というような話で、前作に増して陰惨なストーリーと救いのない結末。読んでいて気が滅入るが、読み出すとやめられない。面白い…ってことになるのかな、やっぱり?でも、もう一度読もうとは思わないな。
<角川書店:1997年8月刊:本体1500円>
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薄いブックレットだが、内容は充実している。まずクローン動物研究の歴史とその目的を述べ、次に「ドリー」ショック以後の欧米各国(および国際的機関)の対応を、既存の法律や生命倫理に関する従来の議論との関係でまとめている。最後に、日本での対処について提言を行っている。
「ドリー」ショックの何割かは、「遺伝子」や「クローン」についての『DNA伝説』的な誤解に基づくものだったと僕は思っているのだが、それを克服してもなお、クローン技術の人間への応用については様々な倫理上の問題があるのは確かなことに思える。他方で、動物のクローン技術が生物学研究にとって興味深い技術であることも確かだ。問題は、どのような論理に基づいて、どのようなレベルで法的な規制を設定するかだ。この点で、フランスの国家倫理諮問委員会答申や欧州連合のバイオテクノロジー倫理助言グループの見解は参考になる。
いずれにせよ、日本でも、正確な知識に基づいた議論が必要だ。「無意識の底にある共通感情を明確にし、できれば論理化して意味体系を新しく獲得する努力、これほどチャレンジングな課題にそうそう直面するものではない。われわれはこの作業を断念すべきではない」という著者の意見は、世の中のクローン・ショックを、生命操作の倫理に関する幅広い議論を活性化させていくチャンスと捉えるもので、共感を覚える。
<岩波ブックレット:1997年11月刊:本体400円>
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いろんな所でいろんな人が褒めているので、読んでみたが、うん確かに面白い。ストーリーも良いし、散りばめられた色々なアイディアが最後にきれいにまとまって、ああそういうことか、と納得がいき、快い。
<ハヤカワ文庫SF:1996年10月刊:本体621円>
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僕は反科学の立場に与するものではない。しかし科学のことは(金だけ出して)科学者に自由にやらせておけ、とも思わない。科学という活動それ自体が自己目的化し、それ自体が価値になるという在り方や、科学者社会だけの論理で科学が動いていくような在り方には反対だ。科学は(好奇心の充足というようなことも含めた)人類の幸福に奉仕すべきものであり、最終的な科学のマネジメントは(専門家も含めた)社会の合意のもとで行われるべきだと考えている。そしてそのためには、社会の構成員の科学を理解することが不可欠であり、反科学の風潮はこれを阻害する深刻な問題だと思う。
この点で、科学擁護の書という、どちらかというとあまりカッコイイとは言えない本を書いた著者に、まずは敬意を表したい。しかし同時に、各論の部分では、僕の感覚では「言いすぎ」に思える箇所が結構あって、必ずしも著者に全面的に同意はできなかった。あと、基本的に地味な本で、文章も(原文に責があるのか訳文が悪いのかは分からないが)読みやすいとは言えないので、薄い(<厚さのことね)本なのに読むのにずいぶん時間がかかってしまった。
<青土社:1997年6月刊:本体2600円>
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『バイバイ、エンジェル』と同様に重厚な、まさに「本格推理」そのものという作品。カケルと登場人物の思想的対決というモチーフも共通している。しかし前回の対決の相手が「悪」と呼びうる相手であったのに対して、今回の相手シモーヌは、その対極にあるような聖性をもった人物だった。だからこそむしろカケルの思想的闘いは激しいものになり、物語の重苦しさも前作に増している。
でもね、『熾天使の夏』を読んだときにも思ったのだけど、僕にはこのヤブキ・カケルという人の思想が、結局何だかよく分からない。やっぱり『テロルの現象学』を読むべきなのかな…。
<創元推理文庫:1996年3月刊:本体850円>
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グインのシルヴィア探索もいよいよ佳境に入ってきた。それだけでなく、今後、本伝の方でもキタイ情勢に重要な役割を果たしそうなキャラクターたちが登場してきて、彼らの行く末も気になるところだ。
<ハヤカワ文庫JA:1997年12月刊:本体500円>
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<朝倉書店:1989年8月刊:本体2900円>
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著者自身も言うとおり、幅広い問題を扱っているために、それぞれの問題の掘り下げ方は浅くなっている。そのためかどうかは分からないが、少なくとも僕にとっては説得力を感じられない議論が最初から最後まで続いた。もっとも気になるのは、このような研究が(研究者の思惑にかかわりなく)「優生学」的思想や差別の固定化に利用される危険性を著者も何度も指摘しながら、結局それへの有効な対策を示すことはできていないと感じる点だ。それができていない限り、このような研究を糾弾する者が出てくるのは当然であるし、僕としてはむしろそちらに与する。そのような危険性が杞憂ではなく現実のものであることは、たとえば『DNA伝説』などを読めば明らかだ。
そのような危険がたとえ回避できたとしても、このような進化論的、社会生物学的アプローチの有効性がいかほどのものなのか、という疑問もある。僕はヒト以外の生物に関する社会生物学的アプローチについても眉に唾をつけて聞いてしまう人間だから、ましてや極端に大きな可塑性をもつ「ヒト」という動物について、たとえば倫理規範や道徳に進化的(適応的)背景があると言われても、よほど説得力のある議論をしてもらわないと納得はできない。
ヒトの個体発生(発達)は、生物学的な要因と、ある特殊な文化的要因(環境)が一体になって実現する。個体発生に関して「中立な」環境などはありえない。ヒトが育ち方によって聖者にも極悪人にもなれるとすれば、そのうちのどれがヒト(あるいはそのサブグループ)の本性かと問うのは無意味ではないか。環境の違いによって変化しうる個体発生の範囲のすべてが、ヒトの可能性だろう。そのような可塑性にもかかわらず、なお普遍的に認められる何らかの性質があれば、確かにそれは本性の名に値するかもしれない。しかしヒトは実現しうるあらゆる文化様式を経験しているわけではないから、少なくとも現存および過去の異文化間の比較というアプローチによってそのような普遍性を見い出すのは困難であると、僕には思える。普遍性を見い出すためには、むしろ生理学や発達心理学のようなアプローチのほうが、社会生物学よりもずっと有効ではないだろうか。それではその進化的起源(適応的意義)が分からない、という不満があるのかもしれない。しかし、そういう生理学的、発生(発達)学的な知見に基づかずに起源を説明しようとしても、存在さえ不確かな「本性」に「適応主義的なぜなぜ話」をくっつけた、きわめて曖昧なものにしかならないように思える。
