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++ 12.08.01 (wed) ++ 「才能がない人間は努力しろ」 というのが私のモットーです。 しかし, 「能力がなくても対応しなければならない」 のが大人の世界です。 実力不足を自覚してから努力を初めても間に合わないことが多々あります。 だから準備を怠らないようにしてます。 けれど,たびたび準備していないことを求められるのも大人の世界(笑)。 |
++ 12.08.02 (thu) ++ 教育的な配慮をしようとするとレベルの低い学生が取り残されないようせざるを得なくなりがちです。 しかしそうすると,伸びしろの大きい学生に時間を割くことが出来なくなったりします。 トータルで考えると,レベルの低い学生に付き合うべきではないのかもしれません。 高いレベルにいる学生と楽しく学問してる姿を他の学生に見せつけてやった方が良い気もします。 それを見て何をすべきか悟れば,他の学生も得るものが大きいのではないでしょうか。 大学ではそういう教育の仕方が許されるのでは? (現実的にはなかなか難しいのですけど。) |
++ 12.08.03 (fri) ++ 以前から科学者は特定のイデオロギーとは距離を置かなければならないと思っており, 少なくとも表向きは特定の政治的立場や宗教的立場を表明しないことを信条としている(*1)が, 科学者であるという立場を表明した時点でその信とするところを示したことになり, 重視すべきことに自覚的になる以上,イデオロギーとは無縁ではいられないとも分かっている。 −−−−−−−− (*1)「04.04.10」参照。 |
++ 12.08.06 (mon) ++ 私自身や,私の研究室のモットーは「結果が全て」です。 なので当然,教師を目指すが学生向けの講義でも 「教師は教育のプロセスに責任を持ってもしょうがない」 「教師は教育の結果,つまり子どもたちがどう変わったか(変わらなかったか)にこそ責任を持つべきだ」 と訴えます。 しかし,この私の訴えの真意を学生たちが理解できないのであれば,私自身がその結果に責任を感じなければなりません。 |
++ 12.08.07 (tue) ++ 私にとって病気や怪我で仕事を休むことは死を意味します。 私の代わりなどいくらでもいるからです。 なので,体調管理等には細心の注意を払っています。 |
++ 12.08.08 (wed) ++ 私のことを「代わりがきかない唯一の人物」と思ってくれる人がこの世に一人もいないと実感できることは,寂しいことではあるけれど,生きることに執着しなくても良くなるので,清々することでもある。 |
++ 12.08.09 (thu) ++ 私のことを代わりがきかない唯一の人物と思ってくれる人がこの世に一人もいない以上,せめて仕事上では必要とされていたいです。 |
++ 12.08.10 (fri) ++ 中学1年の頃,わりと好きだった(わかってる側の大人だった)数学の先生が 「卒業する頃には教師を超えるヤツがいて普通」 とおっしゃってました。 当時の私は数学的なセンスの話だと解しましたが,今はもしかしたら違うかもと思い始めています。 多分,学力の話ではなく,思考力の話だったんじゃないかと思い始めています。 中学生くらいだと発達段階的に大人と同じ質の思考をできるようになっていると考えられます。 また,国立の教育大学やそれと同レベルの国立の教育学部の学生の偏差値を60と見積もります。 ここから,平均的な教師の学力偏差値をおおよそ60とします。 そうすると,生徒の約15%は教師より上の偏差値となるはずです。 大人と同じ思考の仕方が出来,偏差値と思考力がある程度相関すると考えると,学力は及ばないにしても,思考力では超えてしまう生徒がクラスに数人はいると考えられます。 実際,私も思考しようとしないタイプの教師に呆れる事は多々ありました。 私みたいな比較的ボンクラな生徒でもそうだったので,出来る生徒は平均的な教師をどう見ていたのでしょうか。 そして,その平均的な教師は生徒たちが思考力で自分を遥かに越えて行ってることに気づけていたのでしょうか。 |
++ 12.08.13 (mon) ++ 世の中にいるのは「大人」と「子ども」ではなく, 「自分のやるべきことが自覚できている人間」と「出来ていない人間」。 |
++ 12.08.14 (tue) ++ 教師は 多面的で論理的な思考力などの能力, しっかりとした教育観や教師観,教科観などの考え, 教えようとする教科に対するちょっとした専門家並の知識, 子どもに道徳を説くために,最大多数の最大幸福,功利主義の限界等を語れるくらいの道徳性, 子どもと関わるためのカウンセリングマインド, 学級経営をするためのリーダーシップ, 等々を備えていなければ務まらないのに, そんなスーパーマンになろうとしている崇高な学生たちに 授業をしている私がボンクラで申し訳ないといつも思ってます。 |
