔女(グイン・サーガ外伝11)(栗本薫)
最近、ハイペースで出ているグイン・サーガだが、6月の外伝10巻、8月の本編57巻に続いて今度は外伝の11巻。話は前巻の続きで、グインのシルヴィア探索の旅である。人間と妖魔がともに暮らす、キタイの「魔都」フェラーラでのグインの冒険を描いている。
しかし本巻の読み所はそれよりむしろ、初めて明らかになる謎の国キタイの姿、「竜王」と謎の「暗黒魔道師連合」がからみあう現在のキタイ情勢、そしてグインの失われた過去に関連すると思われる「アウラ」神の謎、といったところでしょう。本編で続いている現世的な戦争や政争とは一味違った妖しい世界がグイン・サーガ世界の中には確かにあって、将来それが本編にも関わってくるのですよ、という予告編の趣で、外伝と本編を使いわけたこういう組み立て方は、さすがに上手いなあと思う。
11月には本編58巻、12月には外伝12巻が出るそうです。<月刊グイン・サーガ!

<ハヤカワ文庫JA:1997年10月刊:本体500円>
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神経堤細胞 ― 脊椎動物のボディプランを支えるもの ―(倉谷滋&大隅典子)
『UP BIOLOGY』シリーズの久々の新刊。脊椎動物の胚発生に重要な役割を果たす「神経堤(Neural Crest)細胞」に関する本である。神経堤細胞の基礎知識(1〜3章)から始まって、体幹部(4章)と頭部(5章)のパターニングにおける神経堤細胞の挙動をそれぞれ詳細に解説する。さらにその知見の上にたって、頭部、体幹部およびその境界領域を比較し、脊椎動物のボディプランの起源を考察する(6章)。7章では脊椎動物の分節性とHOXコードを初めとした遺伝子の働きについて考察する。最後の8章では頭索類、円口類、板鰓類、硬骨魚類、両生類、爬虫類の神経堤細胞について比較発生学的に考察し、神経堤細胞の起源と進化を考察する。

専門的な本なので、脊椎動物の発生学と形態学の基礎的な知識がないと、読むのはしんどいだろう。この分野は今の発生学の中でも精力的に研究が行われている分野の中の一つで、関連する諸分子とそれらの関係についての知見も日々蓄積されてきているのだが、本書はそのような分子レベルの知見に関する記述は抑えぎみにして、形態学的、実験発生学的な知見をていねいに解説しているという印象を受けた。
本書で示された脊椎動物の進化に関する2つの考察が興味深い。一つは、脊椎動物の起源においては、「体幹の特殊化として頭が生じたのでもその逆でもなく、体軸の前極と後極それぞれに頭と体幹は特殊化していったのである。その意味で迷走神経堤は最もオリジナルな神経堤細胞の発生領域を示している」という考察、もう一つは、ナメクジウオに似た祖先から脊椎動物が進化した過程では、神経系の「末梢化」が起こり、神経堤細胞の移動能はこの変化に対応しているのではないかという考察、である。
ちなみに、倉谷氏も大隅氏も青土社の『現代思想』誌に格調の高い論文(たとえばこれ)を書いたりしてしまうという理論家でもある。あとがきによると倉谷氏は「脊椎動物の分節的頭部パターニング」の本も書いておられるそうなので、期待して待っています。

<東京大学出版会(UP BIOLOGY 97):1997年10月刊:本体1800円>
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幻惑の死と使途 ― ILLUSION ACTS LIKE MAGIC ―(森博嗣
「諸君が、一度でも私の名を叫べば、どんな密室からも抜け出してみせよう。私は、必ずや脱出する。それが、私の名前だからだ」 ―― そのように語る天才奇術師、有里匠幻が、その得意とする「奇蹟の脱出」ショーの最中に殺害された。衆人監視の中の殺人であるにも関わらず、犯人も殺害方法も分からない。しかし事件はそれだけでは終わらない。彼は死してなお、葬儀の最中に棺の中から「脱出」するという奇蹟を行ってしまう。生前、彼が口にしていた言葉通りに。
森先生の「犀川&萌絵シリーズ」、新5連作の第一作目。

殺人と死体消失のトリック自身は、奇術のネタ的で、明かされてしまえば「なるほど」で済んでしまうのだが、そのネタを可能にした背景になっている「トリック」は『すべてがFになる』等のそれを彷彿とさせるスケールの大きさであり、『笑わない数学者』に通じる「不定さ」をはらんでいて、森博嗣的味わいが十分に楽しめる作品になっていると思う。さて冒頭の人物は誰でしょう、そして「最後の脱出」を行ったのは――?

<講談社ノベルス:1997年10月刊:本体930円>
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と学会白書 vol.1(と学会)
「と学会」は3ヵ月に一度、会員がそれぞれ見つけ出してきたトンデモグッズ(本にかぎらず、ビデオ、CD、その他のグッズも対象になる)を紹介する「例会」を開いているそうだ。本書は前半でその例会の様子の紹介し、後半の座談会では「と学会」の誕生のいきさつと、その(とかく誤解されやすい)スタンスを、「と学会」の中心的メンバーが語る、という構成。「と学会」の活動の様子が分かる本。

短い紙幅でたくさんのトンデモグッズが紹介されているので、それぞれの面白さがいま一つ伝わってこない。単に変なものを紹介するというだけなら、『VOW』の方がネタが豊富だし。やっぱり対象をしぼって、もう少しねちっこく楽しませてくれる方が読者はうれしいのじゃないかと感じたのだけど、どうでしょう。
ちなみに vol.2 は12月に出るそうです。

<イーハトーヴ出版:1997年9月刊:本体1300円>
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東大オタク学講座(岡田斗司夫
岡田斗司夫氏が東大駒場で開講した「オタク文化論ゼミ」の内容をまとめたもの。前半「光のオタク編」はゲーム、アニメ(ゲスト:ロトこと氷川竜介)、まんが(ゲスト:フレデリック・ショット)、オカルト(ゲスト:皆神龍太郎、志水一夫)をとりあげ、後半「闇のオタク編」ではアート(ゲスト:村上隆)、ゴミ漁り(ゲスト:村崎百郎)、やおい(ゲスト:青木光恵)、戦争(ゲスト:兵頭二十八)、変態(ゲスト:唐沢俊一)、『ゴーマニズム』(ゲスト:小林よしのり)をとりあげる。
内容はここで紹介するよりも、直接このページを見てもらったほうがよく分かるでしょう。

僕が一番面白かったのはロトこと氷川竜介氏(『20年目のザンボット3』の著者)の「アニメ各論:エフェクトアニメ進化論」。金田伊功以後のアニメ表現、技法の流れを概説したもの。本で読んでも面白いが、実際の講義ではビデオを使って解説しているから、もっと面白かったに違いない。こういう講義を誰かテレビでやってくれないだろうか、夏目房之介がNHK教育でやったマンガ講座みたいに。
あとは村崎百郎氏のゴミ漁りに関する語りもなかなかにディープで、読ませる。ゴミに出されていたビデオを拾って『エヴァ』にはまった、という逸話には笑ってしまう。
残念なのはすべての講義が収録されてはいないらしいこと。上記のページの授業内容紹介と比べて見ると、竹熊健太郎氏をゲストに招いての「まんが各論」、飯野賢治氏を招いての「ゲーム各論」、「ドラッグ」(ゲスト:青山正明) 、「オタクの限界」(ゲスト:浅羽通明)などはこの本には入っていない。色々事情はあるのでしょうけどね。

