認知発達理論の最前線 HP上討論


日本発達心理学会第16回大会において,2005年3月29日に開催いたしました,認知発達理論分科会企画シンポジウム「認知発達理論の最前線」には多くの方にご参加いただき,大変感謝しております。

当日は,司会・進行の不手際のために,指定討論者の質問に対する話題提供者の回答時間ならびに参加者の方からの質疑の時間を確保することができずに,一方通行に終わってしまいました。どのようなやりとりになるかを楽しみにされていた方も多数いらっしゃったと思います。そこで,話題提供者と指定討論者の先生方にご協力いただき,議論の続きをHPに掲載いたしました。何らかのかたちで皆様のお役に立てば幸いです。 杉村伸一郎

企画趣旨ならびに各話題提供者の発表内容(PDFファイル)
 発表論文集の206頁から211頁と同一のものです。

■当日の発表資料

話題提供者
 ●杉村   空間認知の発達における理論的展開
       企画趣旨等空間認知の発達 クリックするとプレゼンが始まります。

 ●落合先生 認知発達における理論説
       プレゼンテーション

 ●月本先生 身体運動意味論から見た言語発達
       プレゼンテーション

 ●加藤先生 知覚、行為、表象の切り離しとしてみた認知発達

 ●小島先生 DSAによる発達のメゾ・モデル構築
       プレゼンテーション発表用メモ(PDFファイル)

指定討論者
 ●子安先生 プレゼンテーション

 ●中垣先生 

■質疑応答


●杉村

子安先生のコメントに対する回答
(1) 研究の「最前線」で戦っているのは、どのような理論に対してか?(研究の目標は何か)

 私の研究テーマを一般的に書くと,「空間表象とその心的操作の発達」ということになるのですが,研究の動機の根にあるのは,ピアジェ理論において表象が一旦静的なものになる不思議さです。

 ピアジェ理論では,感覚運動期の終わりに一旦,対象とその移動を表象することができるようになると考えられているにもかかわらず,前操作期に入ると,表象が静的なものになり,操作の発達とともに動的になっていくと説明されています。
 そうすると,2歳前の子どもが,コップなどで覆われた対象が移動するのを見ている時には,いったいどのような対象のイメージを思い浮かべているのだろうか? これが私が大学院の最初の頃にもった素朴な疑問です。2歳前の子どもは,対象とその移動を表象することができるが,その表象は静的で動的な性質をもっていないので,対象の移動を表象することはできない,という矛盾をどのように理解すればよいのか悩みました。

 「表象できるけど表象できない」という禅問答のようなものに取り組み20年近くたったのですが,空間認知の発達に限定すれば,このような問いが国内外の研究者の主要なテーマになることが少なく,また,私の自身の研究もあまり進まなかったので,いまだによくわからない,というのが正直なところです。
 空間認知の発達に関しては,対象の永続性課題を中心に,発達初期の有能性が明らかにされ,コネクショニズム(Munakata, 1998; Munakata et al., 1997)やダイナミックシステム・アプローチ(Smith et al., 1999; Thelen et al., 2001)という新しい理論による説明が行われるようになってきました。また,幼児期以降も,3つの山問題において,空間的な知識の発達(Flavellら)や,その認知過程が明らかにされるとともに,縮尺模型課題などでシンボルの理解や利用の発達が明らかにされてきました。
 しかしながら,感覚・運動的レベルと表象レベルを理論的につなぐ議論は,私の知る限り,ほとんどありませんでした。唯一役立ちそうだと思ったのが,空間情報の使用を1次的と2次的とに分け,その葛藤や協応を想定しているPressonらの議論です(Presson, 1987;Presson & Somerville, 1985)。

 このような状況の中での現在の私の課題は,Pressonらに欠けていた意識の水準と身体性という観点を含め,空間表象とその心的操作の発達を見直すことです。その際に,分科会の第10回例会でも議論になったのですが,表象という用語を自分なりにもう一度整理してから出発し直す必要があると思っています。

(2) その理論は、どのような方法論and/or技法・技術の革新に支えられるものか?