<角川書店:1997年10月刊:本体1500円>
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僕は橋本治のファンなのだけど、近年の古典ものは全然読んでいなかった。「日本古典=つまらない」という図式が高校時代に根深く頭に刷り込まれてしまったので、手を出す気が起きなかったのだ。でも橋本治の手にかかると、源実朝とか兼好法師とかいう偉そうな人物も「現代青年」になってしまって、親しみ湧きまくり状態になってしまうから不思議。高校生の頃、こういう本に出会いたかったなあ、と思いました。
<ごま書房:1997年11月刊:本体1100円>
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僕は将棋についてはほとんど何も知らないのだが、この本は少し前に稲葉さんの「インタラクティブ読書ノート」で正野さんという方が紹介していて、興味をもったので読んでみた。
将棋素人の僕にとっては、最終章のコンピュータがらみの話がいちばん面白く読めた。「記憶力」と「計算力」では圧倒的に人間にまさるコンピュータが、(チェスはともかく)将棋で人間に勝てていないのは、コンピュータには人間の能力の中で「言語化」された部分しかくみこまれていないからだ。しかし言語化されていないたとえば「大局観」というようなものも、論理の外にあるわけではない。したがってその構成要素を別の言葉に置き換えていくことは可能である。羽生はまさにそのようにして自分の将棋観を人と共有し、将棋から言語化されていない部分を減らしていこうとしている棋士である、と著者はいう。棋士がそういう風にクールに客観的に将棋に取り組むことが可能になったということ、そしてそういう棋士が実際に「最強の棋士」であることが、「21世紀の将棋」の方向を示している、ということなのでしょうね。
<朝日出版社:1997年5月刊:本体1300円>
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<徳間書店:1997年10月刊:本体2500円>
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脊椎動物の「かたち」とその進化という興味深い問題について、基本的で本質的な最低限の知識を分かりやすく伝え、かつ知識の羅列に終わらず著者の深い考察が折り込まれている。(むかし『動物の起源論』(西村三郎)を読んだときにも同じ様な印象を受けのだが)生物学を学び始めたばかりの学生にも読めるし、発生学や進化学の専門家にも刺激を与えることができる、良書だと思う。いや、ほんとに、いろんなことを考えさせられた。一つだけ言うと、タイトルの「進化の設計図」という言葉。進化に文字どおりの「設計図」があろうはずも無いが、あえてこのようなタイトルを選んだところに倉谷氏のなにがしかの思いがあったのかな、ということを読みながら色々と考えた。で、思ったのは、ある発生メカニズムを伴うボディ・プランが成立したときに、そのプランの中に後の進化の可能性と限定性というものがすでに刻印されているというようなイメージなのかな、ということ(見当はずれかもしれないが)。もう一度(といわず)読んでみたいと思います。
あ、忘れていたが、本書は『ゲノムから進化を考える』という5冊シリーズのうちの一冊である。(でも、どこに「ゲノム」が?)
<岩波書店:1997年11月刊:本体1600円>
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<:年月刊:本体円>
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中島氏は『<対話>のない社会』で「もっと<対話>を!」と訴えている哲学者だが、この本にはその具体的な実践が記録されている。何が「対話」の敵なのかを、氏はこの戦いの中で肌身で感じてきたのだ。『<対話>のない社会』の内容が、氏の実践の中からでてきた真摯な訴えであることがよくわかる。
いきおいで同著者の『哲学の教科書』も読んでしまったけど、この本はいま貸出中なので、感想はまた今度。
<洋泉社:1996年8月刊:本体1700円>
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本巻に至ってようやく、本当にようやく、「アルド・ナリスのサーガ」がどのような形をとるのかが見えてきたようだ。レムスと一戦交えずには終わらないだろうことは分かっていたが、なるほど、イシュトヴァーンがその発火点になるわけか。人生に倦み飽きていたかのようなナリスをその気にさせ、うじうじしていたヴァレリウスにも腹を決めさせて、イシュトヴァーンの勢いは止まるところを知りませんね。あとは、パロの内乱にグインのケイロニアとヤンダル君のキタイがどういう具合に噛んでくるかと、リンダの運命がどうなるのかが、今後のキィポイントになりそう。うん、楽しみたのしみ。
<ハヤカワ文庫JA:1997年11月刊:本体500円>
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エヴァ本はほとんど買っていないし、買ってもあまり読まないのだけど、唐沢俊一や米沢嘉博といった人達の冷静な意見を読んでみたいと思ったのと、綾波コスプレ嬢からみたエヴァ・ファンの姿というのが面白そうだった、という理由で、この本は買いました。で、それらの話はそこそこ面白かったけど、「はまった」人たちの話は、なんかもういいや、っていう感じでした。以上。
<ASPECT:1997年11月刊:本体1400円>
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「借金」:こくのある人生を送るためには、借金をすることである、と言われている。それも、なるべく借りにくい相手に、自分の返済能力を超える金額を借りるのがいい。もうそれだけで我々は、弛緩した人生を活気あるものに仕立てあげることが出来るし、返済期限が過ぎれば、緊張感はさらに高まり、一刻一刻が、ほとんど息の詰まりそうな濃密さで充たされることになる……。
「読書」:読書というものを、もし字を読むことができるのならだが、一度はしてみてもいい。読書のいいところは、何もしていないように見えて、その実、何もしていないようには見えない、という点にある。そして、更にいいところは、何もしていないようには見えないにもかかわらず、その実、何もしていないという点にある……。
アイロニカルな文章の中にも、一片の真実が含まれている――のかどうかは人生経験の足りない僕には分からないが、面白いから、良いのだ。
<白水社:1997年8月刊:本体16000円>
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で、なんで今ごろこんな教科書を読んでいるのか、ということですが、実はいま僕が勉強してみたいと思っているのは「群論」なんだけど、数学ももう久しくやっていないし、たぶんいきなり未知の領域に踏み込んでも頭がついていかないだろう、ということで、まず線形代数あたりでウォーミング・アップをしようか、というだけの事なのでした。ということで次は同じ著者の『群論への30講』を読みます。(読み終わるのか!?)