<講談社:1997年9月刊:本体1800円>
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流れよわが涙、と警官は言った(フィリップ・K・ディック)
誰もが知っているスーパースターだったはずのジェイスンが、事故による意識不明から目を覚ましてみると、彼は身の安全を保証してくれる身分証明書を一切失っており、そればかりか国家のデータバンクからも、人々の頭からも、彼に関する情報はすべて消え失せていた――。

読んでいる間はそれなりに面白いのだけど、読み終わると不満が残る。不条理な事件が提示されて、こちらはそれへの興味で読んでいるわけだから、きちっと解決をつけて欲しいのに、何かはぐらかされたような感じで終わってしまう。(まあ一応説明らしきものはあるのだけれど、何が何やらさっぱり分からない。)作者が書きたいのはそういうことではなく、不条理な状況は単なる必要な舞台装置にすぎないのかもしれないし、はじめからそう割り切って読んでいれば、確かに面白い話ではあるのだけれど。それでももう少しきちっと理屈を通して欲しかったと思ってしまうのは、僕の最近の読書傾向がミステリの方に傾いているからでしょうか。

<ハヤカワ文庫SF:1989年2月刊>
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新版・史的システムとしての資本主義(I・ウォーラーステイン)
「史的システムとしての資本主義」の原語は「Histrical Capitalism」である。著者によれば資本主義は決して「自然な」あるいは「普遍的な」システムではない。それは「ひとつの歴史的システム」、すなわち、「15世紀末のヨーロッパに誕生」し、「時の経過にともなって空間的に拡大し続け、19世紀末までには地球全体を覆うに至」り、「今日もなお全地球をカヴァーし」ている<単一の>システムであり、またそれ自体が歴史の産物であるということと同時に、いずれ近いうちに終焉を迎えることを避けられないという意味でも<歴史的な>システムである。
著者はまた、資本主義に対する批判者(たとえばマルクス主義者)さえもが囚われている観念を批判する。たとえば資本主義のイデオロギーの「要の石」である「普遍主義」と、その理想である「真理」は近代世界にとって「アヘンの役割」を果たしてきたという批判、あるいは資本主義はそれ以前の社会システムと比べてより進んだシステムであるとさえ言えないという批判などである。資本主義は性差別、人種差別といった新しい差別を生みだしており、また世界の人口の大多数の生活はむしろ過去の時代より窮乏化している。これは「進歩」とは言えない、と著者は言う。
ここに見られるように、古いシステムから新しいシステムの移行は、必ずしも「進歩」であるとは限らない。資本主義もいずれは何か別のシステムへと移行するだろうが、問題はその新しいシステムが「進歩」と言えるようなものになるかどうか、である。「進歩は必然ではない。われわれはそれを求めて闘っているのだ。」と著者は言う。

本書は「世界システム理論」に関する入門書であり、僕のような社会科学の門外漢にも読み易い本だが、その主張している中味はかなり大胆なもので、おいそれとは理解しがたい。特に「普遍主義」や「進歩」の観念に対する批判は、なるほどそういう見方もできるなあと思う半面、もう少し色々な材料を検討して考えてみないと納得しがたいという思いも強く感じる。それだけ「真理」や「進歩」の観念が資本主義システムの中にいる僕らの脳脊髄血肉にまで染み込んでいるということなのかもしれないが…。

<岩波書店:1997年8月刊:本体2400円>
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妖怪と歩く ― ドキュメント・水木しげる ― (足立倫行)
2年間にわたる水木しげるへの密着取材によって、その人物像を描き出すルポルタージュ。著者は水木氏本人へのインタビュー、アメリカ先住民ホピ族を訪ねる旅への同行、家族やアシスタント、郷里(境港)の友人など多数の人々への取材などを通じて、「正体不明の人」水木しげるの「正体」をつかまえようとする。
1994年に出版された単行本の文庫化。

読んで思うのは、やっぱり水木しげるという人は天才の一種なのだろうな、ということ。凡人の論理では捉えきれない、自分独特の筋のようなものを持っている人で、ノンフィクション作家が魅力を感じるのは、よく分かる。マンガ以上に本人が面白い人なんだろうね。

<文春文庫:1997年9月刊:本体476円>
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もう一つの上野動物園史(小森厚)
100年を越える上野動物園の歴史の中から、様々な事件をとりあげて紹介する。著者は『上野動物園百年史』という本の編纂委員長を務めた人で、本書もそれを下敷きにしているが、戦後の事件は著者自身が関わった体験をもとにした話が多い。

微笑ましいエピソードもたくさんあるのだが、動物が病気になったとか死んだとかいう話も、また多い。どちらかというと、そういう暗い話の方が印象に残ってしまって、読んだ後にはちょっと気が滅入ってしまった。野生の動物をその本来の生息地から連れてきて飼育することの難しさを感じさせる。

<丸善ライブラリー:1997年7月刊:本体620円>
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謀殺のチェス・ゲーム(山田正紀)
ゲーム理論を駆使する自衛隊の若きエリート集団「新戦略専門家」と、自衛隊内の敵対勢力「愛桜会」、そして国家的機密である国産新型対潜哨戒機PS-8を奪った謎の勢力の、知力をふりしぼった三つ巴の戦いを描く、山田正紀のアクションもの。
古本屋でたまたま見つけてついつい読んでしまった。中学、高校のころは山田正紀は僕のお気に入りの作家の一人だったので、そのころの作品はたいてい読んでいる。本書も再読になるのだが、ストーリーはもうすっかり忘れていて、面白く読めた。そういえば「非ゼロ和ゲーム」なんて言葉を初めて知ったのも、この本だったなあ。

<角川文庫:1982年11月刊>
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科学哲学者 柏木達彦の冬学期
[原子論と認識論と言語論的転回の不思議な関係、の巻](
冨田恭彦
『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏 [ 科学ってホントはすっごくソフトなんだ、の巻 ]』に続く柏木達彦シリーズ第二弾である。今回のテーマは「言語論的転回」。けれど話はまず、「物に色はあるか」という話から始まって、古代ギリシアの原子論へと進んでいく授業の風景から始まる(第一話)。第二話では、相変わらず忙しい柏木先生の所へ二人の学生が「言語論的転回」について質問にやってくる。そこで柏木先生はまず「言語論的転回」の前段階として、西洋哲学の「認識論的転回」、つまりデカルト、ロック、カントの認識論から説明を始める。第二話後半でいよいよ話は「言語論的転回」に入り、論理実証主義の哲学が解説される。第三話ではリチャード=ローティによる「言語論的転回」さらには「認識論的転回」に対する批判が解説される。最後にそのローティの見解に対する(特にロックの理解に関して)柏木先生からの批判が述べられる。

