角谷快彦 | 広島大学医療経済研究拠点・広島大学大学院社会科学研究科社会経済システム専攻

Japanese

「寓話で学ぶ信用貨幣論」の補足説明2

2020年6月3日

拙稿「寓話で学ぶ信用貨幣論」で、財政政策を含むマクロ経済の政策決定において、論者の貨幣観の違いが全く異なる主張を生むことを明らかにし、その補足説明では現代の「何もないところから貨幣が生まれる」仕組み(信用創造)について概観しました。

今回は、それでも「何もないところから貨幣が誕生する」ことの理解に抵抗がある方のために、お金の起源の概観まで掘り下げて解説します。

貨幣が先か負債が先か

世の中の多数の人の貨幣観である「商品貨幣論」は、お金(貨幣)の価値は人々が貨幣そのものに価値があると信じていることによって担保されると考えます。ですので、お金は経済の成り立ちとともに誕生します。

すなわち、次のようなストーリーです。有史以前、漁師は釣った魚を農夫が育てた人参と物々交換しようとします。

しかし、実際にやってみるとわかりますが、物々交換というのは極めて難しい。自分と取引相手が等価と思えるものを探し出し、交換するのは至難の業です。読者の方も、数人で無人島にキャンプにでも行って昔の生活を想像してみればこの大変さは理解できるでしょう。

もちろん、時にはうまくいくこともあるかもしれませんが、大抵は次のようになります。大きな魚と小さな束の人参。交換したいけど、どうやら大きな魚の方が小さな束の人参より価値が大きそうだ。

商品貨幣論では、そうした場合に、その差を、はじめから存在した「人々が共通に価値があると思う何か(例えば金・銀(=商品貨幣)」)で埋めると考えます。大きな魚と小さな束の人参の不釣り合いな取引は、人参を差し出す人が、持っている金・銀の一部を差し出すことで埋め合わせ、不釣り合いを解消します。

こうして、人は物々交換を繰り返し、結果として金・銀等の「貨幣」を一定程度貯めた人はそれを仲介者(現代で言う「銀行」)を通じて、必要な人に貸し出します。

商品貨幣論では、このように、価値が共有された貨幣が最初から存在していることを前提としてストーリーを描くのです。

しかし、このストーリーは実証的にも論理的にも無理があります。

まず、実証ですが、文化人類学的にも考古学的にも、人々が物々交換によって経済を成り立たせていたというエビデンスはほとんどありません。

次に、論理ですが、商品としての貨幣が先に来る商品貨幣論の話には根本的な無理があります。すなわち、なぜ人々が集団催眠のように金・銀その他のものを絶対的な価値があるものとして最初から認識したか、論理的な説明ができません。

お金が先か負債が先か。この問いに対する答えはもちろん、お金ではなく、負債です。言い換えれば、財としての貨幣ではなく、負債の記録としての貨幣が先なのです。

地球上には、程度の差こそあれ、古代より季節があります。ビニールハウスがあるわけではないので、古代では当然、農作物は一年中いつでも取れるわけではありません。漁師が魚を獲ったとき、農夫は人参の収穫を終えていないかもしれません。

もちろん、漁師も冷蔵庫があるわけではないので、自分が食べる以外の魚はすぐになにか別のもの―例えば人参―と交換しなくてはなりません。一方、農夫は収穫期はまだですが、今日食べるものが必要です。

そこで、農夫は、人参の収穫期が来たら、差し出す魚に見合う人参の束を漁師に差し出すことを約束して、漁師から魚を受け取ります。言い換えれば、農夫が将来人参の束を漁師に渡すという約束こそが負債であり、貨幣なのです。

そして、反対側で、漁師から見れば、収穫期が来たら農夫が人参の束を受け取れる(例えその時期に魚が一匹も釣れない日が来ても食べるものがある)という安心が資産であり、貨幣なのです。

そして、これが信用貨幣論の本質である「貨幣はIOUの記録である」という意味です。IOU(=I owe you)は文字通り「君には恩に着るよ(君に借りができたな)」といった意味で、現代でも言語を問わず日常的によく使われる表現です。