 従来は,乳児期の子どもには感覚・運動的レベルで解決できる課題,幼児期の子どもには表象レベルでしか解決できない課題を与えてきたのですが,私はあえて,幼児期の子どもに感覚・運動的レベルでも解決できる空間定位課題を実施し,そこでの反応を詳しく検討することにより,感覚・運動的レベルと表象レベルの重なりの様子を明らかにしようしてきました。今回の話題提供で発表した再定位課題や再構成課題はその延長上にあります。感覚・運動的レベルと表象レベルをつなぐ理論をつくるために,つなぎになるデータを集めているところです。

 また,昨年度の発心のラウンドテーブルで発表したのですが,180度回転する棒に固定された3個の玉の軌道の理解を詳しく検討することにより,空間定位の過程とその発達的変化を明らかにしようとしています。その際に,採用した方法がPiagetが用いたユニークな方法である臨床法です。
 通常の実験では,ある一定条件でシステムがどのように働くかを調べることが目的なので,刺激や課題を提示し,それに被験者が反応した後には,反応に対するフィードバックをほとんど行いません。それに対して,臨床法では,システムの変化のメカニズムを検討することが目的であり,そのために,調べたいシステムを攪乱させるような問いかけを積極的に行います。
 具体的には,子どもに課題を与えて,単にその反応を記録するのではなく,子どもに内省とその言語化を求めるとともに,実験者が子どもの反応の意味を理解しようとつとめ,さらに,子どもの思考に矛盾があればそれを指摘し,子どもに認知的葛藤が生じるような働きかけを積極的に行います。
 システムのダイナミックな変化を捉えるためには,条件分析的な研究はともかく,縦断研究でも難しいのではないかと考えています。そこで,一見時代に逆行するようにみえるかもしれませんが,Piagetが用いた臨床法は,発達の本質を探る最もすぐれた方法ではないかと感じています。

 あと,理論とは直接関係ありませんが,録画における技術の革新により,以前に比べて,記録の管理や分析が楽になってきました。20年前は,大きく重いビデオカメラをかつぎ,大きなビデオテープに録画し,その後,分析用にタイムコードを入れたりしていました。それが今は,ビデオカメラは300グラム弱の重さになり,直接メモリに録画できるようになったので,自動的に被験者ごとにファイルが作成され,バックアップもハードディスクにコピーするだけです。
 一番の問題は,この便利さが研究論文の本数になかなか反映されないところで,それは技術革新の問題でないことはわかっているのですが…

中垣先生のコメントに対する回答

質問1 Cheng (1986) Cognition, 23, 149-178. において,ランドマーク情報は何であったのか。

回答1 ランドマーク情報(非幾何学的情報)がある条件では,長方形の長い辺(4つの辺ともやや光沢のある黒い壁)の1つだけを白いスチレンのシートで覆っていました。

質問2 Hermer et al.の研究でも Gouteux et al. の研究でも年少児はランドマークのない方の探索が多いという結果が出ているが,このことは偶然の結果なのか,それとも心理学的に何か意味のあることなのか。

回答2 ご指摘のように,Hermer et al.では,探索の割合がランドマークの有る側,無い側の順に,41%と59%,Gouteux et al.の3歳児では,43%と57%でしたが,統計的には有意差はなく,現在の所,偶然の結果の可能性が大きいと考えています。


●落合先生

子安先生
@皆様が研究の「最前線」で戦っているのは、どのような理論に対してか?  (「戦い」のメタファーでなくてもよいのですが、研究の目標は何か)
私が感心があるのは、乳幼児の知識が如何に獲得されるかということです。初期の知識がどのような特徴を持ち、またその知識獲得にどのような認知的機構が土台となっているかということをあわせて理解したいということです。もちろん、初期の知識だけではなく、死に至るまでの私たちの知識のあり方とその土台となる認知機構との関係の時間による変化に関心があります。素朴な疑問としては、生まれてから死に至るまで私たちは如何に知識を持ち、精神生活に知識をどのように機能させているか、その意味は何かということです。現在のところ、このような時間のスパンで知識の発達的変化を考えるときに、1つの考えとして理論説がよりどころとなるかと考えていますが、理論説が落としている知識も沢山あると思います。私自身は理論説にこだわるというよりも、先に書きました乳児から死に至るまでの私たちの知識のあり方とその土台となる認知機構との関係の時間による変化の説明に関心がありますので、これを明らかとする事が目的ですので、理論説の正しさを証明することが目的ではありません。

