くんくん日記

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2004年11月2日(火) 大理石のようなコンクリート

先日プロジェクトXで、アジアハイウェイの一部を担当した日本企業のことをやっていた。
当時日本はダム作りのピークだったが、その技術は世界に認められていなかった。そこにコンクリート打ちの名人がいくことになった、という話。
東南アジアや中国では、単に流し込んだだけの粗末なコンクリートが多い。しかしその名人の打つコンクリートは、よく空気が抜かれていて表面はぴかぴかしている。これはもう大理石のようである。
日本人は、お客の顔を見て仕事をするのではなく、自分が納得できるまで仕事を極めていた。そのことがいまの日本を強くしていったのだ。高い技術力というのは、常にそういうものに支えられるものなのだろう。

2004年11月3日(水) カントリーグレインとダイヤモンドシティ

母が来広した。空港に迎えに行き、その足で福富町のカントリーグレインでお昼を食べた。そしてもちろん大量のパンを買ってしまった。
福富町には物産センターができていた。そこのランチもなかなかおいしそうだった。牧場に併設されたイタリアンレストランも大人気だ。僕は寒い中ジェラートをつい食べてしまった。
自分の信念を持ち、よいものを作ればきっと解る人は解ってくれる。相応の評価が得られる。そういう方向性が僕は好きだ。そしてそれを追求するエネルギーには感服する。
山や畑を眺めながら僕はそう思った。
帰りにダイヤモンドシティのアバンセで買い物をした。品質のよい品物がたくさん並べてある。よいものはお金を出せば手には入る。そういう便利な社会だ。
福富町で感じた世界との違いに、いまの社会の持つ課題を感じさせられた。

2004年11月4日(木) とく一・アンデルセン

母が来広したので、というわけでもないが、とく一にいった。広島でいちばんうまい讃岐うどんが食られる店だ。讃岐うどんに焼きたてのパン。広島のイメージとはちょっと違うかもしれない。でも僕は広島市内で自慢できるお店だと思う。そういうお店が割と近所にあるということが、なによりも素晴らしい。

2004年11月5日(金) 二度目に期待を外さないこと

温泉津温泉ののがわやに泊まった。昨年泊まったとき料理のおいしさと宿の暖かさに、そして温泉津の湯の良さと鄙びた温泉街の雰囲気に実に満足した。もう一度いってみたいと思い続けていて、ついにそれが実現した。
今回は、石見銀山を昼に訪れ、4時頃にさっさと旅館に到着した。それでもゆっくりと元湯という外湯に入りにいって戻ってきてのんびりしているうちに夕食の時間である。今回は鯛の奉書焼きも頼んだ。
前回と異なり、今回はハイシーズンで団体さんもいた。宿は賑わっていた。そのためか主人や女将との接点はあまりなかった。前回はとても親しくさせてもらったので拍子抜けしてしまったのだが、それでも宿の心地よさは変わらないものだった。
そしてなによりも料理がやはりおいしい。薄味でしつこくなく、あっさりとそれでいてバランスのよい料理が次々と出てくる。どれも手間のかかった逸品だ。
たいていの場合、二度目の訪問というのは、初回の印象の良さを超えられない。そういうものだと思っている。今回ののがわやの料理はちがった。二度目もおいしかった。
二度目に期待を外さないことが、本物の証だと感じた。

2004年11月6日(土) 三瓶山・サヒメル・リフトでGO!

三瓶山自然博物館サヒメルに到着した時、プラネタリウムが始まろうとしていた。僕らはゆっくりとトイレにいっていたのだが、プラネタリウムの担当の女の子は僕らが入場するのを待っていてくれた。
確かに入館者は多くなかったが、それでも30人ぐらいを待たせてしまった。そういう臨機応変の対応が、とても嬉しい。
案内のデスクでは、館外の観光施設の案内もしてもらった。科学的な知識や教授法の前の、当然のホスピタリティを感じた。そしてついでに制服はなかなかかわいかった。
三瓶山の東側に回って、リフトで展望台を目指した。紅葉は今一つであったが、中国山地を見渡せるすばらしい眺めであった。
帰りもリフトに乗った。下りのリフトというのは、すごく怖いものだということを、ずいぶん久しぶりに感じた。
リフトのスタッフが僕らの乗ったリフトを必要以上に勢いづけたのも、怖さを引き立てるのに十分な効果があったのだが。