大学生が勉強を教えてくれた親友に「Thank you. I owe you one(ありがとう。君には一つ借りができたな)」と言えば、その人は勉強を教えてくれた友達に「勉強を教える」という負債を負ったという意味です。

そして、その負債の解消法は、両人の関係性によって異なりますが、一般論として、学生であれば「代わりに別の科目を教えてあげる」、「一度メシをおごる」、「かわいい(カッコいい)異性を紹介してあげる」等で解消するかもしれません。

また、野球の試合で、序盤に失点に繋がるエラーをした選手が、その後同点ホームランを放つことを「エラーを帳消し」等と形容しますが、これもエラーをして相手に得点を献上するという負債を同点ホームランで解消にしたという意味です。

先に述べたように、こうしたIOUは、人間同士の関係性によって異なり、必ずしも目に見えるもので交わされる訳ではありません。

例えば、ホームランが打てなかったとしても、チームメイトを鼓舞したり、率先してグランド整備を行う等のチームへの貢献でもエラーは帳消しになるでしょう。

また、仮に恩を受けた人が現物的なお返しが困難な障がい者であっても、困難を克服しようとする姿や御礼代わりの笑顔でお世話をする人に対するIOUを解消して余りあることもあります。

要するに、IOUとは古代から現代に至るまで変わらぬ「人間関係」そのものなのです。

ところで、この人間同士の営みであるIOUは、親友や家族、チームメイトといった密な関係性においてこそ、「阿吽の呼吸」で通じますが、人間関係が及ぶ範囲が拡大するにつけ、「IOUを記録すること」が必要となります。

例えば、先に登場した、古代の漁師と農夫の関係が極めて疎遠なものだったら、勉強を教えてあげる学生がほとんど会ったこともないような人だったら、どうでしょうか。

疎遠な関係性の中で、IOUを記録することなしに、飢えるリスクを軽減し合ったり、勉強ができる人を増やしたりする、「世の中の効用の高まり」は生じたでしょうか。

貨幣の登場

貨幣とは「IOUの記録」です。例えば粘土板にIOUの記録を刻みつけ、その記録を人々が信じれば、それが貨幣になります。先程農夫に魚を渡した漁師がその粘土板を持っていれば、人参の収穫期前に、魚が一匹も釣れない事態に陥っても、その記録(収穫期に人参を得られる記録=貨幣)を持って狩人のところに行ければ、肉と交換してもらえるでしょう。そして、狩人はその粘土板を持って他の人から木の実を買いに行きます・・・。

この際、必要なのはその記録が正しいものだと皆が信じることです。ですので、通常コミュニティの中で一番人望のある人(仮に「酋長」と呼びます)に皆が粘土板を預け、記録の管理を依頼します。人々はもはや粘土板を持ち歩きませんが、IOUを繰り返し、その結果を酋長に報告し、酋長は記録を管理します。

これらの写真は、現在のイラクにある、メソポタミア文明が栄えた時代の古い「寺院」の遺跡から大量に発見された粘土板です。この「寺院」はこの時代の「銀行」もしくは「政府」と呼べるでしょう。粘土板に記されているのは文字通り「IOU」、債務と債権の記録です。

この「政府」はもちろん、信用創造も行ったでしょう。酋長等リーダーの絶大な信用を使い、何もないところから、「政府の負債・労働者の資産」を作り出します。

貨幣とはIOUの記録です。ですので、上記を言い換えれば、政府は何もないとこから、恩を受けていないにも関わらず「恩に着るよ」と言って労働者に貨幣を供給(政府の負債・労働者の資産)するのです。

このメソポタミア文明に限らず、エジプトのピラミッドも中国の万里の長城も奈良の大仏も全部、人類史の「巨大公共事業」の多くはコミュニティのリーダーが貨幣を信用創造して人々に分配する(給与を支払う)ことで生まれたと考えられます。

まさか、リーダーが何万人という労働者の首にナイフを突きつける等して、無理やり何年・何十年も働かせた結果だけではないはずです。もちろん、ソ連がシベリアに抑留した旧日本軍兵士に作らせた中央アジアの建造物等、暴力による支配の結果としての”遺跡”も実際に数多くあるのも事実です。しかし、「文化の歴史=暴力支配の歴史」ではもちろんありません。

