スペイン旅日記 その3


2004年3月3日

セビージャの歴史は古く、紀元前にローマ帝国に占領されたころは「ヒスパリス」と 呼ばれていたらしい。紀元前54年には、カエサルがこの地を占領している。その後、5世紀には ヴァンダル族が侵入するが、「アンダルシア」という名はこの「ヴァンダル族」に由来する。 8世紀にはいるとイスラム教徒がイベリア半島に侵入し、セビージャのあたりは13世紀末までイス ラムの支配が続く。このアンダルシアの地でイスラム文化は花開いたといわれ、現在でもイスラム文化の影響 が色濃く残っている。前のページに写真を掲載したヒラルダも、もともとはイスラム時代の尖塔 (ミナレット)であった。また、イスラム文化の影響は、歴史的建築物だけではなく、一般の家にも見られる。 同じく前のページに掲載したホテル・シモンの写真からもわかるように、アルダルシア地方やバレンシア地方 では、建物の入り口やパティオ(中庭)などの壁や床に、色・模様ともに鮮やかなタイルが張られ、その美しさ に思わず足を止めてのぞき込んでしまうことが多いが、このタイルづくりの技法もイスラム教徒によるものと される。セラミックの技術とともに、幾何学模様などアラベスクなデザインにおいても、イスラム文化がアン ダルシアの地にしっかりと根づいていることがわかる。教科書的にいえば、カトリックの王国(中心は カスティーヤ王国イサベル女王とアラゴン王国フェルナンド王)が、イベリア半島におけるイスラムの支配を 完全に打ち破ったのが1492年のグラナダの陥落であるとされている。セビージャでは、1248年に約500年もの あいだ続いたイスラムの支配が終わりを告げることとなるが、イスラムの文化は、カトリックの文化などとも 融合しつつ、現在にいたるまでこの地において独自の展開を遂げている。

タイルの美しいレストランのテラス   entrada
タイル張りのテラスが美しいレストラン              ある民家の入り口




色・模様の鮮やかなタイル



カトリックの支配下となったセビージャは、商業活動などに加えて美術活動においてもスペインにおける中心地 のひとつとなっていたようだが、17世紀にはセビージャ派と呼ばれる画家ムリージョやスルバランなどが活躍し た。セビージャのMuseo de Bellas Artes(美術館)などに、彼らの絵画が所蔵されている。 スペイン絵画に興味のある人には必見である。

Museo de Bellas Artes     

   かつては修道院だった美術館のファサード          美術館見学をする子どもたち


セビージャの目抜き通りAv. de la Constitucio'n(アベニーダ・デ・ラ・コンスティトゥシオン=憲法通り)をカテドラルから 南へ向かい、観光案内所からPuerta de Jere'z(プエルタ・デ・ヘレス=ヘレス門)を越えた角には、セビージャの 超高級ホテルHotel Alfonso XIII(アルフォンソ・トレセ)がある。このイスラムの様式をもった宮殿のような豪華な ホテルの隣には、18世紀なかばに建造されたバロック様式の巨大な建物がある。現在ではセビージャ大学と なっているが、セビージャ大学というよりプロスペル・メリメの『カルメン』の舞台となったタバコ工場と いったほうが知る人も多いだろう。

旧タバコ工場 
セビージャ大学



タバコといえば、セビージャはタバコと深いかかわりがある。タバコは、ジャガイモやトマトなどと並んで もともとアメリカ大陸の原産であるが、そのアメリカ大陸を「発見」(もちろんヨーロッパからみての「発見」 にすぎないが)したとされるコロン(コロンブス)は、このセビージャを出発し、グアダルキビル川を通って 大西洋に向かったのである。現在、川沿いの通りはコロン通りと呼ばれ、セビージャのカテドラルにはコロン の棺が安置されている。また、カテドラルの隣には、植民地時代のアメリカ大陸にかんする膨大な資料が保存 されているインディアス(当時アメリカ大陸は「インディアス」と呼ばれていた)古文書館がある。残念ながら、 改修中のため古文書館のなかには入れなかった。 その他、マゼラン一行もセビージャを出帆して世界一周をめざし、そのうちの一隻が再びセビージャに帰帆して いる。さらに、アメリカ大陸先住民の擁護に尽力したラス・カサスがセビージャに生まれ、また、メキシコを 征服したコルテスは、セビージャ近郊の町で没している。このように、セビージャはアメリカ大陸と密接な かかわりがあり、アメリカ大陸とスペイン、そしてヨーロッパとを結ぶ窓口のひとつであったといえる。 ヨーロッパ人の知らなかったアメリカ大陸のさまざまな産物がここの港に陸揚げされ、さらにヨーロッパ各地へ ともたらされたのである。メキシコを研究対象とするものにとっては、ここがアメリカ大陸植民つまりは侵略の 拠点であったということに複雑な思いを抱くが、今回の旅はあくまでも観光と割り切ってセビージャの町を 楽しむこととしよう。