Aその理論は、どのような方法論and/or技法・技術の革新に支えられるものか?
理論説は方法としては乳児期においては馴化法などもその一つと考えられますし、また脳の機能的な分析(fMRI)もその手法となるかと思います。私が大事だと思っているのは、どのようなモデルを考えることが出来るかで、理論説ではそれを包括するモデルは現在のところうまく考えられていないと思います。理論と方法は理解と生産との関係に似ていて、技術(生産されたもの)に中にすばらしい理論が含まれていることもあり、それを採りだして理論として確立する事もありますし、また理論の中からそれを証明するための方法がつくりだされることもあり、さらに他の領域からの転用も考えられますが、現在認知発達で一番の問題は説明するためもしくは証明するための道具としてのモデルの開発だと思います。私も数年前に、科研で認知発達のモデル化という課題で取り組みましたが、その困難さを思いしらされました。

中垣先生
学会で質問を受けたことよりその後の雑談での質問へ答えます。理論構築支援システムは理論説と関係はないのではというご意見に対して、理論説そのものとは関係がないといえば関係がないとも考えられますが、理論説の問題として、如何に理論が構築されるかという問題があります。その際、1つの説明として理論構築支援システムとして生得的な機構を考える立場があります。丁度言語の獲得に関して、文を丸ごと覚えるという方法によるのではなく,むしろ,語とその意味と,それに,語を入れるパターンを覚えていることによるとされるような事と考えられますが、現在のところ、理論がどのように構築されるかに関して経験をすべて丸ごと覚えるのではなく経験の中から特定の刺激に注目し、その内容を抽出する機構を仮定するということだと思います。この正否の検討はこれからですが、困難な課題だと思われます。私が感心があるのは理論説というよりは、乳幼児の知識が如何に獲得されるかということで、ここには複合的なプロセスが関係していると考えられます。それを如何にもっともらしく説明するかということで、現在のところ理論説に焦点を当ててこの問題を考えているというのが現状です。


●月本先生

A.当日のコメントに対する回答
 コメント(中垣先生):月本説では、イメージ(想像)できることを理解できることとしているが、「赤くない花」は、イメージ(想像)が(はっきりと)できないので、理解可能ではなくなるが、これは変ではないか?
 回答:理解には想像可能性と記号操作可能性の二つがあります(理解の二重性)。「赤くない花」は、「赤くない」の分のイメージがあいまいで、ご指摘の通り、イメージ(想像)が、はっきりとできません。したがって、 想像可能性の意味での理解に関しては、不完全だといえます。「赤くない花」は、何か中途半端な感じがする表現ですが、これは色に関するイメージが確定しないからです。しかしながら、理解にはもう一つの記号操作可能性があり、「赤くない花」は記号操作可能ですので、「赤くない花」は記号操作可能の意味での理解に関しては完全であるといえます。(想像可能性と記号操作可能性については、分科会シンポジウムのパワーポイント、もしくは、拙著「想像-心と身体の接点(ナカニシヤ出版)」を参照ください。)

B.子安先生のコメントに対する回答
1.皆様が研究の「最前線」で戦っているのは、どのような理論に対してか?(「戦い」のメタファーでなくてもよいのですが、研究の目標は何か)
 回答:研究の目標について以下のように考えています。身体運動意味論は、表象に代表される心理的な「もの」と運動に代表される身体的な「もの」を適切に扱えるような枠組みであると考えています。この身体運動意味論は、現在のところ、言語の意味論ですが、言語のみの意味論から行為の意味論にまで拡張し、言語の意味論と行為の意味論を適切に関連付けたいと考えています。言語発達および認知発達に関して、今までに提示された理論のいくつかは相容れない状況であるかと思いますが、上記のように拡張された身体運動意味論で、言語発達および認知発達に関する過去の理論を解釈した上で整理することによって、その相容れない状況をある程度、緩和することができればと考えています。そして上記の作業の結果を踏まえて、行動的・脳科学的実験を行うことで、発達に関するより詳細なモデルを構築し、発達をより良くそしてより詳細に理解したいと思っています。