ローティの説を解説している部分がちょっと急ぎ足の感じで理解が難しかったが、とりあえずローティが「特権的知識」による認識の「正統化」を批判しているということだけ飲み込んでおいて、最後のロックの認識論についての柏木先生の意見を読むと、うーん、これは大変面白い。原子論から「認識論的転回」へとわざわざ丁寧に解説してきたのはなぜだったのか、ここですっきりと合点がいく。要するにロックの「認識論」はローティが批判しているような「特権的知識による正統化」を目指したものではなく、当時のヨーロッパ人の自然哲学(科学)であった「原子論」にもとづく、「自然化された認識論」だったのではないか、ということだ。その後の、「自然科学的な考え方に基づいて自然科学の可能性や限界について論じる」という「循環論」についての問題提起も面白い。

むかし読んだ認識論に関する本(タイトル失念、たしか青木書店から出てる唯物論系の本)で、西洋の合理論と経験論という2つの認識論の流れ、そしてカントのアプリオリな認識の枠組みといった問題を、今日では進化論に基づく動物行動学や、ピアジェなどの発達心理学、チョムスキーなどの言語学、という形で(つまり諸科学の成果の上に立って)もう一度、考え直すことができるのではないか、というような議論があったのを記憶している。それを読んでなるほどと思う半面、それってやっぱりデカルト、ロック、カントの議論とは、議論のレベルが違うのじゃないか、という気もした。つまりそういうフィジカルなレベルの議論が、まさにそのフィジカルな認識自体の正統性を問題にしてきた「認識論」のような「哲学」に対して、何か言うことができるのだろうか、という疑問だ。だから、ロックからして当時のフィジカルな議論に基づいて「認識論」を立てたのだという柏木説は、僕にとってはたいへん面白い。デカルトの場合この点がどうなのかについては、柏木先生はあまり話してくれなかったのが、ちょっと残念だったけど。

<ナカニシヤ出版:1997年8月刊:本体2100円>
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男性学入門(伊藤公雄)
この男性優位社会において抑圧されているのは女性ばかりではない。男性もまた「男らしさ」の神話にしばられ、悩み苦しんでいるのではないか。女性たちが抑圧をはねのけ、豊かに生きるために「女性学」を作り出したのなら、それに対応する形で「男性学」というのもあって良い――ということで、本書はその「男性学」の入門書。悩める男性たちの実態、その背後にある「男らしさ」の呪縛、文化と歴史の中における男と女の関係、「女性学」と「男性学」の関係、男性がより良く生きるための処方箋、といった内容だ。

僕自身は男らしくありたいと思ったことは(覚えている限り)ほとんどないし、「男らしくしろ」と育てられた覚えもないし、他人を支配したいとも思わないし、他人に勝ちたいとも思わないし(大体、競争が嫌いだし)、本書の「男の自立度チェック」の成績も良いし、まあ「抑圧」の度合はだいぶ低いんじゃないかと思う。性別役割分担を前提とした今の社会では、男のジェンダーロールを求める圧力というのはそれなりにあるわけだが、女性に対する圧力に比べればどうということはないし。ただ「男はコミュニケーションが苦手」という指摘には思い当たる節が無いでもないが (^^;。
もちろん自分のことだけでなく、社会全体の男と女の置かれている状況というのを考える必要があるわけで、その点では著者の主張にはまったく賛成だし、もっとみんなが「らしさ」や押し付けられた役割から自由に生きられる社会を作っていくべきだと思う。女が「男並み」になることによって実現される「男女平等」というものの行き着く先は、どうやらものすごく窮屈なものになりそうだということが見えてくると、逆に男が色んな意味で「女並み」になることが必要なんじゃないの、という発想は当然出てくるだろう。性別役割分担を前提とした今の社会から、男も女も等しく仕事をし、社会参加し、家事をし、子供を育てる、それが当り前の社会へと変えていくこと、そしてその前提として、この経済優先、効率至上主義の競争社会をもっと穏やかなものにしていくことが、僕らがもう少しまともに生きて行くために必要なことだと思う。

<作品社:1996年8月刊:本体1600円>
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うわさが走る ― 情報伝播の社会心理 ― (川上善郎)
「うわさ」は人々が「どうしても伝えたい」と思ったものを人に伝えるコミュニケーションプロセスである、と著者はとらえる。マスメディアからの情報が溢れる中でとかく軽視されがちな「うわさ」という情報伝達の仕組を、社会心理学的にとらえ直そうとしている本である。
主な内容は、うわさはどのようにして発生するのか。うわさはどのような経路を流れるのか。伝わりやすいうわさにはどのような特徴があるのか、またうわさが伝わりやすい状況はどのようなものか。ゴシップの特徴と機能。うわさの管理法。ニュースの伝達におけるマスメディアとパーソナルコミュニケーションの役割の比較。そして、電子ネットワーク社会におけるうわさについて。それぞれ心理学的な実験やアンケート調査等のデータをもとに、議論されている。

前半の議論もたいへん面白いのだが、僕が興味があるのは、何といっても最終章の電子ネットワーク社会におけるうわさについてである。本書ではインテル社のCPUのバグ騒動と、「メールで伝わるウイルス」"Good Times"のうわさを例に取り上げて考察しているが、ページ数も少なく、ちょっと(だいぶ)喰い足りない感じ。この辺りに論点を絞った本を読んでみたいと思った。

なお著者が中心になって活動している「うわさとニュースの研究会」のページがこちらにあるそうだ。

<サイエンス社「セレクション社会心理学」16:1997年5月刊:本体1400円>
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パソコンを疑う(岩谷宏)
ソフトウェアのユーザのニーズは一人一人違っている。「プロのプログラマ」は、ユーザの行いたい作業に関してはまったくの素人であり、そのような人々が作った(しかも中味が完全にブラックボックスの)アプリケーションを、ユーザが一方的に押し付けられるという現状はおかしい。そもそも「プロのプログラマ」というものの存在自体がおかしい。プログラムはその情報処理を必要とする当事者が作るべきものである。WindowsやMacOSのように巨怪で粗悪なブラックボックスOSは最悪で、このようなものは全く使い物にならない。OSはユーザのニーズをベースにした、ユーザが隅々まで中味を知っているものでなければならない――。著者の岩谷氏はこのように主張する。

著者の言うことも分からないでもないが、僕が思ったのは、ユーザにも色々いるでしょう、ということ。著者のように考える人はUNIXなりなんなりを使って、自分の使うソフトは自分でコードを書いて、という道をとれば良いけど、僕の生活や仕事はそこまでやるほどパソコンに依存していないしね。日本語と英語が編集できて、2、3のインターネット・アプリケーションが使えて、仕事上必要な2、3のソフトが使えれば最低限良いわけで、そういう意味では今のMacOSで僕は十分だ。必要ならプログラムを書くこともあるかもしれないけど、現状ではそんな暇があるなら他のことをする。で、その程度のニーズしかもたないユーザがとにかく初めてパソコンをいじってみて、曲がりなりにもなんとか使えるようになる、ということを実現するためのOSとしては、MacOSはとても優れていると思う(Windowsは使っていないから知らない)。少なくともMacOS上で既製のアプリケーションを使うほうが、UNIXを勉強して、プログラミングを勉強して…、という入り方よりはずっと敷居が低いはずだ。そしてコンピュータ社会の現段階では「敷居が低い」ということは非常に重要なことだと僕は思う。それ以上のことは、より特殊な「ニーズ」を持つ人がやれば良いのでは?