<朝倉書店:1988年3月刊:本体2600円>
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<光文社:1997年9月刊:本体1300円>
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外務官僚の海外での優雅な暮しぶり、仕事をしない外務官僚たちの実態、外務官僚たちの差別意識、キャリアとノンキャリアの確執、大使館における大使を頂点とした「人間ピラミッド」的支配構造、などなど、話半分に聞いたとしても呆れ返るような話の数々。まあ僕は日本の「国益」なんてものに関心は無いし、日本人は気楽な連中だとなめられるくらいのことなら腹もたたないけれども、差別的な言動によって他国の人に日本人への悪感情を植え付けるようなことは、やめて欲しいものだ。
<飛鳥新社:1997年10月刊:本体1300円>
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物語は、普通の青年が謎めいた老人(あるいは中年男)に出会い、ともに旅をし、社会の歪みから裂けて噴き出すような流血沙汰に巻き込まれながら、自分の中に眠っていた凶々しいものに気付いていく、という船戸の黄金パターンの一つだ。その舞台となるメキシコ南東部は船戸がルポルタージュ集『国家と犯罪』で最も多くのページ数を割き、『幾度もサパタ――メキシコ南東部ゲリラ紀行』という報告を書いた土地である。この小説の中では先住民たちの生活や「サパティスタ民族解放軍」の蜂起の背景などは十分に語られてはいないが、このルポルタージュをあわせて読むことで、より物語の厚みを感じることができるだろう。
<講談社:1997年10月刊:本体2100円>
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ところで、ネット上の議論を見ていると、逆にもう少し対立を避ける努力をしたほうが、建設的に<対話>が進むのじゃないかなあ、と思ってしまうこともしばしばで、そういう意味では日本的な「和」から自由な世界が、けっこう実現されているのではないかと僕は感じる。中島氏の提案する「対話のある社会」の姿にてらして見ても、この世界、けっこう良い線いってるという気がするのだけど、どうでしょう。
<PHP新書:1997年11月刊:本体657円>
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<SOFT BANK:1997年3月刊:本体1300円>
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うーん、何というか、随所にちりばめられた様々なアイディアや、ディテールの描写はすごく面白いのだけれど、読み終わって結局どういう話だったのかを考えると、よく分からない。というか、たぶん、よく分からないのは作者の意図によるもので、クラークは「何が何やら分からないファーストコンタクト」というのを書きたかったのかなー、と思ったのですが、どうでしょう?つまり相手は人類なんか鼻もひっかけてないのに、人類が一方的に盛り上がってしまうという「一方的ファーストコンタクト」を描くことによって、ファーストコンタクトものの中に無意識に入り込みがちな人類の自意識過剰を意識的に描いて見せた、というか…。うまく言えないけど、そんな感じがしました。
<ハヤカワ文庫SF:1985年9月刊:本体544円>
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<ハヤカワ文庫JA:1997年10月刊:本体500円>
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専門的な本なので、脊椎動物の発生学と形態学の基礎的な知識がないと、読むのはしんどいだろう。この分野は今の発生学の中でも精力的に研究が行われている分野の中の一つで、関連する諸分子とそれらの関係についての知見も日々蓄積されてきているのだが、本書はそのような分子レベルの知見に関する記述は抑えぎみにして、形態学的、実験発生学的な知見をていねいに解説しているという印象を受けた。
本書で示された脊椎動物の進化に関する2つの考察が興味深い。一つは、脊椎動物の起源においては、「体幹の特殊化として頭が生じたのでもその逆でもなく、体軸の前極と後極それぞれに頭と体幹は特殊化していったのである。その意味で迷走神経堤は最もオリジナルな神経堤細胞の発生領域を示している」という考察、もう一つは、ナメクジウオに似た祖先から脊椎動物が進化した過程では、神経系の「末梢化」が起こり、神経堤細胞の移動能はこの変化に対応しているのではないかという考察、である。
ちなみに、倉谷氏も大隅氏も青土社の『現代思想』誌に格調の高い論文(たとえばこれ)を書いたりしてしまうという理論家でもある。あとがきによると倉谷氏は「脊椎動物の分節的頭部パターニング」の本も書いておられるそうなので、期待して待っています。
<東京大学出版会(UP BIOLOGY 97):1997年10月刊:本体1800円>
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殺人と死体消失のトリック自身は、奇術のネタ的で、明かされてしまえば「なるほど」で済んでしまうのだが、そのネタを可能にした背景になっている「トリック」は『すべてがFになる』等のそれを彷彿とさせるスケールの大きさであり、『笑わない数学者』に通じる「不定さ」をはらんでいて、森博嗣的味わいが十分に楽しめる作品になっていると思う。さて冒頭の人物は誰でしょう、そして「最後の脱出」を行ったのは――?