2.その理論は、どのような方法論and/or技法・技術の革新に支えられるものか?
 回答:以下の通りです。
 理論:(拡張された)身体運動意味論
 方法論:理論に関する方法論としては、過去の理論の身体運動意味論による解釈であり、実験に関する方法論としては、行動的実験と脳科学的実験の融合といえると思います。説明(記述)の方法としては、神経科学的説明(記述)が多くなるかと思います。従来の心的(行動的)な説明(記述)に、神経科学的説明(記述)を付加することで、より詳細で定量的な説明(記述)を行うことができると考えています。
 技法・技術:fMRI等の非侵襲計測技術
 以上です。


●加藤先生

(1) 皆様が研究の「最前線」で戦っているのは、どのような理論に対してか?(「戦い」のメタファーでなくてもよいのですが、研究の目標は何か)
 シンポジウム当日の最初に少しふれましたが、私の研究上の根本的な関心は「表象の発生問題」にあります。言い換えれば、現実世界を心に映しかえて、現実世界とは相対的に独立の別の心的世界を保持できる人間に固有の機能がどのように成立していくのかという点にあります。先生のおことばを使えば、人間だけが「現実の世界」と「妄想」の世界を二重に生きることができるのはなぜか、という疑問の解明と言い換えることもできるでしょう。この点では、認知発達の領域における関心の持ち方としては、先生に比較的近いのではないかと、勝手に思っております。
 したがって、こういう関心の持ち方からすると、心的操作の高次化を中心とする認知発達研究、つまり、概念形成や推論の発達を中心とする研究よりも、乳児期の終わりから幼児期にかけての(自己像を含む)外的表象の理解やふりの理解、描画発達、空間的イメージの形成といったテーマが私の好みのテーマということになります。
 私はもともと空間認知研究から始まっていろいろなテーマ遍歴のあと、現在の発達研究に戻ってきたのですが、最近になってやっと、他人から見ると広がりすぎて一貫性のないスタイルにも、自分なりの一本の筋道があったと思えるようになりました。いろいろなことが自分の中で繋がって、この歳になってやっと研究が面白いと心から思えるようになったと言ったら、「あまりに遅い!」とみなさんに笑われるかもしれませんね。

(2) その理論は、どのような方法論and/or技法・技術の革新に支えられるものか?
 ここ15年ほどずっと考えていて、未だにうまく体系化できない私の研究の視点は、「活動や行為中心の、能動性重視の心理学」(それはまさに西欧生まれの心理学の抜きがたい属性だと思います)に「『生きる』ということにおける受動性の意味の正当な復権」をどう組み込むか、という問題です。表象発生論も、そういう視点から、関係や循環の側面よりも「切り離し」や「距離化」の側面を中心に見たいと考えてきました。また、運動機能よりも姿勢の機能、活動する身体よりも緊張する身体に目を向けるワロンの発達理論に学ぼうとしているのも、こうした視点が今後の心理学の発展のなかで必ず必要になると信じるからです。
 こういう視点が最近の新しい理論的動向と重なる部分があるかどうか、私にはあまりよくわからないのですが、それでも、実行機能とメタ表象機能との関係の問題や、distancing, decoupling などの概念が発達の領域で用いられるようになってきていることに、少しは意を強くしています。

(3) 加藤のモデルへのご指摘について
 私がさしあたり考えているモデルに、過分に好意的なコメントをいただき、ありがとうございました。「思いつきの域を出ない」と自分でも自覚していたので、多少なりともこの線で深めていけばものになるかもしれないと、とても勇気づけられました。
 Cristopher Frithの文献を教えていただいたことも、とてもありがたかったです。Uta Frithの「自閉症の謎を解き明かす」のほうは読んでいて、そのなかにもdecouplingの概念が出てくるのですが、私自身は自分のモデルを考えるとき、これをほとんど思い浮かべていませんでした。改めて、勉強してみたいと思います。
 モデルを障害との関連でとらえることができるというご指摘も、あまり考えていなかったので、たいへん新鮮でした。この点もさらに深めてみたいと思います。


●小島先生

1.研究の「最前線」で戦っているのは、どのような理論に対してか?
  (「戦い」のメタファーでなくてもよいのですが、研究の目標は何か)
2.その理論は、どのような方法論and/or技法・技術の革新に支えられるものか?