2004年11月8日(月) lateral・水平思考

英語でしゃべらナイトという番組をよく見る。今晩はポールスミスがでていた。こういうところがいまどきで素晴らしい内容だ。
ポールスミス氏の好きな言葉、ラテラル。水平に。視線方向は既存の方程式に沿ってしまうので極めてデンジャラスだそうだ。なるほど。水平に。そうすると新しい可能性が見えてくる。
気をつけてlateral thinkingを心がけてみよう。

2004年11月12日(金) ファジィ科学シンポジウム

ファジィ科学シンポジウムで講演をさせていただいた。メディア教育の講義で日頃感じていることをメインに、手作りCMやキャンパスツアーなどにも触れた。なにしろ1時間も与えられたのである。
こういう小さな勉強会でお話しするのはとても楽しい。そしてその後の懇親会でも話がもりあがる。学者としての喜びの瞬間である。

2004年11月13日(土) 寂しい呉線

呉の先にある大学で学会があったので、呉線に乗った。呉線に乗るのは初めてだ。快速電車が来るというので、期待したら、昔の山手線のような、30年前の通勤型の電車だった。懐かしさもあるが、せっかく海沿いを走るのに、これはないよなと感じた。出だしからどうも寂しさを感じるのであった。
呉線は単線であるが、以前は幹線だったこともあり、古くからある駅は駅舎が立派でプラットホームもなかなか長くて立派である。そんなところに3,4両の味気ない電車が停まっているのは、どうにも場違いな感じがする。

2004年11月15日(月) 寂しさ、切なさへの畏怖

大声で威嚇する人がいる。自分に対してでなくても、聞こえてきてしまう。関係のないこちらが萎縮してしまうこともある。
肩で風を切って歩く人がいる。なんとか自分を正当化させようと、他人に認められようと、精一杯肩肘張っている。
こういう人たちって、もしかして寂しいのではないだろうか
自然界の中で、動物園の中で、ただ一人遠吠えをしている。いくら自己を顕示しても誰にも相手にされない。
なんだか一人でいることに畏れを覚えているように見える。
二ヶ月ほど一人旅をしていたとき、なるべく僕は街に自然に打ち解けるように行動していた。自分の考えを押し通すのは、自分一人の空間だけで十分であるし、そのときにこそ自分の考えを全面的に出さなければならない。
見知らぬ大勢の前で威勢良く振る舞っているのは、寂しいからなのだ。
人が切なさを覚えたとき、それを怖がって騒ぐのではなく、むしろそれが創造力の源であり、そういう時間を持つことの大切さを感じることが大切だ。そしてそういう時間は、この社会ではもはや貴重な時間になりつつあるのだ。

2004年11月19日(金) 広響の講演

友人からチケットを二枚貰ったので、家内と広島交響楽団の定期演奏会にいった。ドボルザークの9番じゃなくて8番というのも、いい選曲だ。ウクライナ人のソリストの演奏が実によかった。やはり本物の音はちがう。
意外なことに、招待席以外は満席だった。こうやって芸術を楽しむ人たちがたくさんいると云うことは、その街の豊かさを感じさせる。

2004年11月20日(土) NHKスペシャルのローマ帝国観

狩りをし、風呂に入り、ゲームをし、笑う。それが人生だ。
ローマ時代の遺跡で発掘された壁の落書きに、こういう言葉が書かれていたそうだ。現代人と同じような生活文化が既にあったということだ。近代国家は、侵略の結果生まれたものであるから、反発も相当にあった。それを新しい国家に従わせるためには、これまでよりも豊かな暮らしが求められたのであろう。風呂に入り、ゲームをして、笑う。豊かな暮らしの要素とはこういうものだったのだろう。そしていまもそれは変わっていないのではないだろうか。
いや、むしろ衰退しているかもしれない。我々は笑わないのである。TVに向かって笑うことはあっても、家族で笑うとか職場でみなで笑うことが、いったいどれだけあるのだろうか。苦笑することはあっても、不条理な笑いはあっても、本当の意味で笑うことは、数少ないのかもしれない。
笑いが国家を持続させる。そんな気がする。