<講談社ノベルス:1997年10月刊:本体930円>
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短い紙幅でたくさんのトンデモグッズが紹介されているので、それぞれの面白さがいま一つ伝わってこない。単に変なものを紹介するというだけなら、『VOW』の方がネタが豊富だし。やっぱり対象をしぼって、もう少しねちっこく楽しませてくれる方が読者はうれしいのじゃないかと感じたのだけど、どうでしょう。
ちなみに vol.2 は12月に出るそうです。
<イーハトーヴ出版:1997年9月刊:本体1300円>
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僕が一番面白かったのはロトこと氷川竜介氏(『20年目のザンボット3』の著者)の「アニメ各論:エフェクトアニメ進化論」。金田伊功以後のアニメ表現、技法の流れを概説したもの。本で読んでも面白いが、実際の講義ではビデオを使って解説しているから、もっと面白かったに違いない。こういう講義を誰かテレビでやってくれないだろうか、夏目房之介がNHK教育でやったマンガ講座みたいに。
あとは村崎百郎氏のゴミ漁りに関する語りもなかなかにディープで、読ませる。ゴミに出されていたビデオを拾って『エヴァ』にはまった、という逸話には笑ってしまう。
残念なのはすべての講義が収録されてはいないらしいこと。上記のページの授業内容紹介と比べて見ると、竹熊健太郎氏をゲストに招いての「まんが各論」、飯野賢治氏を招いての「ゲーム各論」、「ドラッグ」(ゲスト:青山正明) 、「オタクの限界」(ゲスト:浅羽通明)などはこの本には入っていない。色々事情はあるのでしょうけどね。
<講談社:1997年9月刊:本体1800円>
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読んでいる間はそれなりに面白いのだけど、読み終わると不満が残る。不条理な事件が提示されて、こちらはそれへの興味で読んでいるわけだから、きちっと解決をつけて欲しいのに、何かはぐらかされたような感じで終わってしまう。(まあ一応説明らしきものはあるのだけれど、何が何やらさっぱり分からない。)作者が書きたいのはそういうことではなく、不条理な状況は単なる必要な舞台装置にすぎないのかもしれないし、はじめからそう割り切って読んでいれば、確かに面白い話ではあるのだけれど。それでももう少しきちっと理屈を通して欲しかったと思ってしまうのは、僕の最近の読書傾向がミステリの方に傾いているからでしょうか。
<ハヤカワ文庫SF:1989年2月刊>
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本書は「世界システム理論」に関する入門書であり、僕のような社会科学の門外漢にも読み易い本だが、その主張している中味はかなり大胆なもので、おいそれとは理解しがたい。特に「普遍主義」や「進歩」の観念に対する批判は、なるほどそういう見方もできるなあと思う半面、もう少し色々な材料を検討して考えてみないと納得しがたいという思いも強く感じる。それだけ「真理」や「進歩」の観念が資本主義システムの中にいる僕らの脳脊髄血肉にまで染み込んでいるということなのかもしれないが…。
<岩波書店:1997年8月刊:本体2400円>
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読んで思うのは、やっぱり水木しげるという人は天才の一種なのだろうな、ということ。凡人の論理では捉えきれない、自分独特の筋のようなものを持っている人で、ノンフィクション作家が魅力を感じるのは、よく分かる。マンガ以上に本人が面白い人なんだろうね。
<文春文庫:1997年9月刊:本体476円>
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微笑ましいエピソードもたくさんあるのだが、動物が病気になったとか死んだとかいう話も、また多い。どちらかというと、そういう暗い話の方が印象に残ってしまって、読んだ後にはちょっと気が滅入ってしまった。野生の動物をその本来の生息地から連れてきて飼育することの難しさを感じさせる。
<丸善ライブラリー:1997年7月刊:本体620円>
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<角川文庫:1982年11月刊>
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[原子論と認識論と言語論的転回の不思議な関係、の巻](冨田恭彦)
ローティの説を解説している部分がちょっと急ぎ足の感じで理解が難しかったが、とりあえずローティが「特権的知識」による認識の「正統化」を批判しているということだけ飲み込んでおいて、最後のロックの認識論についての柏木先生の意見を読むと、うーん、これは大変面白い。原子論から「認識論的転回」へとわざわざ丁寧に解説してきたのはなぜだったのか、ここですっきりと合点がいく。要するにロックの「認識論」はローティが批判しているような「特権的知識による正統化」を目指したものではなく、当時のヨーロッパ人の自然哲学(科学)であった「原子論」にもとづく、「自然化された認識論」だったのではないか、ということだ。その後の、「自然科学的な考え方に基づいて自然科学の可能性や限界について論じる」という「循環論」についての問題提起も面白い。
むかし読んだ認識論に関する本(タイトル失念、たしか青木書店から出てる唯物論系の本)で、西洋の合理論と経験論という2つの認識論の流れ、そしてカントのアプリオリな認識の枠組みといった問題を、今日では進化論に基づく動物行動学や、ピアジェなどの発達心理学、チョムスキーなどの言語学、という形で(つまり諸科学の成果の上に立って)もう一度、考え直すことができるのではないか、というような議論があったのを記憶している。それを読んでなるほどと思う半面、それってやっぱりデカルト、ロック、カントの議論とは、議論のレベルが違うのじゃないか、という気もした。つまりそういうフィジカルなレベルの議論が、まさにそのフィジカルな認識自体の正統性を問題にしてきた「認識論」のような「哲学」に対して、何か言うことができるのだろうか、という疑問だ。だから、ロックからして当時のフィジカルな議論に基づいて「認識論」を立てたのだという柏木説は、僕にとってはたいへん面白い。デカルトの場合この点がどうなのかについては、柏木先生はあまり話してくれなかったのが、ちょっと残念だったけど。
<ナカニシヤ出版:1997年8月刊:本体2100円>
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僕自身は男らしくありたいと思ったことは(覚えている限り)ほとんどないし、「男らしくしろ」と育てられた覚えもないし、他人を支配したいとも思わないし、他人に勝ちたいとも思わないし(大体、競争が嫌いだし)、本書の「男の自立度チェック」の成績も良いし、まあ「抑圧」の度合はだいぶ低いんじゃないかと思う。性別役割分担を前提とした今の社会では、男のジェンダーロールを求める圧力というのはそれなりにあるわけだが、女性に対する圧力に比べればどうということはないし。ただ「男はコミュニケーションが苦手」という指摘には思い当たる節が無いでもないが (^^;。
もちろん自分のことだけでなく、社会全体の男と女の置かれている状況というのを考える必要があるわけで、その点では著者の主張にはまったく賛成だし、もっとみんなが「らしさ」や押し付けられた役割から自由に生きられる社会を作っていくべきだと思う。女が「男並み」になることによって実現される「男女平等」というものの行き着く先は、どうやらものすごく窮屈なものになりそうだということが見えてくると、逆に男が色んな意味で「女並み」になることが必要なんじゃないの、という発想は当然出てくるだろう。性別役割分担を前提とした今の社会から、男も女も等しく仕事をし、社会参加し、家事をし、子供を育てる、それが当り前の社会へと変えていくこと、そしてその前提として、この経済優先、効率至上主義の競争社会をもっと穏やかなものにしていくことが、僕らがもう少しまともに生きて行くために必要なことだと思う。