 

私(小島)が現在、認知心理学の暗黙理論として用いられている「表象主義」に対して抱いている疑問は、二つのレベルに区別される。それは実験レベルと理論レベルの二つである。そうした疑問をもつに至ったのは、実際には、まず理論レベルにおける転換が先であり、それに基づいて実験データに対する様々な付随する疑問が後で喚起されたと言える。

しかし、ここでは便宜的に、データに伴う問題点を指摘するところから始めて上記の問いに答えることにする。

1.心の理論に見る表象(メタ表象)主義の問題

(1)言葉を用いない課題

 チンパンジーを被験体として用いたウッドラフとプリマック(1979)の実験を例にとると、どのように巧妙に仕組んだ実験も、それが随伴性による強化学習である可能性を完全に排除できない。彼らの実験で、親切な訓練者と意地悪な訓練者の区別を学習したチンパンジー(4頭)が、コップの下に隠した食物を報酬として得るために、食物を隠された方のコップを正しく指すか(相手が親切な訓練者の場合、正しい方を指すと、食物をもらえる)、空のコップをわざと指すか(相手が意地悪な訓練者の場合、正しい方を指すと、食物を横取りされてしまうので、空の方を開かせて、後で食物を得る)を学習できるかどうかテストされた。結果は、4頭のチンパンジーはすべてこうした学習が可能だった(自然な状況では、自分が欲する食物の方を指したいという強い衝動があるにもかかわらず)ことから、チンパンジーも心に関する何らかの理解が可能であり、意地悪な訓練者を意図的に騙すことができたのだと解釈されるかもしれない。

 しかし、彼ら(松沢さん風に)は、二人の訓練者に対する区別を学習するのに50回以上の試行回数を要したのである。このような長期間にわたる訓練は、両者に対する随伴性を行動的に学習した可能性を示すものかも知れない。

 仮に、もっと巧妙で、かつ結果が短期間の訓練によって得られた場合(例えば、ポヴィネリら、1990)であっても、実は、この可能性はゼロにできない。(詳細は、Povinelli,D.J., Nelson,K.E. and Boysen,S.T. 1990 Inferences about guessing and knowing in chimpanzee. を参照のこと)

(2)言語を用いた課題

 それでは、言葉を用いれば、そのような問題は回避できるのだろうか。随伴性云々の問題は排除できるかも知れない。しかし、それに代わる別な、困難な問題が生起する。それは正に、言語の(語用論的)問題である。

 パーナーがヴィマーとともに行った誤表象の理解に関する実験を例に取ろう。この課題に正しく対処するには、一般に、現実についての誤った叙述が現実(その指示物の状況)とは相容れない一つの解釈(述べられた状況)を有することを心的に表象しなければならないという理由からメタ表象する能力が必要だとされる。表象を必要としない課題であれば、2歳児でも、現実に関する叙述とその解釈が現実と合わない場合には断固「ちがう」と言って譲らないことから、このような理解はすでに可能だと言える。しかし、誤った叙述を拒否できることと、彼らが自分たちのしていることを心的に表象していることとはイコールではない。ヴィマーとパーナーは、3歳児でも、叙述の誤表象としての意味を理解しているわけではないことを明らかにするために、子どもが無知によって引き起こされた自分自身の間違いを覚えておくのが困難であるという事実について実験によって検討した。

 明確な意図をもたず何となく話された事柄は、明確な意図をもって話された事柄よりも思い出すのが難しいという観察事実がある。また、記憶は再構成されるものであり、話されたことの要旨のみを思い出すことができるし、覚えている要旨から実際に話されたことを再構成することも可能である(Bartlett 1932;Sachs 1967)。もし年少児が、ある叙述が現実を誤表象しうるという観念をもたないとしたら、彼らは現実に関する間違った主張をうまく再構成することができないであろう。

 子どもたちがよく知っている典型的な容器、たとえば、チョコレートの箱を、子どもの目の前に置く。そしてカスパールが登場する。カスパールは、有名なオーストリアの操り人形のキャラクターである。彼は子どもに問いかける。「こんにちは!とってもきれいな箱をもらったね。中には何が入ってるの?」 子どもたちは皆「チョコレート」と素直に答える。カスパールが箱をあけると、箱の中にはチョコレートはなく、かわりにオモチャのクルマが入っている。子どもは、箱の中にチョコレートではなく本当はクルマが入っていたことを確認された後、記憶課題を課される。「箱を開ける前に、カスパールがあなたに、箱の中に何がはいっているか聞いたら、あなたは何が入っていると答えますか」