++ 12.08.15 (wed) ++ 私には有能感も劣等感もない。 なので, 有能感に満たされたエネルギーや 劣等感をバネにした勢い といった猛烈なやる気がわいてくる要素がない。 実際,本来は私は努力家ではない。 やりたいこと,必要に迫られたことをやってきただけ。 |
++ 12.08.16 (thu) ++ 明日は教員免許状更新講習で講師をしてきます。 必修領域の担当なので話す内容はある程度縛られています。 一方,受講者の校種や知識レベルはバラバラです。 なので,どういう話をするか,妥協点に悩みます。 トークの前はいつもそうなんですが,ここ数日 「あーでもない,こーでもない」 と悶々と考え,非生産的な時間を過ごしています。 #そしてできあがったものはショボイ。 ということで,明日は気が向いたら更新します。 |
++ 12.08.17 (fri) ++ 教師志望の学生は子どもたちが主体的に学ぶ姿を本当に望んでいるのか。 仮に望んでいるとして,そういう子どもになれと指導する自分たちは主体的に学ぶ人間か。 |
++ 12.08.20 (mon) ++ たぶん,多くの教員志望学生に足りないのは,能力ではなく資質だと思います。 なのに,多くの教員志望学生は自分の延長線上に目標を置きがちだと思います。 必要なのは,努力することだけでなく,自分を変えることだと思います。 |
++ 12.08.21 (tue) ++ 理解は常に表現を前提にしている。 |
++ 12.08.22 (wed) ++ 心理学は,医学などと同様,「世間のお役に立っている」領域は主に「困っている人を助ける」領域です。 ただ,私は昔から 「困っている人がいなくなると成り立たなくなる学問は自己矛盾を抱えている」 と思っています。 (医学はもっと積極的に予防医学をやればいいのにと思います。) なので,これまでにも「困っている人を助ける」心理学について考えて来ました。(*1) しかし,何度考えてもこの自己矛盾を飲み込むことが出来ませんでした。 そこで最近考えているのは,人の幸福感を増加させる研究です。 (字面だけを読むとなんだか怪しい宗教みたいですが(笑)。) 機会があればやってみたいです。 −−−−−−−− (*1)「07.03.18」「09.06.30」参照。 |
++ 12.08.23 (thu) ++ 以前,不採録となった論文(*1)を今度は別の学会に投稿しました。 5月に投稿し,7月に結果が戻ってきました。 結果は「修正後再審査」でしたので,先日再投稿しました。 前の学会では「投稿すべき所を間違った」という印象でした。 今回はとりあえず議論の機会を与えてもらえました。 どちらの学会も私の専門とはかけ離れた学会です。 なので,論文を評価する基準が私が普段当たり前だと思っているものと違うところがあるようです。 ただ,後輩からは今度の投稿先の方が科学的,実証的な研究を受け入れる素地があると聞いていました。 実際,ありがたい指摘も頂けて,こちらに投稿し直して正解でした。 今度こそ皆さんに読んで頂ける論文となると良いなぁと思っています。 −−−−−−−− (*1)「12.04.05」参照。 |
++ 12.08.24 (fri) ++ 最近,買うCDがハズレなことが多い。 でも,たぶん私がハズレつつあるのだろう。 |
++ 12.08.27 (mon) ++ 「生きる意味」と「生きてる意味」は微妙に違う。 「生きる意味」なんてほとんどの人が見つけられないのだろうけど,「生きてる意味」がないのは悲しい。 |
++ 12.08.28 (tue) ++ 学校教育に関わる心理学論文は,誰を読者として想定しているのでしょう? 心理学者は想定しているのかもしれませんが,現場の教師は想定してない気がします。 というか「査読者しか想定してないんじゃないの?」って論文も多いと思います。 |
++ 12.08.29 (wed) ++ 論文に事実が論理的に書かれているのは必要条件であって,十分条件ではないのでは? せめて読みやすいように配慮すべきでは? 読み手のニーズを想定して(もっと言うと,相手のニーズを著者側で作り出してやって),それを満たしてあげようとすることくらいしてもいいのでは? |
++ 12.08.30 (thu) ++ 明日の朝,納車です。 そのままどこかへ走っていってしまうと思います。 なので,明日の更新はお休みです。 |