<講談社現代新書:1997年8月刊:本体640円>
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哲学者かく笑えり(土屋賢二)
お茶の水女子大の哲学の教授である土屋氏のエッセイ。
著者いわく「ユーモア・エッセイ」ということで、うーん、まあ、確かに面白いんだけど、「哲学者」とはあんまり関係がないような気が…。
ところでこの本、いしいひさいち氏のマンガが挿入されていている。それで思い出したんだけど、『現代思想の冒険者たち』シリーズの月報(っていうのかな?)にもいしい氏の4コママンガが載っているんだよね。いしい氏って哲学系の人だったのかな?

<講談社:1997年7月刊:本体1400円>
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翔太と猫のインサイトの夏休み ― 哲学的諸問題へのいざない ― (永井均)
先日読んだ、『<子ども>のための哲学』とセットで読むのに適した本。中学生の翔太と哲学者である猫のインサイトが哲学の諸問題をめぐって対話する。「僕らは本当は培養器の中の脳かもしれない」、「僕が見ている『赤』と他人が見ている『赤』は同じなのだろうか」、「善悪の客観的な基準はあるか」、「人間に自由意志はあるか」というような問題――考えることの好きな「子ども」がよく捉えられる問題――を取り上げている。

こういうことを考え始めると、僕の場合、そういうことは知りえない(検証できない)ことだから考えても無意味、という結論にすぐに至ってしまって、その時点で考えることを放棄してしまうのだが、猫のインサイトは哲学者だけあって翔太を誘導しながら深くねちっこく思考を進めていく。そのプロセスは読んでいて大変楽しい。
読んでいて印象に残ったインサイトの台詞をメモしておきます。
「あらゆる非常識をのこりなく包み込んだうえで常識に達するのが哲学の理想なんだ。でも、たいていの場合、そこまで行き着くまえに力つきて倒れてしまうもんだから、哲学者がまるで新しい思想の提唱者のように見えてしまうんだ。」
「ぼくらはね、ぼくらの生きていることの前提になっている様々な偶然性を受け入れて、その中で生きるしかないんだよ。それが出発点なんだ。」
「世界をもつ主体はね、もうすでに、ふつうの意味での必然や偶然の外にいるんだから、決定論と闘う必要なんかないんだよ。」

<ナカニシヤ出版:1995年12月刊:本体1942円>
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20年目のザンボット3(氷川竜介)
1977年制作の巨大ロボットアニメ『無敵超人ザンボット3』の本。基本設定の紹介、全23話のストーリー紹介、キャラクター、メカ・デザイン、音楽に関する論考、アニメーター金田伊功の仕事に関する考察、富野喜幸監督の発言とそれに関する考察、そして「オタク第一世代」論――という構成になっている。特に金田伊功論は多数の原画などをちりばめて、アニメの「絵」のオタク的鑑賞法の実例として秀逸だ。

『無敵超人ザンボット3』は僕にとっても心に残るアニメだった。とは言え、再放送を見たのもたぶん15年以上は前だから、記憶が不鮮明な部分も多い。ストーリー紹介を読みながら、色々な場面を懐かしく思い出した。敵だけでなく「味方」であるはずの地球人からも孤立して戦い続ける主人公たち「神ファミリー」の苛酷な運命。「人間爆弾」という敵の作戦になす術もない主人公たちの無念。最終決戦の中で次々と死んでいく「神ファミリー」の面々――そして迎える最終回ラストシーンの副主題歌が流れる場面は、もう涙なくしては見られない、『ダイターン3』や『ガンダム』の最終回、『マクロス』の「愛は流れる」などと共に、子供心に深く刻まれた名場面だった。いま見ても泣いてしまうかも(笑)。うーん、LD欲しい…。36000円か…。

ところで本書は『オタク学叢書』のvol.1として出版されている。記念すべきvol.1に『ザンボット3』という選択は僕的には非常にうれしい。富野氏の作品って、『ガンダム』〜『イデオン』〜それ以降の流れで論じられることが多いように思う。それだけ『ガンダム』はすごかったし、後に与える影響も大きかったということなのだけれど、『ガンダム』当時の感覚としては当然のことながら『ザンボット3』〜『ダイターン3』〜『ガンダム』という流れで『ガンダム』のブレイクが捉えられていたわけで、「巨大ロボット物」というジャンルが『ガンダム』的な方向へ向かう源流がそこにあったという意味でも、『ザンボット3』は重要な作品だったのだと思う。
うーん、やっぱりLD買おうかなー(笑)。

<太田出版:1997年8月刊:本体1900円>
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カルトな本棚(唐沢俊一)
本人も相当ーにカルトな人である唐沢俊一氏が、「カルトな人々」を訪ねて、その本棚を覗きながら本に関する様々な話をする、という企画の本。登場するのは唐沢氏が親しくつきあっている人ばかりだそうで、「と学会」の山本弘氏、作家の佐川一政氏、マンガ家の唐沢なをき氏、編集家の竹熊健太郎氏など8名。それに加えて唐沢氏本人の本棚も紹介されている。

「カルトな人々」だけあって、本書の特に前半から中盤に登場する人々の本棚は、かなりアヤシく、こんなの見せてしまっていいのかなーと他人ごとながら心配になる。それとくらべると後半の唐沢なをき氏や竹熊健太郎氏の本棚はずいぶんまともに見える。とは言っても、やっぱり変な本が多いのだけど。
本棚を細かく見ていくと、唐沢なをき氏の本棚では『坂本式動物剥製法』なんて分厚い本が妙な迫力をかもしだしていたり、竹熊氏の本棚に生物学とくに今西進化論関係の本が並んでいたりして、面白い。やっぱり、人の本棚を覗くのは楽しいですね。本を手にとって見れないのが残念だけど。

<同文書院:1997年8月刊:本体1457円>
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天使の王国 ― 平成の精神史的起源 ― (浅羽通明)
オカルト、伝言ダイヤル、コンビニエンス・ストア、オタク、現代思想、などを題材に、「平成の精神」を読み解く試み。『別冊宝島』に発表された論考が中心になっている。