<作品社:1996年8月刊:本体1600円>
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前半の議論もたいへん面白いのだが、僕が興味があるのは、何といっても最終章の電子ネットワーク社会におけるうわさについてである。本書ではインテル社のCPUのバグ騒動と、「メールで伝わるウイルス」"Good Times"のうわさを例に取り上げて考察しているが、ページ数も少なく、ちょっと(だいぶ)喰い足りない感じ。この辺りに論点を絞った本を読んでみたいと思った。
なお著者が中心になって活動している「うわさとニュースの研究会」のページがこちらにあるそうだ。
<サイエンス社「セレクション社会心理学」16:1997年5月刊:本体1400円>
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著者の言うことも分からないでもないが、僕が思ったのは、ユーザにも色々いるでしょう、ということ。著者のように考える人はUNIXなりなんなりを使って、自分の使うソフトは自分でコードを書いて、という道をとれば良いけど、僕の生活や仕事はそこまでやるほどパソコンに依存していないしね。日本語と英語が編集できて、2、3のインターネット・アプリケーションが使えて、仕事上必要な2、3のソフトが使えれば最低限良いわけで、そういう意味では今のMacOSで僕は十分だ。必要ならプログラムを書くこともあるかもしれないけど、現状ではそんな暇があるなら他のことをする。で、その程度のニーズしかもたないユーザがとにかく初めてパソコンをいじってみて、曲がりなりにもなんとか使えるようになる、ということを実現するためのOSとしては、MacOSはとても優れていると思う(Windowsは使っていないから知らない)。少なくともMacOS上で既製のアプリケーションを使うほうが、UNIXを勉強して、プログラミングを勉強して…、という入り方よりはずっと敷居が低いはずだ。そしてコンピュータ社会の現段階では「敷居が低い」ということは非常に重要なことだと僕は思う。それ以上のことは、より特殊な「ニーズ」を持つ人がやれば良いのでは?
<講談社現代新書:1997年8月刊:本体640円>
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<講談社:1997年7月刊:本体1400円>
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こういうことを考え始めると、僕の場合、そういうことは知りえない(検証できない)ことだから考えても無意味、という結論にすぐに至ってしまって、その時点で考えることを放棄してしまうのだが、猫のインサイトは哲学者だけあって翔太を誘導しながら深くねちっこく思考を進めていく。そのプロセスは読んでいて大変楽しい。
読んでいて印象に残ったインサイトの台詞をメモしておきます。
「あらゆる非常識をのこりなく包み込んだうえで常識に達するのが哲学の理想なんだ。でも、たいていの場合、そこまで行き着くまえに力つきて倒れてしまうもんだから、哲学者がまるで新しい思想の提唱者のように見えてしまうんだ。」
「ぼくらはね、ぼくらの生きていることの前提になっている様々な偶然性を受け入れて、その中で生きるしかないんだよ。それが出発点なんだ。」
「世界をもつ主体はね、もうすでに、ふつうの意味での必然や偶然の外にいるんだから、決定論と闘う必要なんかないんだよ。」
<ナカニシヤ出版:1995年12月刊:本体1942円>
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『無敵超人ザンボット3』は僕にとっても心に残るアニメだった。とは言え、再放送を見たのもたぶん15年以上は前だから、記憶が不鮮明な部分も多い。ストーリー紹介を読みながら、色々な場面を懐かしく思い出した。敵だけでなく「味方」であるはずの地球人からも孤立して戦い続ける主人公たち「神ファミリー」の苛酷な運命。「人間爆弾」という敵の作戦になす術もない主人公たちの無念。最終決戦の中で次々と死んでいく「神ファミリー」の面々――そして迎える最終回ラストシーンの副主題歌が流れる場面は、もう涙なくしては見られない、『ダイターン3』や『ガンダム』の最終回、『マクロス』の「愛は流れる」などと共に、子供心に深く刻まれた名場面だった。いま見ても泣いてしまうかも(笑)。うーん、LD欲しい…。36000円か…。
ところで本書は『オタク学叢書』のvol.1として出版されている。記念すべきvol.1に『ザンボット3』という選択は僕的には非常にうれしい。富野氏の作品って、『ガンダム』〜『イデオン』〜それ以降の流れで論じられることが多いように思う。それだけ『ガンダム』はすごかったし、後に与える影響も大きかったということなのだけれど、『ガンダム』当時の感覚としては当然のことながら『ザンボット3』〜『ダイターン3』〜『ガンダム』という流れで『ガンダム』のブレイクが捉えられていたわけで、「巨大ロボット物」というジャンルが『ガンダム』的な方向へ向かう源流がそこにあったという意味でも、『ザンボット3』は重要な作品だったのだと思う。
うーん、やっぱりLD買おうかなー(笑)。
<太田出版:1997年8月刊:本体1900円>
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「カルトな人々」だけあって、本書の特に前半から中盤に登場する人々の本棚は、かなりアヤシく、こんなの見せてしまっていいのかなーと他人ごとながら心配になる。それとくらべると後半の唐沢なをき氏や竹熊健太郎氏の本棚はずいぶんまともに見える。とは言っても、やっぱり変な本が多いのだけど。
本棚を細かく見ていくと、唐沢なをき氏の本棚では『坂本式動物剥製法』なんて分厚い本が妙な迫力をかもしだしていたり、竹熊氏の本棚に生物学とくに今西進化論関係の本が並んでいたりして、面白い。やっぱり、人の本棚を覗くのは楽しいですね。本を手にとって見れないのが残念だけど。
<同文書院:1997年8月刊:本体1457円>
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ほとんどの章は、可もなく不可もないというか、『別冊宝島』レベルの気楽に読んですぐに忘れてしまうような話で、特にコメントすることもない。ただ最後の章、『新聞投書に見られる「発言したい欲望」――精神病理としての正義』は、ちょっとどうかと思う。
社会問題にたいして専門家でない一般の人が意見を述べたり、なんらかの行動を起こしたりすることに対して、著者は、素人が言う意見は無責任で参考にもならないとか、そんな行動は実効性のない自己満足、自己陶酔でしかないとか言って冷笑し、ご丁寧に心理分析までしてくれているのだけど、なんか、大きなお世話という感じ。社会問題に関心をもった高校生の子供に対して「そんなことはお前には関係ないし、お前みたいな子供が青くさいことを言っても世の中は変わらない。そんなことは偉くなってから考えればよい、今は勉強して偉くなることを考えろ」とか言って自分で考えることを抑圧しようとするダサいオヤジみたいだ。だいたい著者の言う意味での「実効性」を求めることは、現実社会の大枠を肯定し、その前提の上でより有効な方策を求めるということでしかないように思える。でも別に誰もがそんな「実効性」に義理立てする必要はないでしょう?