2004年11月21日(日) CM・コミュニケーション・ユーモア

年賀状の季節が近づいてきた。なによりもまずプリンターのCMでそれに気が付かされた。
プリンターのCMというのは、どれもプリンターから綺麗な印刷物がぞろぞろと出てくる様子を出すのだろう。あれはそんなに美しい状況でも感動的な状況でもないと思う。それでもコピー機から書類がでてくるのを観るのは楽しい。そういう理由で映しているのだろうか。
ときどきクスッとなるCMがある。ネスカフェの香味焙煎「うるさい日本人、黙る」は最近のお気に入りだ。カメラワークも実に凝っている。日本の伝統の美をしっかりと伝えつつ、ユーモアがある。
そういうのがよい。
受け手の意見を聞いてばかりじゃこういうものは生まれない。作り手の努力している人々から何かを学び、そして自分でも汗を流して何かを創り出す。そういうことをしないといけない。コミュニケーションを生み出すのは孤独な戦いなのだ。

2004年11月22日(月) 厳島神社

台風の被害がいまだ癒えていない厳島神社にいった。参拝できるようになっているが、左楽房はきれいになくなっているし、屋根もところどころが痛々しい状態である。
実は今回は、修復のための寄付をすることが目的であった。いつもお世話になっている神社が大変な被害に遭っているのだから、その修復費用の一部に役立ちたいという気持ちがあったのである。そしてようやくそれを納めることができた。
これまでにも、そういうことはあった。しかしいつもどういうわけか期を逸してしまう。トルコの地震なんか本当にそう思った。僕は23歳の時、ベオグラードからイスタンブールに向かう夜行列車でトルコ人にとてもよくされたことがある。現地通貨を持っていない空腹の僕に、深夜の国境の駅の食堂で暖かいスープと食事をご馳走してくれたのだ。イスタンブールの駅で僕は彼に何かお礼をしたいといったのだが、彼は「トルコ人が困っていたら助けてやってくれ」といって去っていった。
そういうことがあったので、世話になった人が困っているときには、役に立つことが大切だとずっと思っていた。そしてようやくそれを実行に移すことができた。まだたった一つのことだが。

2004年11月25日(木) 日本はこれからどうするのか

建築はやはり外側配管がいい。配管は20年で腐るが、建物は半世紀以上使えるからである。
僕がいま住んでいる官舎は築40年だ。水道水は鉄分がたっぷりで、外出して帰ってくると数分は茶色い水がでる。浄水器なしで水道の水を飲む勇気もないし、お風呂の水も翌日にはなんとなく臭う。困ったものだ。
家賃があがったのだから、こういうところを改修して欲しい。数年前には配管の外側がきれいな鉄板で覆われたが、そんなことより配管そのものを変えるべきなのだ。
いまの官舎は外側配管である。それなのにこれだ。日本人の建築に対する知識と、新しいものにしか興味を示さない価値観に、なんだか危機感を覚える。

2004年11月27日(土) 名古屋の友人

研究会で名古屋にでかけた。名古屋には家内と同じ名前の女友達がいる。15年前の旅行で知り合って、それからずっと付き合いが続いている。学生時代からなんとなく節目の時には電話で話をし、それぞれの住んでいる地域に行く機会があれば、なんとなく声をかけて会っていた。彼女が買ったミニクーパーで福井をドライブしたこともあったし、岐阜でも名古屋でも仕事の後に食事をした。会って抱き合うわけでも手をつなぐわけでもない。愛を語るというよりいつもどおり話をするだけなのだ。それがとても不思議なのだが、それだから15年もこの調子で、僕が結婚してからも付き合いが続いているのかもしれない。
僕も知っている彼女の友人が、課長さんになって担当していたプロジェクトも一段落してしまって、暇ができたので、結婚相談所に登録することにしたそうだ。頭脳明晰、容姿端麗の彼女たちが、30代半ばまで家庭を持たないことは、社会にとってよいことなのか悪いことなのか。余計なことかもしれないが、日本人という民族を考えると深刻な問題だ。なにしろ強者生存の理に反しているのだから。