ほとんどの章は、可もなく不可もないというか、『別冊宝島』レベルの気楽に読んですぐに忘れてしまうような話で、特にコメントすることもない。ただ最後の章、『新聞投書に見られる「発言したい欲望」――精神病理としての正義』は、ちょっとどうかと思う。
社会問題にたいして専門家でない一般の人が意見を述べたり、なんらかの行動を起こしたりすることに対して、著者は、素人が言う意見は無責任で参考にもならないとか、そんな行動は実効性のない自己満足、自己陶酔でしかないとか言って冷笑し、ご丁寧に心理分析までしてくれているのだけど、なんか、大きなお世話という感じ。社会問題に関心をもった高校生の子供に対して「そんなことはお前には関係ないし、お前みたいな子供が青くさいことを言っても世の中は変わらない。そんなことは偉くなってから考えればよい、今は勉強して偉くなることを考えろ」とか言って自分で考えることを抑圧しようとするダサいオヤジみたいだ。だいたい著者の言う意味での「実効性」を求めることは、現実社会の大枠を肯定し、その前提の上でより有効な方策を求めるということでしかないように思える。でも別に誰もがそんな「実効性」に義理立てする必要はないでしょう?
初めは素人の素朴な意見でも良いし、借り物の意見でも良いから、考えて議論していく中で地に足のついた自分の考えができてくるものだし、行動の「実効性」(下から世の中を動かせる力)は行動するなかでだんだんとついていくものだろう。実際にそうやって世の中が動いていく局面だってあるわけだし。何か、そういう市民運動みたいなものへの嫌悪感を表明するために理屈を並べたてただけ、というような感じがした。

<幻冬舎文庫:1997年8月刊:本体533円>
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ヤーンの星の下に(グイン・サーガ 57巻)(栗本薫)
タリオ大公率いるクム軍を破ったイシュトヴァーン軍は、その勢いでクムの都ルーアンをめざす。しかしイシュトヴァーンの胸中にはクムを落とした後の各国の出方、なかでもパロの動きへの不安があった。イシュトヴァーンはクムとの休戦期間を利用して、アルド・ナリスと密会するためにパロへ潜入することを決意する。

ゴーラとパロ、ひいては中原全体の運命を大きく変えることになるであろうイシュトヴァーンとナリスの会談に向かって、物語が大きく動いていく。イシュトヴァーンはナリスとグインと自分の3人で中原を治めていくという構想をカメロンに語り、ゴーラの戦乱とグインの冒険が終わった後にはいよいよ「三国志」時代の到来か、という期待がふくらむ。
外伝につづいて本編も末弥純のイラストに変わり(これがなかなか良い)、刊行ペースも上がりそうで、期待大。

<ハヤカワ文庫JA:1997年8月刊:本体500円>
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<子ども>のための哲学(永井均)
価値や人生の意味や生き方を問う哲学は「青年の哲学」である。それに対して、<子ども>の哲学とは存在を問う哲学、「どうしたら良いか」ではなく「どうなっているか」を問う哲学である、と著者は言う。本書は「なぜぼくは存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないか」という、永井氏が子どものころから疑問に思い、大人になるまで考え続けてきた(しかし世の中ではあまり「問題」だとは思われていない)2つの問題をとりあげ、「哲学のやりかた」を実例で示す、「哲学入門」である。

たいへん面白く読めた。永井氏の特に一つ目の問題「なぜぼくは存在するのか」は、僕がやはり子どものころ(小学生くらい?)に不思議に思った問題と似ている(けど違った)問題で、色々と昔考えたことを思い出した。
僕のもっていた疑問は、たぶん、「自分の意識が存在する」ことの不思議さだったと思う。脳から意識が生まれるということそのものがまず不思議だったし、それが「自分の意識」というものを生み出しているということも不思議だった。そして「この自分」が存在する「確率」は、気が遠くなるくらい小さいはずなのに、それにも関わらず自分がいる、ということが不思議でしようがなかった。SFの影響で、無限に存在するパラレルワールドを考えれば自分がそのどこかに存在することは必然になるなあ、と考えたり、実は「意識」というのは世界に一つしかなくて、それぞれの人の意識はその一つのものの現われなのだが、個々の人の意識はそれに気付いていないだけなのじゃないか、とか、荒唐無稽なことも考えた。スタートレックに出てくる人間を転送する装置を見て、送られる前の「自分」と送られた先に現われる「自分」が同じ「自分」だと何故言えるのか、もしかしたら送られる前の「自分」は死んでしまって、送られる前の「自分」と同一人物だと勘違いした人が新たに作られるだけではないのか、なんて事も考えた。いや、そうだとしたら、この日常においても、一瞬前の「自分」と今現在の「自分」が同じ「自分」だと何故言えるだろうか。「自分」の意識は瞬間ごとに死んで次の新たな「自分」が刻々と生まれているのだとしても「自分」はそれに気付かないだろう(「世界は3分前に創造された」仮説の変形のようなもの?)。だとしたら、そんな実体の不確かな「自分」なんてものが本当に存在するのだろうか。「自分」が存在すると思っているのは、実はなにかの錯覚なのじゃなかろうか…。
まあ、こんなようなことを考えていたのが僕の子どもの頃だった。僕は永井氏のようにこの種の問題を考え続けることはなかったが、かといってそれを忘れてしまったり、永井氏のいう「青年の哲学」に移行していったのかというと、それも違うような気がする。
永井氏も言うとおり、人がとらわれる<子ども>の問題の中味は一人一人違う。そして答に近づく方法もまた違うだろう。上に書いたことも「僕の問題」の一つだったわけだが、他にも色々な「世界の不思議さ」を僕は感じていたと思う。そしてそれらの問題の答は、たぶん「考える」だけでは得られないだろうと、僕は思った。というか「考える」ことだけから得られた「答」には、僕は満足しないだろう、つまり実際にこの世界について「調べる」という(経験科学の)方法を使わなければ、僕自身の納得のいく答は得られないだろうと思った。自分の方法として自然科学を選んだのは、たぶんそのためだったのだと思う。僕も「哲学」に興味がないわけではないが、深く突っ込んでやろうという気がおこらないのは、その辺に原因があるのかなと、読みながら思った。

<講談社現代新書:1996年5月刊:本体631円>
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新しいヘーゲル(長谷川宏)
ドイツ観念論は難しく、なかでもヘーゲルはとびきり難解だ、という通念に対して、著者は、そんなことはない、と言う。「素直にヘーゲルの言わんとすることを追っていけば、おのずと理解が得られるようにその哲学は語られている」という。確かにこの本を読んでいると、何となく理解できるかな、という気もしてくる。
しかし、著者には申し訳ないけど、やっぱりヘーゲルは難しいと思う。この本を読了後、ためしに本棚の奥から岩波文庫の『小論理学』を引っぱり出してきて「第一部 有論」というところをめくって見たが、やはり(昔読もうとしてあえなく挫折したときのように)さっぱり分からない。翻訳の問題、日本への紹介のされ方の問題がヘーゲルを難解にさせているという側面も確かにあるのかもしれないが、でもこれはやっぱり本当に難しいのじゃなかろうか?たとえばドイツ人の普通の大学生がこれを原書で読めば「おのずと理解」できるものだろうか?うーむ、そうだとしたらすごいぞ>ドイツ人。