初めは素人の素朴な意見でも良いし、借り物の意見でも良いから、考えて議論していく中で地に足のついた自分の考えができてくるものだし、行動の「実効性」(下から世の中を動かせる力)は行動するなかでだんだんとついていくものだろう。実際にそうやって世の中が動いていく局面だってあるわけだし。何か、そういう市民運動みたいなものへの嫌悪感を表明するために理屈を並べたてただけ、というような感じがした。
<幻冬舎文庫:1997年8月刊:本体533円>
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ゴーラとパロ、ひいては中原全体の運命を大きく変えることになるであろうイシュトヴァーンとナリスの会談に向かって、物語が大きく動いていく。イシュトヴァーンはナリスとグインと自分の3人で中原を治めていくという構想をカメロンに語り、ゴーラの戦乱とグインの冒険が終わった後にはいよいよ「三国志」時代の到来か、という期待がふくらむ。
外伝につづいて本編も末弥純のイラストに変わり(これがなかなか良い)、刊行ペースも上がりそうで、期待大。
<ハヤカワ文庫JA:1997年8月刊:本体500円>
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たいへん面白く読めた。永井氏の特に一つ目の問題「なぜぼくは存在するのか」は、僕がやはり子どものころ(小学生くらい?)に不思議に思った問題と似ている(けど違った)問題で、色々と昔考えたことを思い出した。
僕のもっていた疑問は、たぶん、「自分の意識が存在する」ことの不思議さだったと思う。脳から意識が生まれるということそのものがまず不思議だったし、それが「自分の意識」というものを生み出しているということも不思議だった。そして「この自分」が存在する「確率」は、気が遠くなるくらい小さいはずなのに、それにも関わらず自分がいる、ということが不思議でしようがなかった。SFの影響で、無限に存在するパラレルワールドを考えれば自分がそのどこかに存在することは必然になるなあ、と考えたり、実は「意識」というのは世界に一つしかなくて、それぞれの人の意識はその一つのものの現われなのだが、個々の人の意識はそれに気付いていないだけなのじゃないか、とか、荒唐無稽なことも考えた。スタートレックに出てくる人間を転送する装置を見て、送られる前の「自分」と送られた先に現われる「自分」が同じ「自分」だと何故言えるのか、もしかしたら送られる前の「自分」は死んでしまって、送られる前の「自分」と同一人物だと勘違いした人が新たに作られるだけではないのか、なんて事も考えた。いや、そうだとしたら、この日常においても、一瞬前の「自分」と今現在の「自分」が同じ「自分」だと何故言えるだろうか。「自分」の意識は瞬間ごとに死んで次の新たな「自分」が刻々と生まれているのだとしても「自分」はそれに気付かないだろう(「世界は3分前に創造された」仮説の変形のようなもの?)。だとしたら、そんな実体の不確かな「自分」なんてものが本当に存在するのだろうか。「自分」が存在すると思っているのは、実はなにかの錯覚なのじゃなかろうか…。
まあ、こんなようなことを考えていたのが僕の子どもの頃だった。僕は永井氏のようにこの種の問題を考え続けることはなかったが、かといってそれを忘れてしまったり、永井氏のいう「青年の哲学」に移行していったのかというと、それも違うような気がする。
永井氏も言うとおり、人がとらわれる<子ども>の問題の中味は一人一人違う。そして答に近づく方法もまた違うだろう。上に書いたことも「僕の問題」の一つだったわけだが、他にも色々な「世界の不思議さ」を僕は感じていたと思う。そしてそれらの問題の答は、たぶん「考える」だけでは得られないだろうと、僕は思った。というか「考える」ことだけから得られた「答」には、僕は満足しないだろう、つまり実際にこの世界について「調べる」という(経験科学の)方法を使わなければ、僕自身の納得のいく答は得られないだろうと思った。自分の方法として自然科学を選んだのは、たぶんそのためだったのだと思う。僕も「哲学」に興味がないわけではないが、深く突っ込んでやろうという気がおこらないのは、その辺に原因があるのかなと、読みながら思った。
<講談社現代新書:1996年5月刊:本体631円>
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<講談社現代新書:1997年5月刊:本体640円>
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『バイバイ、エンジェル』を読んだときは、最後の矢吹駆と真犯人の思想的対決に、とってつけたような印象を受けてちょっと不満だったのだが、これを読んで矢吹駆の背景が分かると、大分得心がいった。ただミステリを期待して読むと完全に裏切られる。大体、ストーリーらしきものはほとんどなく、矢吹たちの爆弾テロ事件と、逃亡後の「植民地都市」でのギャンブル以外は、ほとんど矢吹の思考の渦の描写に終始している。しかもそれが陰鬱としていて観念的でひとりよがりにしか思えないので、読むのは結構大変だった。『メフィスト』の読者がこれを喜んで読むとは僕には思えないのだけど、どうなんでしょう。
<講談社:1997年7月刊:本体1600円>
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「遺伝子科学が研究室から大衆文化へ、専門的なジャーナルからテレビのスクリーンへ、と移動するにつれて遺伝子は変貌した。それは一片の遺伝子情報であることをやめて人間関係を解く鍵となり、家族結合の基盤になった。プリンとピリミジンの紐であることをやめ、独自性の本質となり社会的差異の源泉になった。要するに遺伝子は、重要な分子であるかわりに、俗界において人間の魂に相当するものになったのだ」(本書第10章)
犯罪、麻薬・アルコール中毒、貧困といった問題の原因が「遺伝子」に帰せられる。同性愛などの人間行動、IQの違い、男女の行動の違いなども遺伝子に基づく「生まれつき」だとされる。親子関係は愛情に基づく接触よりも遺伝学的類似性に依存するものとされる――このような「遺伝子本質主義」が現代のアメリカ社会で広く受け入れられている。このような考え方には必ずしも科学的な裏付けがあるわけではないが、大衆に向けて主張され、受け入れられることによって社会的力としては十分に強力なものとなる。たとえば子供の保護権をめぐる裁判の結果に影響を与えたり、出産や育児に関する人々の行動を左右している。また人種/男女/障害者差別、優生学的政策、社会福祉の抑制などの主張にも「遺伝子」が利用されている。