いずれにしても、現代に連なる貨幣理論の背景には、意外にも、何千年もの歴史があるのです。その意味で現実は「貨幣の歴史=人間関係の歴史=文明の歴史」に近いといっても過言ではありません。

IOUの記録は粘土板だけではありません。IOUの記録を壁画として残した例、巨大な石をIOUのシンボルとした例(かつて日本が統治したこともあるミクロネシアのヤップ島の石器貨幣は今も日比谷公園に展示されています)、タリーの木の枝を割ってIOUを記録した例等があります。

ちなみに、イギリス財務省は1782年まで会計帳簿を管理する手段として公式にタリーの木片を使っており、制度が廃止された後も1834年まで一部で使用していました。その後、使われなくなったタリーは貴族院のストーブで燃やされましが、この火が原因でウェストミンスター宮殿が焼け落ちています。現在テムズ川沿いに建っている建物はその後に再建されたものです。

上記の事実に加え、あくまで個人的な推測ですが、日本を含む世界中で発見されている「貝塚」の多くも、実は地域の人が貝殻をIOUを記録(記憶)するために使っていたのではないかなと私は考えています。

さて、最後の貝塚の話はともかく、論理的にも、歴史的にも、実証的にも、貨幣とは商品(商品貨幣)ではなく、IOUの記録(信用貨幣)であることは明らかであるように思われます。

逆に、信用貨幣なしに文明の発達や経済成長を説明することは、非常に困難というかほぼ不可能だと思います。

読者の中にはここまで読んで、「では、商品貨幣論に基づいた『金本位制・銀本位制』が人類の歴史の一時期に存在した事実はどうなんだ」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

確かに、戦後のブレトンウッズ体制をはじめ、多くの国・体制に、商品貨幣論を前提とした金本位制・銀本位制が実際に採用された時期があるのは歴史的事実です。ただし、これは体制やその政府が金本位制・銀本位制を採用していたというだけで、当該の体制や政府以外のすべてが商品貨幣で運営されていたわけではありません。

前回の補足説明でも述べましたが、貨幣を創造できるのは政府だけではないのです。例え政府が金や銀の保有量に沿った貨幣供給を志しても、政府が国民の人間関係を完全に規制できない以上、民間の銀行がそれに従うわけではないのです。実際、歴史上、金本位制・銀本位制の体制下で「インフレ」や「経済成長」がたびたび起こったのもそのためです。

ちなみに、ブレトンウッズ体制下、1970年5月のアイルランドでは、アイルランド銀行職員組合が賃上げストライキを敢行し、銀行が完全閉鎖。にも関わらず、同年11月に騒ぎが収束に向かうまでの間、アイルランド経済は成長を続け、結局ほとんど影響を受けませんでした(Krugar, 2017)。

その間、緊密なコミュニティが築かれているアイリッシュ・パブが、銀行の代わりに小切手で代金を払おうとする信用力を審査する上で、重要な役割を果たしたからです。

同じ様な例は、2001年のアルゼンチンにもあります。当時、通貨危機に陥っていた同国政府は、2001年12月2日に銀行預金の引き出しを規制(「コラリート(預金囲い込み)政策」)を実施。

お金が突然引き出せなくなったアルゼンチン国民は、州、市、スーパーマーケットチェーン等が独自に発行する借用書を「代替貨幣(quasi-monies)」として流通させました。そして、その結果、2002年3月には、その「代替紙幣」が国内に流通するマネーの26%を占めるようになっていました(de lat Torre, Levy-Yeyati, and Schmukler, 2003)。

このように、「貨幣の歴史は人間関係の歴史」。政府や銀行ですらも国民の人間関係をすべて規制することは出来ないのです。

では、なぜこれだけ明らかな答えが出ていながら、多くの人が未だに「商品貨幣論」に魅力を感じるのでしょうか。Martin(2014)によれば、かのアリストテレスもジョン・ロックもアダム・スミスも商品貨幣論に賛同したと言います。