さて、この時期のセビージャでは、4月末にはじまるFeria(フェリア=春祭り)に向けて町のあちらこちらの ショー・ウインドウに色とりどりのフラメンコ衣装が並ぶ。1週間にわたって老若男女、誰もが歌って踊って、 そして飲む。 Semana Santa(セマナ・サンタ=聖週間)とともにセビージャでもっとも重要な期間である。フラメンコの なかにセビジャーナス(Sevillanas)という曲があるが、これは「セビージャの女性たち」という意味である。 ちなみに、先ほど「カルメン」と書いたが、カルメンというとバラの花を口にして踊るイメージがあるが、 フラメンコではバラの花を口にして踊ることはあり得ない。tablao(タブラオ=フラメンコ・ショーを見せる レストラン)でバラの花を口にして記念撮影をしている日本人を見たことがあるが、是非やめてもらいたい。

子どものフラメンコ衣装 
子ども向けフラメンコ衣装


この日の夜は、セビージャでもっとも有名なタブラオのひとつLos Gallos(ロス・ガジョス)へ行った。 タブラオのチケットは、電話やホテルのフロントなどであらかじめ予約しておくほうが確実なため、 ホテル・シモンのフロントに頼もうとしたのだが、何らかのトラブルがあったため今ではLos Gallosは扱って いないとのこと。El Arenal(エル・アレナル)など、他のタブラオなら予約できるということであったが、 今回はLos Gallosと決めていたため予約はあとにした。結局、サンタ・クルス地区を散歩している とき、Los Gallosのポスターが張ってあったおみやげ物屋で予約をとることができた。夜11時にはじまる ショーには、外国人観光客と思われる客が数組と、なんと広島大学総合科学部の学生2人が来ていた。 海外を旅行していると、たまにこのような偶然に出くわす。そういえば、7年前スペインを旅行したあとに、 イタリアのベニスによったとき、大学卒業のときいらい一度も会ったことのなかった同期生と10年ぶりに 再会したことがあった。それはさておき、セビージャで老舗のタブラオと聞いていたので期待していたのだが、 いまひとつ盛り上がりに欠けていた。その日、たまたま盛り上がらなかったのか、あるいは、フラメンコを 知らない観光客ばかりで「客のノリ」が悪かったためか、いずれにしてもちょっと残念であった。

フラメンコというとロマの踊りとされるが、その起源が明確にわかっているわけではないようだ。 スペイン以外の地域にも多くのロマが住むが、フラメンコを踊るのはスペイン、しかもアンダルシア地方 が中心である。ロマの歌や踊りに、アンダルシア地方・イスラム・アメリカ大陸の歌や踊りが融合して 発展してきたのがフラメンコであろう。セビジャーナスという曲は、フラメンコでもっとも有名な曲の ひとつであるが、これは古くからあるアンダルシアの民謡だといわれるし、フラメンコでよく使うjaleo (ハレオ=かけ声)にole'(オレ)というのがあるが、これはアッラーから来ているという説がある(本当だろう か?)。また、フラメンコには、guajira(グアヒーラ)やrumba(ルンバ)といった曲があり、キューバとの関 連が考えられる。いずれにしても、近年日本でも人気の高いフラメンコだが、それはスペイン独特の音楽と踊り というよりは、さまざまな要素が融合したハイブリッドな文化の表現なのである。今年(2004年)の大学入試 センター「地理」の問題にもなっていて思わず苦笑したのだが、日本では、スペイン=フラメンコという イメージが強い。しかし、バラの花を口にくわえて踊るというのは論外としても、フラメンコ=スペインとい うのは、あまりにもステレオ・タイプに過ぎる一面的で貧弱なスペイン理解・フラメンコ理解=異文化理解では ないだろうか?

帰りは 夜中の1時過ぎ。ホテルまではたいした距離ではないので歩いて帰ったが(夜は危険なので、できればタクシー を使ったほうがよいのだが)、サンタ・クルス地区の迷路に迷い込みなかなかホテルにたどりつけなかった。 『地球の歩き方』には、「道に迷ったらまずこの塔(ヒラルダ)を目指して歩こう」などと書いてあるが、 サンタ・クルス地区からは建物に隠れてヒラルダが見えないことが多いのだ。お気をつけて。

Giralda

サンタ・クルス地区の狭い通りからヒラルダの塔を望む



セビージャの滞在はこれで終わり。明日はヘレスへ。

つづく

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