まず問題だと思うのは、科学的な裏付けがあるわけではないのに専門用語を使うことで「科学的」であるかのように装ったり、科学理論を適用限界を無視して援用するようなことが広範に行われていることだ。単なるおしゃべりならまだ良いが、それが世論の形成に影響し、社会を動かすとなると看過できない。商業的マスコミは「男の浮気は遺伝子のせい」式のポップで「面白い」(それはしばしば学問的厳密さには相反する)話に飛びつく。それはマスコミの性で仕方ないが、せめてそれを中和する努力が良心的なジャーナリズムと専門家には求められるだろう。もちろん専門家も証明された事実だけを語るわけではない。生命観や信念のようなものを語ることはあるし、それはそれで良いのだが、何が事実で何が推測あるいは信念なのかを区別することは素人には困難な場合が多いのだから、語る場合には十分自覚的になって然るべきだろうと思う。
もう一つは、科学的知識の政治的・社会的な利用について。本来、科学の内容と価値判断は独立のものとして考えられるべきものだろう。たとえばある遺伝子座がヒトの何らかの性質に関係していることが分かっても、それが直ちに何らかの価値判断を導き出すわけではない。生物が「遺伝子の乗り物」であるというのが百歩ほどゆずって仮に正しいとしても、我々は遺伝子の乗り物として生きる「べき」だということにはならない。過去に地球の環境が生物によって大きく変動してきたからといって、人類の環境破壊が容認されるわけではない、等々。それらの「事実」が何かを免罪したり断罪する根拠にはならないし、特定の政策を導き出すこともない。
思うに、「科学的」知識が政治的主張や価値観を生みだすというよりも、多くの場合むしろ「科学的」知識のある一側面を好んで受け止め意味づけする、その受け止め方が、その人の価値観の反映なのだろう。多様な価値観がそれぞれ自分に都合の良い「事実」を見付け出せる程度には、「科学」の内容は豊かだろうから。世間に半可通の理解があふれているとき、それを正すのは必要な事であるが、その政治的利用に対抗するためにはそれだけでは十分ではないだろう。「人は信じたいものを信じる」のだし、一つの根拠が論破されても次の材料に事欠くことはないだろうから。
そうだとすれば、アメリカ社会が「遺伝子本質主義」を受け入れる背景には、人々のどのような価値観があるのかが、この問題の核心なのではないだろうか。この本を読んでも必ずしも明確には分からないが、興味深いテーマだと思う。
<紀伊国屋書店:1997年2月刊:本体2330円>
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『本の雑誌』6月号の「高校生小説」特集でおすすめ本として挙げられていた一冊。探していたけどなかなか見つからなくて、古本屋でようやく見つけた。僕は樋口有介を読むのは初めてだ。
ミステリとしては全然評価できない。トリックもなければ魅力的な謎も奇想も緻密な論理もどんでん返しも活劇もなく、何となく終わってしまう。キャラクタに魅力があるかといえば、そうでもないし。唯一ぼくが評価できるのは、それほど大きくない地方の街の若い連中の人間関係と生活の描き方。同年代の連中はみんな知り合いみたいな感じで、誰は誰に惚れていたの、誰と誰がくっついたの離れたのという類の話がぐるぐると回って煮つまっていくような閉塞した感覚は、何かすごくよく分かって、リアルだ。
<文春文庫:1993年5月刊:本体427円>
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ちょっと期待はずれ。冗長な感じがするし、ジニー以外のキャラクターには魅力がない(というかほとんど描かれていない)し。それを克服するだけのトリックがあれば許すのだけど、これも期待したほどではなかった。この半分の長さだったら良かったかも。
<ハヤカワ文庫HM:1997年2月刊:本体600円>
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2人の少年が鉄塔を番号順に遡っていく、というだけの話が小説として成り立つことに驚く。しかもこれが面白い。鉄塔をたどっていく、という行為がとてもすばらしいことのように思えてくるし、自分が子供のころにこういう冒険を思いつかなかったことが、すごく惜しいという気持ちになる。これを読んだら、鉄塔を見る目が変わります、ほんとに。
少年の心の動きや少年同士の会話がすごくリアルなことも本書の魅力だ。そういえば子供って、こういう言い方、感じ方するよなあ、といちいち納得させられる。
ファンタジーノベル大賞受賞作でありながら、読み進めて行っても、どこがファンタジーなのかなかなか分からないのだが、最後に至ってみるとファンタジーとして終わっているという、不思議な小説。
<新潮文庫:1997年6月刊:本体476円>
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この本の大半は学問研究、とくに「哲学研究」への辛辣な批判(それはもちろん哲学者である著者自身への自己批判も含む)で埋められている。過去の大哲学者たちが真摯に語った言葉を自分のものとして「生きる」のではなく、「研究」し論文を書くという形で消費するだけの「哲学研究者」たち。そのような「研究」はもういいから、生き方と一致するような「哲学」をしよう、というのが著者の<半隠遁>のすすめである。
「どうやっても私たちは『善い人』にはなれない」、「勝つことは醜い」など、全体にペシミスティックな議論が続く。語り口の軽妙さが重苦しさをいくぶん和らげてくれてはいるが、真面目に受け取ると結構つらいものがある。<半隠遁>することで、こういう問題に解決がつくことが保証されているわけでもない。解決がつかないとしても考え続けていくしかとるべき道はない、というだけだ。
著者は「宇宙や生命の起源を探ること…ですら厳密には『自分のため』の仕事ではない」と言う。「それは『この私』という謎にグサリと切り込むのではなく、『今存在している私がまもなく死ぬ』というこのおそるべき謎を傍らに押しやって、膨大な時間をこれとは別の『一般的なこと』に費やし、そうすることによってすぐ傍らにあるこの最大の疑問を、綿密に覆い隠してしまう」からだと言う。