商品貨幣論が魅力的である理由

それでも人々が商品貨幣論に惹きつけられるのは、私が何度も述べているように、「貨幣の歴史は人間関係の歴史」だからです。

まず、永遠に信頼できる人間関係というものはありません。IOUの記録である信用貨幣は、それを管理する為政者や銀行で働く人への信頼によって成り立ちますが、その信用が覆された例は歴史上、枚挙に暇がありません。

中国大陸の易姓革命、度重なる欧州の王朝の栄枯盛衰を見るまでもなく、王朝の腐敗や他国からの侵略等によってIOUの記録が破壊され、資産が一瞬にして無に帰す等ということは歴史を振り返れば数え切れないほどありました。

現在の日本は民主主義である以上、政権を監視し、腐敗していると感じれば(選挙等によって)政権をひっくり返すこともできます。その意味で、民主主義以前の社会に比べれば国民のリスクはかなり低くなっています。

それでも、人類に永遠の信頼関係が存在しない以上、混乱の可能性は今後もゼロにはならないでしょう。

そうした想いに駆られる時、貨幣は歴史的に儚い存在である「IOUの記録」によって成り立つのではなく、金や銀のように貨幣「そのものの価値」によって永遠に成り立って欲しいと考えるのは、ある意味、人間の心理というものでしょう。

だから、こうした商品貨幣論には、いつの時代も、歴史を広く省みることができ、「歴史のガラガラポン」によって失うものが多い、「エリート」が陥りやすいのです。

私がこれまで書いてきた信用貨幣論の論考は別に新しいものではありません。その本質を理解している人は、それこそ何千年も前から幾らでも居ました。

ただ、時折、歴史を振り返り、またその歴史の延長線上にある不条理な未来を想う時、人、特にエリート層の人は、そのサガとして”永遠の価値”を持つ商品貨幣論を追い求めたくなるあまり、貨幣観を歪めるのだと思います。

MMT論

ところで、私は以前、私の考えはMMTにとても近いと述べましたが、私自身がMMT論者かというと正直よくわかりません。

まず、MMTの貨幣に対する認識は単なる事実ですので、賛否云々ではないと思います。次に、そこから先のMMTの議論(雇用保障プログラム等を含む)は政策論なので、そこには少なからず論者の「価値観」が入ります。つまり、賛否はケースバイケースにならざるを得ないと私は思います。

例えば、私はコロナ禍の経済対策に際し、次のように述べています。「政府は今こそPB目標を止め、国債を大量発行し、全力で国民を救うべき」。

この主張は、MMTとはもはや何の関係なく、「経済政策は経世済民(世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと)を目的とすべき」と考える私の「価値観」が入っています。賛否がわかれるのは当然です。そして、このことは他者の主張に対する私のスタンスにも同じことが言えるでしょう。

そもそも、MMTは物凄く大雑把に言うと、信用貨幣の要素をマクロ経済学に取り込もうとする、少数のマクロ経済学者(ケインジアン)達の試みです。

一方で、特に欧州やオセアニアに多いのですが、これまでマクロ経済学の傍流もしくは別分野とされてきた「Banking & Finance」分野の一部の研究者が、信用貨幣からマクロ経済を観察しようとする試みもあります。

私はいわゆる「マクロ経済学者」ではないので、どちらかというと後者です。

私はもともと医療経済学を専門としていますが、近年特に健康とお金は色んな意味で切っては切れない関係にあり、そこを入り口として「Banking & Finance」そのものについても研究するようになりました。

そして、そこからマクロ経済学を観ると、それこそ経済と切っても切れない関係にあるはずの「信用貨幣」がモデルに不在であることが、もしかしたら、政策的なミスリードに繋がる可能性があるのではないかと考えるようになったのです。

実際、特に欧州やオセアニアでは、Banking & Financeを研究する人達の中には、信用貨幣論でマクロ経済を観る人は少なくはなく、彼らは特に2008年のリーマン・ショック後に発言力を増しました。

私はその時期、オーストラリアで研究をしていたので、少なからず影響も受けたと思います。

ただ、最初のコラムで述べたように、信用貨幣論のメガネを掛けると、経済の見え方が同じ様になるので、MMT論者とBanking & Financeの一部の研究者のマクロ経済に対する見方は、同じではなくとも、互いに理解できる部分が多くなるのは間違いないと思います。
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