<講談社現代新書:1997年5月刊:本体640円>
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熾天使の夏(笠井潔)
『バイバイ、エンジェル』でパリに住む神秘的な東洋人青年として登場した「矢吹駆」の、過去を描いた作品。『バイバイ、エンジェル』とほぼ同時期に書かれた作品だが、二十年の歳月を経て今年の『メフィスト』に掲載され、今回単行本化された。

『バイバイ、エンジェル』を読んだときは、最後の矢吹駆と真犯人の思想的対決に、とってつけたような印象を受けてちょっと不満だったのだが、これを読んで矢吹駆の背景が分かると、大分得心がいった。ただミステリを期待して読むと完全に裏切られる。大体、ストーリーらしきものはほとんどなく、矢吹たちの爆弾テロ事件と、逃亡後の「植民地都市」でのギャンブル以外は、ほとんど矢吹の思考の渦の描写に終始している。しかもそれが陰鬱としていて観念的でひとりよがりにしか思えないので、読むのは結構大変だった。『メフィスト』の読者がこれを喜んで読むとは僕には思えないのだけど、どうなんでしょう。

<講談社:1997年7月刊:本体1600円>
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DNA伝説 ― 文化のイコンとしての遺伝子 ― (ドロシー・ネルキン&M・スーザン・リンディー)
アメリカ社会で「遺伝子=DNA」に関する知識やイメージがどのように大衆的に理解され、大衆文化の中で表現され、社会的・政治的に利用されているかを、莫大な例によって検証し、その問題点を考察している。

「遺伝子科学が研究室から大衆文化へ、専門的なジャーナルからテレビのスクリーンへ、と移動するにつれて遺伝子は変貌した。それは一片の遺伝子情報であることをやめて人間関係を解く鍵となり、家族結合の基盤になった。プリンとピリミジンの紐であることをやめ、独自性の本質となり社会的差異の源泉になった。要するに遺伝子は、重要な分子であるかわりに、俗界において人間の魂に相当するものになったのだ」(本書第10章)
犯罪、麻薬・アルコール中毒、貧困といった問題の原因が「遺伝子」に帰せられる。同性愛などの人間行動、IQの違い、男女の行動の違いなども遺伝子に基づく「生まれつき」だとされる。親子関係は愛情に基づく接触よりも遺伝学的類似性に依存するものとされる――このような「遺伝子本質主義」が現代のアメリカ社会で広く受け入れられている。このような考え方には必ずしも科学的な裏付けがあるわけではないが、大衆に向けて主張され、受け入れられることによって社会的力としては十分に強力なものとなる。たとえば子供の保護権をめぐる裁判の結果に影響を与えたり、出産や育児に関する人々の行動を左右している。また人種/男女/障害者差別、優生学的政策、社会福祉の抑制などの主張にも「遺伝子」が利用されている。

まず問題だと思うのは、科学的な裏付けがあるわけではないのに専門用語を使うことで「科学的」であるかのように装ったり、科学理論を適用限界を無視して援用するようなことが広範に行われていることだ。単なるおしゃべりならまだ良いが、それが世論の形成に影響し、社会を動かすとなると看過できない。商業的マスコミは「男の浮気は遺伝子のせい」式のポップで「面白い」(それはしばしば学問的厳密さには相反する)話に飛びつく。それはマスコミの性で仕方ないが、せめてそれを中和する努力が良心的なジャーナリズムと専門家には求められるだろう。もちろん専門家も証明された事実だけを語るわけではない。生命観や信念のようなものを語ることはあるし、それはそれで良いのだが、何が事実で何が推測あるいは信念なのかを区別することは素人には困難な場合が多いのだから、語る場合には十分自覚的になって然るべきだろうと思う。
もう一つは、科学的知識の政治的・社会的な利用について。本来、科学の内容と価値判断は独立のものとして考えられるべきものだろう。たとえばある遺伝子座がヒトの何らかの性質に関係していることが分かっても、それが直ちに何らかの価値判断を導き出すわけではない。生物が「遺伝子の乗り物」であるというのが百歩ほどゆずって仮に正しいとしても、我々は遺伝子の乗り物として生きる「べき」だということにはならない。過去に地球の環境が生物によって大きく変動してきたからといって、人類の環境破壊が容認されるわけではない、等々。それらの「事実」が何かを免罪したり断罪する根拠にはならないし、特定の政策を導き出すこともない。
思うに、「科学的」知識が政治的主張や価値観を生みだすというよりも、多くの場合むしろ「科学的」知識のある一側面を好んで受け止め意味づけする、その受け止め方が、その人の価値観の反映なのだろう。多様な価値観がそれぞれ自分に都合の良い「事実」を見付け出せる程度には、「科学」の内容は豊かだろうから。世間に半可通の理解があふれているとき、それを正すのは必要な事であるが、その政治的利用に対抗するためにはそれだけでは十分ではないだろう。「人は信じたいものを信じる」のだし、一つの根拠が論破されても次の材料に事欠くことはないだろうから。
そうだとすれば、アメリカ社会が「遺伝子本質主義」を受け入れる背景には、人々のどのような価値観があるのかが、この問題の核心なのではないだろうか。この本を読んでも必ずしも明確には分からないが、興味深いテーマだと思う。

<紀伊国屋書店:1997年2月刊:本体2330円>
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風少女(樋口有介)
父親の葬儀のために故郷へ帰ってきた主人公は、初恋のひと川村麗子の妹、川村千里と偶然出会い、麗子が一週間前に死んだことを告げられる。警察は事故死という結論をだしたが、主人公と千里は納得できず、麗子の周辺の調査を始める――。

『本の雑誌』6月号の「高校生小説」特集でおすすめ本として挙げられていた一冊。探していたけどなかなか見つからなくて、古本屋でようやく見つけた。僕は樋口有介を読むのは初めてだ。
ミステリとしては全然評価できない。トリックもなければ魅力的な謎も奇想も緻密な論理もどんでん返しも活劇もなく、何となく終わってしまう。キャラクタに魅力があるかといえば、そうでもないし。唯一ぼくが評価できるのは、それほど大きくない地方の街の若い連中の人間関係と生活の描き方。同年代の連中はみんな知り合いみたいな感じで、誰は誰に惚れていたの、誰と誰がくっついたの離れたのという類の話がぐるぐると回って煮つまっていくような閉塞した感覚は、何かすごくよく分かって、リアルだ。

<文春文庫:1993年5月刊:本体427円>
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マーチ博士の四人の息子(ブリジット・オベール)
「アゴタ・クリストフが絶賛」というフランス人ミステリ作家のデビュー作。
医師のマーチ博士の家の住み込みメイドであるジニーは、ある日、家の中で殺人鬼の書いた日記を発見してしまう。その中で殺人鬼は自分はマーチ博士の四人の息子のうちの一人である、と告白していた。そして自分が犯した犯罪や、殺人の計画についても。やがて殺人鬼はジニーが日記を盗み見ていることに気付き、ジニーと殺人鬼の息詰まる戦いが始まる。