僕もこの主張はある部分で良く分かる(僕も死を恐れる人間だから)のだが、やはり納得しがたい部分もある。「自分」という謎と同じように、僕にとっては(自分の研究対象である)「生命」も解かずにはいられない謎である。重要さに順序はつけられない。もっと言えば、「自分」という謎に近づくためにも、哲学よりも自然科学のほうがより良い道だと思ったから、生物学を選んだとも言える。だから僕は自分の仕事(生物学の研究)が自分にとって意味のあることだと思っているし、「自分のための」仕事だと思っている。つまりそれは単なる「一般的なこと」ではない――しかしそうは言っても、その欲求が自分のどれだけ深いところから出てきているのか、ということも時々は考える。人類が滅亡して自分一人が生き残ったとして(つまり研究の成果を見て評価してくれる人が誰もいないという状況で)、それでも自分は生物の研究をするだろうか?、なんてことを友達と話したこともある。時々、自分の余命があとわずかだったら、それでも生物の研究を続けるだろうか?と考えたりすることもある。「知りたい」と思う気持ちが消えることはないと思うが、「自分で」それをやるかどうか…。その答えは、自分でもまだよく分からない。
とはいえ僕はまだ<半隠遁>の生活に入ることはできない。人生に対する内心の忸怩たる思いがまだまだ足りないからね。歳をとってそれが積もってきたら、そのときに考えよう。
<ナカニシヤ出版:1997年5月刊:本体1900円>
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<新潮社:1997年5月刊:本体1300円>
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<講談社ノベルス:1997年7月刊:本体円>
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この夏は映画的には『ロスト・ワールド』でも『スターウォーズ』でも『エヴァ』でもなく、『もののけ姫』の夏になるようだ。どちらを見ても、もののけもののけである。僕は作品を観るまでは情報はなるべく見ないようにしているのだが、これだけ情報があふれていると、どうしても目や耳にちらほらと飛びこんでくる。その一つが岡田斗司夫氏がおたくウィークリーで書いていた「内容はナウシカと同じ」発言である。うーむ、そうか。いや、その真偽はともかく、やはり『もののけ姫』は『ナウシカ』との対比で観るべき作品なのだろうな、と思い、読もうと思いつつ手をつけていなかった本書を読むことにした。
僕にとって特に面白かったのは、ナウシカの立場が、特定の立場を絶対化するのではなく、他者の立場を認め、多様な世界観を承認する所にあること(近代的「正義」の立場)、しかしそれは単なる相対主義ではなく、むしろその「正義」の追求を裏打ちするものとしての事実・真理の探究をめざす者である、という観点(第3章)だ。真理に関する相対主義は、思想信条についての相対主義や文化相対主義にとってはむしろ敵対物でさえある、という考え方には目から鱗が落ちる思いがした。
おそらく『もののけ姫』も単純な善悪で割り切れない立場の対立を描く物語なのだろうと思うのだが(まだよく知らないけど)、こういう「正義」はどう描かれることになるのだろう。
<窓社:1996年3月刊:本体2505円>
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この本に例示される多くの問題は、教授をはじめとした大学および研究者社会における権力者が、一方的で絶対的な権力を弱い立場の者に対してふるうことが可能な、今の大学の制度から生じてきている。ならばその権力を正当化している「大学自治」のありかたについて真剣に考える必要があるだろう。「大学自治」とは誰による自治なのか。大学によっていくらかの差はあるだろうが、主に教授、それに加えて助教授から助手までの教官集団による自治、だろう。その「自治」の場に参加できない者、すなわち学生、院生、技官その他の職員(場合によっては助手も)は、一方的に「治」められる側に立つことになる。研究室でもこの構図は温存される。アカハラに限らず、専制的な教官の下で耐え難い苦痛を味わっている学生たちも(男女を問わず)多数存在する(たとえば都立大の阿部さんによるこのページを参照)が、この権力関係に加えて、女性は弱い立場に置かれている場合が多いことと、権力をもつ立場がほとんど男性によって占められていること、これがアカハラの温床になっている。
現状では被害者個人の努力によって問題を告発し、解決のために闘うしかない。しかし本来はこのような問題の温床そのものを絶つ方策が必要なはずだ。個々の教官の「良識」にまかせるだけではおそらく問題は無くならないだろう。それにはまず、現在の一方的な権力関係をより緩やかなものにするための制度的な保証が必要ではないかと思う。たとえば今思いつくことを書くと、学生、院生の自治会等による交渉権の確立。教授会や人事の審議を学生まで含めた大学構成員に公開すること。つまり「自治」の主体を大学の全構成員に広げていくこと。あるいは教授会等から独立して不当な権力の行使を監視できる機関の設立、などなど。書いていて理想論かなとも思うが、無権利状態に置かれた弱い立場の者を守る何らかの制度が必要なことは間違いないだろう。
明らかな犯罪行為や犯罪まがいの人権侵害に加えて、研究職の採用・昇進に関する女性差別が存在している。これも本書のテーマの一つである。人事の透明性を確保すること、これが当然必要である。研究者志望の大学院生の性比と研究職の性比があまりにアンバランスであれば(現状はそうなのだが)なんらかの制度的措置が必要かもしれない。少なくとも現在の採用・昇進人事に男性への片寄りがあるならば、即刻是正が必要だろう。
キャンパスでのセクハラ・アカハラ関連ページ(国内)
<三省堂:1997年7月刊:本体1500円>
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<講談社ノベルス:1997年7月刊:本体760円>
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1998年1月〜
1997年1〜6月分
1995年版
1996年版目次
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