 この質問に正しく答えられた3歳児はほとんどいなかった。それに対して、4歳児はほとんど全てその質問に正しく答えることができたとされる。

 大多数の3歳児は、「チョコレート」という間違った答えを思い出しそこなったわけではなかった。事実、彼らは、「クルマ」という実際の箱の内容を答えたと誤って思い出したのである。そのような答えは、もし子どもたちが間違った主張の意味(解釈)と指示物とを区別できないとすれば、予見できたことではある。彼らの元々の答えのポイントは箱の中に入っているものは何かを言うことであったため、その時箱に入っていたもの、すなわち「クルマ」を、先に答えた回答であるかのように再構成してしまったのである。彼らはそれを「チョコレート」とは再構成できなかったのだ。なぜなら、それができるためには、述べたもの(指示物)を、ある状態として述べたもの(意味趣旨)から分離する、メタ表象的能力が必要とされるからだという。

ヴィマーとパーナー(1990)は子どもたちが、間違って誤ったことを言わされるかわりに、冗談でわざと間違ったことを言うように誘導する実験を行なった。この条件は、叙述する以前にチョコレートの箱にオモチャのクルマがあることを子どもたちが知っている点だけが先の条件とは異なっていた。急いでやって来たひょうきん者カスパールに対して、子どもたちは、馬鹿げた冗談、つまり箱の中にはチョコレートが入っているよと彼に教えるよう教示された。3歳児22名中7名と4歳児12名中1名については、さらに遊びを続けて、箱の中に実際に入っているものをカスパールに教えるように説得できなかったので、実験から除外された。この条件では、自分たちが間違った答えをした場合とは違って、3歳児でさえほとんどが完全に自分の馬鹿げた答えを思い出すことができた。

 子どもたちが実際の箱の内容を述べるというカスパールへの答えを純粋に間違って経験した最初の条件とは違って、2番目の条件では、子どもたちは自分たちが現実の内容を述べていないということを知っている。したがって、彼らの見方からすれば、現実の状況とは異なった状況を述べているということになる。現実とある仮想的状況との間の違いをつくり出すこと自体は、3歳児、あるいはもっと年少の子どもたちでも可能だった。その場合、3歳児は自分たちの馬鹿げた「誤り」の叙述の意味を形成することができたので、その結果、自分たちの言ったことの記憶も相当よく保持されたのだと考えられる。

 この実験の2つの条件の間に見られる大きな違いは、3歳児が、誤表象の観念をまったく有していないという理論的な予想を支持するものと考えられた。彼らには、叙述が現実の状況(指示物)を記述可能であるだけでなく、まったく異なった状況(意味)としてもそれを(誤って)記述可能であるという表象的な見方はない。彼らは、違うやり方で叙述を使用できるだけである。彼らが、冗談で、現実とは違う状況を記述するためにある叙述を意図的に使うときには、どんな状況を自分が記述したのかを思い出すことができる。しかし、現実の状況を記述するためにそれを使う(現実に関する情報としてそれを経験する)ときには、その現実を記述することとしてしかそれを思い出すことができないとされる。4歳のメタ表象可能な者だけが、実際の有り様とは異なったものとして現実の状況を誤って述べたことを思い出せる、というのである。

 しかし、こうした解釈は一つの妥当な解釈として成り立つことは否定し難いけれども、非言語的な課題における随伴性の可能性と同様、言葉の使用意味とコミュニケーションの問題を除外できない以上、もう一つの解釈の可能性を完全には排除できない。つまり、太字下線部で強調したような言語的な教示の意味の理解におけるズレの内容がどのようなものであるのか、それが実験結果をどのように変化させるものであるのか、言語抜きの人工的な課題を編み出したとしてもその実態を解明するのは大変難しい、というより原理的に不可能であるかも知れない。

(3)メタ言語の不可能性

 表象主義が抱える原理的問題を列挙すると次のようになろう。

1. ある心の状態を他の状態から区別することは可能か?

2. 心がある種の鏡(事実を表象として写す)だとすると、鏡がそれ自身を写すことは可能か?

3. 心の状態を生理学的指標によって表すことはできるか?─吸啜反応はどうして新しいものへの「関心」を表すと言えるのか、それがなぜ「苛立ち」でないと言えるのか?