ちょっと期待はずれ。冗長な感じがするし、ジニー以外のキャラクターには魅力がない(というかほとんど描かれていない)し。それを克服するだけのトリックがあれば許すのだけど、これも期待したほどではなかった。この半分の長さだったら良かったかも。

<ハヤカワ文庫HM:1997年2月刊:本体600円>
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鉄塔 武蔵野線(銀林みのる)
武蔵野線の鉄塔を辿って行けば、最初の鉄塔に行き着ける――「武蔵野線75-1号鉄塔」を出発して「1号鉄塔」とそこにあるはずの「秘密の原子力発電所」を目指して旅をする、2人の少年の夏休みの冒険。第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。

2人の少年が鉄塔を番号順に遡っていく、というだけの話が小説として成り立つことに驚く。しかもこれが面白い。鉄塔をたどっていく、という行為がとてもすばらしいことのように思えてくるし、自分が子供のころにこういう冒険を思いつかなかったことが、すごく惜しいという気持ちになる。これを読んだら、鉄塔を見る目が変わります、ほんとに。
少年の心の動きや少年同士の会話がすごくリアルなことも本書の魅力だ。そういえば子供って、こういう言い方、感じ方するよなあ、といちいち納得させられる。
ファンタジーノベル大賞受賞作でありながら、読み進めて行っても、どこがファンタジーなのかなかなか分からないのだが、最後に至ってみるとファンタジーとして終わっているという、不思議な小説。

<新潮文庫:1997年6月刊:本体476円>
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人生を<半分>降りる ― 哲学的生き方のすすめ ― (中島義道)
「あなたは間もなく死んでしまう」(←「序章」のタイトル)、だからあなたは自分のためでない仕事、社会的に有益な仕事から手を引き、自分のための時間を確保しなければならない。そして人生にとって一番重要なこと、すなわち自分の死について考え、人生について考えるという仕事をするべきなのだ――という<半隠遁>のすすめ。

この本の大半は学問研究、とくに「哲学研究」への辛辣な批判(それはもちろん哲学者である著者自身への自己批判も含む)で埋められている。過去の大哲学者たちが真摯に語った言葉を自分のものとして「生きる」のではなく、「研究」し論文を書くという形で消費するだけの「哲学研究者」たち。そのような「研究」はもういいから、生き方と一致するような「哲学」をしよう、というのが著者の<半隠遁>のすすめである。
「どうやっても私たちは『善い人』にはなれない」、「勝つことは醜い」など、全体にペシミスティックな議論が続く。語り口の軽妙さが重苦しさをいくぶん和らげてくれてはいるが、真面目に受け取ると結構つらいものがある。<半隠遁>することで、こういう問題に解決がつくことが保証されているわけでもない。解決がつかないとしても考え続けていくしかとるべき道はない、というだけだ。
著者は「宇宙や生命の起源を探ること…ですら厳密には『自分のため』の仕事ではない」と言う。「それは『この私』という謎にグサリと切り込むのではなく、『今存在している私がまもなく死ぬ』というこのおそるべき謎を傍らに押しやって、膨大な時間をこれとは別の『一般的なこと』に費やし、そうすることによってすぐ傍らにあるこの最大の疑問を、綿密に覆い隠してしまう」からだと言う。
僕もこの主張はある部分で良く分かる(僕も死を恐れる人間だから)のだが、やはり納得しがたい部分もある。「自分」という謎と同じように、僕にとっては(自分の研究対象である)「生命」も解かずにはいられない謎である。重要さに順序はつけられない。もっと言えば、「自分」という謎に近づくためにも、哲学よりも自然科学のほうがより良い道だと思ったから、生物学を選んだとも言える。だから僕は自分の仕事(生物学の研究)が自分にとって意味のあることだと思っているし、「自分のための」仕事だと思っている。つまりそれは単なる「一般的なこと」ではない――しかしそうは言っても、その欲求が自分のどれだけ深いところから出てきているのか、ということも時々は考える。人類が滅亡して自分一人が生き残ったとして(つまり研究の成果を見て評価してくれる人が誰もいないという状況で)、それでも自分は生物の研究をするだろうか?、なんてことを友達と話したこともある。時々、自分の余命があとわずかだったら、それでも生物の研究を続けるだろうか?と考えたりすることもある。「知りたい」と思う気持ちが消えることはないと思うが、「自分で」それをやるかどうか…。その答えは、自分でもまだよく分からない。
とはいえ僕はまだ<半隠遁>の生活に入ることはできない。人生に対する内心の忸怩たる思いがまだまだ足りないからね。歳をとってそれが積もってきたら、そのときに考えよう。

<ナカニシヤ出版:1997年5月刊:本体1900円>
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インディヴィジュアル・プロジェクション(阿部和重)
映画館で映写技師として働く主人公オヌマは、実はスパイ塾生としての過去をもつ男。渋谷を舞台にヤクザ、不良高校生たち、昔の塾生仲間、映画館の同僚の娘、あやしいアルバイターの少年カヤマらがからんで、ケンカ、殺人、火事等々の騒ぎが起こる。塾生仲間たちの死は事故か謀殺か。ヤクザから奪ったプルトニウムはどこに隠されているのか。昔の同志は敵か味方か。そして少年カヤマはいったい何者?――というような話。なんだかよく分からないと思うが、僕も分からない。こういうのが「新しい」のか?
装丁がちょっと変わっている。

<新潮社:1997年5月刊:本体1300円>
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ディプロトドンティア・マクロプス(我孫子武丸
我孫子武丸氏、久々の新作。
うだつの上がらない私立探偵のところに同時にやってきた2人の依頼人。失踪した父(大学教授で遺伝子治療の権威)を捜索してほしいという娘と、いなくなったカンガルーのマチルダさんを捜して欲しいという少女。捜索を進めるうちに2つの事件は絡まりあって…、というお話。なのだが。
ミステリーかと思って読んだいたら、全然ちがった。SFと呼ぶのもなんだし、うーん、なんて言えば良いんだろう?スラップスティック?まあ、いいや。僕の好みとはちょっと違った。もう少し、『空想科学読本』的な味付けがあったら、楽しめたかも。

<講談社ノベルス:1997年7月刊:本体円>
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ナウシカ解読 ― ユートピアの臨界 ― (稲葉振一郎
著者は宮崎駿のマンガ『風の谷のナウシカ』を「現代日本のユートピア文学の最高水準を示すもの」ととらえ、宮崎氏がこの作品がはらむ思想的難問(ユートピア問題)といかに格闘し、解決を与えたか、その解決は本当に解決になっているのか、を検討する。第3章では近代の正義論の観点からナウシカとはどのような人物なのかを解読し、第5章ではユートピア論の視点から「青き清浄の地」とは何だったのか、その真実に対してナウシカがとった態度の意味は何だったのかを読み解く。第6章では『ナウシカ』のもうひとりの主人公ともいうべきクシャナの変貌を通して、「死」の問題を考察している。