2004年11月28日(日) 散歩によい街

自宅から一番近い路面電車の停留所まで歩いて20分。団地を抜け、川沿いの道を歩き、新しいマンションが建ちつつある住宅街を抜けると停留所のある交差点はすぐだ。そこから電車に5分乗ると繁華街に着く。
こういう環境って、実は恵まれているんだなぁと思う。東京で20分散歩しても、ずっと住宅地の中だし、川といっても土手がコンクリートだったりして、あまり散歩するという感じではない。
とぼとぼ歩いていて、時折商店があって、挨拶をしたり店先を覗いたりしてあるくのは楽しい。荒川区の町屋の商店街はそんな感じだったが、いかんせん自動車と自転車が多すぎた。適度な街というのはなかなかないものなのかもしれない。
本通という商店街は、ずっと前には西国街道だった繁華街である。ここも自転車乗り入れ禁止とか、歩きたばこ禁止ということになっているし、夜間早朝以外は自動車も通行止めだ。しかし特に段差があるわけでも柵があるわけでもないし、通り抜けるのにも不便なものだから、自転車で走ってしまう人はとても多い。ルール違反ではあるが、自己責任でやってるのならばそれもよかろう。自転車でゆっくり走っていてもいいじゃないかと僕は思う。自転車にしても歩行者にしても、我が物顔でいることに問題があるのだ。互いに共存し、さらに心地よい共存のありかたを皆で考えていくことにこそ意味がある。

2004年11月29日(月) 寝台特急あさかぜ

2005年の2月末をもって、寝台特急あさかぜ号とさくら号が姿を消すという。
利用率の低迷が理由とのことだが、それは僕にもよくわかる。一昨年あさかぜに乗ったときは、僕の乗った車両には僕しかいなかったこともあった。東京駅を夜7時に出発するのに食堂車もないし、弁当を食べ終わったら眠るしかない。それがよいところなのだろうが、もはやライフスタイルにあっていないという感じがしてしまう。郷愁とかレトロとかではあっても実用的ではないのだ。
食堂車が残っていて、個室の割合が多くて、東京を夜9時か10時に出発して、翌朝8時頃に目的地に着くスケジュールだったら、もっと利用者がいると思う。事実サンライズ瀬戸・出雲はそのようになっていて利用率も高いようである。到着時間が早すぎるようだったら、客車を切り離して留置しておけばいい。僕はイギリスでそうやって放っておかれてあやうく車庫に行くところだったことがある。
あさかぜ号は僕が初めて乗った寝台車でもある。昭和50年代前半で寝台特急が大人気だった頃だ。当時は20系という客車でB寝台は3段ベッドだった。青く光った車体が遠くに旅行に行く気持ちを高ぶらせた。夜8時頃になると、車内のアトラクションのように、給士さんが一区画ずつベッドを組み立てていった。庶民の非日常空間として、わいわいと楽しい空間だった。まだ国内を飛行機で移動するという時代ではなかった。
いまはベッドは組み立ても解体もされない。朝はだらだらと寝台で過ごす。食事も弁当しかない。寝て移動するだけの空間だ。同じ青く輝くブルートレインでも、車内空間はもう時代遅れの蚕棚でしかない。せっかくの個室や食堂車をなぜもっとうまく活用できなかったのだろうか。
廃止するのは簡単だ。でも古い物を大事に使って残しておくことは大切だ。スローライフ、国内旅行を考える上で、30年前の寝台特急のもっていた空間をよみがえらせることはできないのだろうか。

2004年11月30日(火) 羽田空港

全日空の飛行機がが羽田空港の第1ターミナルに到着した。ビッグバードと呼ばれる新しい羽田空港が開港したのは確かいまから10年前のことである。そして明日から全日空は第2ターミナルで発着する。
国内線の空港は、到着客がくつろぐところではない。出発までの待ち時間の場所であり、おみやげを買う場所である。少なくともいまはそうだ。それが今後どうなっていくのか、ヨーロッパの駅のように、その街の文化交流の中心になっていくとおもしろいのだが、なかなかそうもいかないのだろう。
明日は第二ターミナルからの出発だ。乗り場が変わるだけのことなのに、ちょっと心がときめくものだ。

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written by hikizo
Akiary v.0.51