4. 心に関する用語の用い方は本当に他者と共有できているのだろうか?あなたが「恐れ」と呼んでいるものが、私が「怒り」と呼んでいるものではないと確信をもって言えるのはなぜか?

 こうした表象主義に対する疑問に対する答えは、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームに関する理論にみることができるのではないか。

 ヴィトゲンシュタインの“言語ゲーム”に関する立場は、われわれの言語についての考え方を根本から転換させるものだったように思われる。一言で言うならば、写し絵メタファーからゲームメタファーへの転換だと言える。言葉の意味とはチェスにおけるコマのもつ意味と同様に、それが使用される一定の文脈において送り手と受け手の行為と一体になって初めて全体として構成されるものだという。したがって、事実(世界についての意味)も、言語を如何に使用するかによって生み出されるものだと考えられるのである。

 K.ガーゲンによれば、共同行為に関する実用上の了解が成立して初めて、それらの用語がある事実を記述する言葉としてその意味に関する合意に達することができるとされる。このように事実についても言語ゲームと同様の“事実ゲーム”によってしか、その身分を確定できないのではないかと考えられる。

 ヴィトゲンシュタインが言語でもって言語を語ることの不可能性を論じたことからも分かる通り、表象においてもそれを表象するような高次のメタ表象というものを考えることは、おそらく言葉の使用上の誤りに類するカテゴリカル・エラーであるように思われる。複数の言語ゲームが考えられるとしても、それらは上下関係においてではなく、平面上に重なり合い、ずれ合う関係でしかないのである。

2.身体化認知論(一元論)が言語ゲーム論から導かれる契機

(1)第一の契機は、言葉が現実をありのままに写しとるものではないという二十世紀の言語哲学からの主張である。この、いわゆる“ポストモダン”による伝統的な自己、真理、科学への批判は「言語とは何か」というこれまで見過ごされてきた弱点に対して向けられたものである。言語が経験を正確に記述し、他者にその通り伝達し得るものだ、という前提は正しいのかという根本的な問いが含まれている。それに答えようとして繰り返し現れた科学哲学における「言語の対応理論」は、いずれもその説明に失敗した。クワインの『言葉と対象』における“ギャバガイ”の例が如実にそのことを物語っている。これは一般に「言葉による指示の不確定性(あるいは不透明性)」と呼ばれてきた事柄である。

(2)第二の契機は、価値中立的な言明など存在しないという主張である。利害や関心のあり方によってある事柄の言語的表現が異なる。マルクスが、資本主義経済の理論が資本家による労働者の搾取を正当化するものになっていると指摘したのはその古典的な例であろう。ハーバーマスも『認識と関心』の中で、「いかなる知的探求であっても特定の利害・関心に特権を与えたり、特定の政治・経済の形態を促進したりすることは避けられない」と述べている。これは価値中立と思われている自然科学においても同様に当てはまることなのである。

(3)第三の契機は、記号論から脱構築へという思想的な変化である。ソシュールの『一般言語学講義』によると、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との関係は恣意的なものだとされる。記号のシステムはその内的論理に支配されているのであり、言葉と世界を結び付けているのは慣習に過ぎないとされる。

世界についての理解が言葉の間の関係のみから成り立っているとすれば、第一に全ての有意味な行為は、ありえたかも知れない多様な意味を抑圧することによって成り立っていると言える。第二に合理性の根拠を突き詰めていけば、必ず崩壊する可能性をはらんでいる。言語とは差異のシステムであると主張する脱構築主義の代表的人物としてJ.デリダを挙げることができる。

身体化認知の詳細については、「シンポ原稿」のファイルにあるのでそちらを参照のこと。

 

質問2.技法、方法論に関して

 ダイナミック・システムズ・アプローチをもって一元論的、また、クワインの言う 認識の自然化アプローチの具体的方法とする、というのが案です。つまり、発達を自己組織化としてみる見方をとるということになります。表象という概念は、現時点における近似的概念として一定の妥当性をもつものと考えられますが、近い将来、一元論的な見方がそれに取って代ると見ています。中垣先生が述べておられるように、その時は、再びピアジェの理論が(そのままではないかも知れませんが)脚光を浴びるだろうと予想されます。


質疑応答は以上です。今後の認知発達理論分科会で,この対話の続きが生まれていくと思います。
皆様のご参加,お待ちしています。