この夏は映画的には『ロスト・ワールド』でも『スターウォーズ』でも『エヴァ』でもなく、『もののけ姫』の夏になるようだ。どちらを見ても、もののけもののけである。僕は作品を観るまでは情報はなるべく見ないようにしているのだが、これだけ情報があふれていると、どうしても目や耳にちらほらと飛びこんでくる。その一つが岡田斗司夫氏がおたくウィークリーで書いていた「内容はナウシカと同じ」発言である。うーむ、そうか。いや、その真偽はともかく、やはり『もののけ姫』は『ナウシカ』との対比で観るべき作品なのだろうな、と思い、読もうと思いつつ手をつけていなかった本書を読むことにした。
僕にとって特に面白かったのは、ナウシカの立場が、特定の立場を絶対化するのではなく、他者の立場を認め、多様な世界観を承認する所にあること(近代的「正義」の立場)、しかしそれは単なる相対主義ではなく、むしろその「正義」の追求を裏打ちするものとしての事実・真理の探究をめざす者である、という観点(第3章)だ。真理に関する相対主義は、思想信条についての相対主義や文化相対主義にとってはむしろ敵対物でさえある、という考え方には目から鱗が落ちる思いがした。
おそらく『もののけ姫』も単純な善悪で割り切れない立場の対立を描く物語なのだろうと思うのだが(まだよく知らないけど)、こういう「正義」はどう描かれることになるのだろう。

<窓社:1996年3月刊:本体2505円>
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キャンパス性差別事情 ― ストップ・ザ・アカハラ ― (上野千鶴子編)
「アカハラ」は「アカデミック・ハラスメント」の略で、大学や研究所などの研究の場における性差別をさす用語である。「知性」と「良識」をもった人たちが集まっていると思われがちな大学も、性差別に満ちた男性社会であり、様々な性差別事件が起きている。いわゆるセクハラや、採用・昇進に関する差別、ボスによるアイディアの盗用や搾取、などなど。大学という組織の特殊性――「大学の自治」の名における相互不干渉と監督責任の不在、不透明で流動性に乏しい密室人事、学生あるいは下位の職種に位置する者に対してボスがもつ圧倒的な権力、専門領域の研究者集団の「ムラ社会」――が問題を深刻にしている。本書は大学における性差別の実態を明らかにし、その原因を探り、対策を考えるための本である。

この本に例示される多くの問題は、教授をはじめとした大学および研究者社会における権力者が、一方的で絶対的な権力を弱い立場の者に対してふるうことが可能な、今の大学の制度から生じてきている。ならばその権力を正当化している「大学自治」のありかたについて真剣に考える必要があるだろう。「大学自治」とは誰による自治なのか。大学によっていくらかの差はあるだろうが、主に教授、それに加えて助教授から助手までの教官集団による自治、だろう。その「自治」の場に参加できない者、すなわち学生、院生、技官その他の職員(場合によっては助手も)は、一方的に「治」められる側に立つことになる。研究室でもこの構図は温存される。アカハラに限らず、専制的な教官の下で耐え難い苦痛を味わっている学生たちも(男女を問わず)多数存在する(たとえば都立大の阿部さんによるこのページを参照)が、この権力関係に加えて、女性は弱い立場に置かれている場合が多いことと、権力をもつ立場がほとんど男性によって占められていること、これがアカハラの温床になっている。
現状では被害者個人の努力によって問題を告発し、解決のために闘うしかない。しかし本来はこのような問題の温床そのものを絶つ方策が必要なはずだ。個々の教官の「良識」にまかせるだけではおそらく問題は無くならないだろう。それにはまず、現在の一方的な権力関係をより緩やかなものにするための制度的な保証が必要ではないかと思う。たとえば今思いつくことを書くと、学生、院生の自治会等による交渉権の確立。教授会や人事の審議を学生まで含めた大学構成員に公開すること。つまり「自治」の主体を大学の全構成員に広げていくこと。あるいは教授会等から独立して不当な権力の行使を監視できる機関の設立、などなど。書いていて理想論かなとも思うが、無権利状態に置かれた弱い立場の者を守る何らかの制度が必要なことは間違いないだろう。

明らかな犯罪行為や犯罪まがいの人権侵害に加えて、研究職の採用・昇進に関する女性差別が存在している。これも本書のテーマの一つである。人事の透明性を確保すること、これが当然必要である。研究者志望の大学院生の性比と研究職の性比があまりにアンバランスであれば(現状はそうなのだが)なんらかの制度的措置が必要かもしれない。少なくとも現在の採用・昇進人事に男性への片寄りがあるならば、即刻是正が必要だろう。

キャンパスでのセクハラ・アカハラ関連ページ(国内)

<三省堂:1997年7月刊:本体1500円>
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まどろみ消去 ― MISSING UNDER THE MISTLETOE ―(森博嗣
森博嗣氏の初短編集。それぞれに味わいの異なる11の短編が収められている。森氏のミステリィ観がいちばんよく分かる単行本かもしれない。どれも捨て難いので、長くなるけど全部にコメントします。

虚空の黙祷者
本書の中では一番オーソドックスなミステリィだと思う。静かで透明な読後感。

純白の女
これが一番分かりにくかった。「魔法の時代」って、何?

彼女の迷宮
「作中作」はミステリィではよく使われる手法の一つだが、それが奇妙に料理されていて面白い。ラストの落ちは怖い。「増毛殺人事件」の合理的解決も、誰か考えてくれないだろうか?

真夜中の悲鳴
アクションもの(笑)。スピカさんのキャラクタが素敵。

やさしい恋人へ僕から
実話?いや、まさか…、と思いながら読んでいったら、落ちでやられてしまった。うまい。ラヴ・ストーリィとしてもなかなかのもので、電車の中で読んでいて頬がゆるんで困った。「ドロンパの口」が素敵です。

ミステリィ対戦の前夜
笑える作品。「読者が探偵にして犯人」という、なんかどこかで聞いたようなネタを、きれいにまとめている。最後の台詞もお見事。

誰もいなくなった
「謎とき」という意味では最も正統派の作品。犀川先生と萌絵も登場する。でも犀川先生に「三十人っていうのは、見間違いなんです」なんて、ヒントを言ってしまっては駄目でしょう。

何をするためにきたのか
森先生って、ゲームやるのかな?

悩める刑事
これもミスリーディングな作品。注意していても騙されますね…(T-T)。同じ様なネタで2度も…。

心の法則
「純白の女」に次いで分かりにくい作品。どうもこういうサイコ的な作品は苦手。

キシマ先生の静かな生活
静かな作品に始まって徐々に陽気な作品へ、そして再び静かな作品へ、という全体の流れの最後に位置する、美しい作品。普通の「ミステリィ」からは、はずれているが、読後感が良い。
「学問には王道しかない」――キシマ先生、かっこ良いです。

全体を通じて、どれもこれもかっこ良く、美しく決まっている作品ばかり。山田章博さんの光と影で描かれた挿絵も素敵だ。

<講談社ノベルス:1997年7月刊:本体760円>
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1998年1月〜
1997年1〜6月分
1995年版
1996年版目次
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彦坂 暁 (akirahs@ipc.hiroshima-u.ac.jp)