くんくん日記

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2005年2月1日(火) オペラ座の怪人

映画でオペラ座の怪人をみた。アンドリューロイドウェバーのこのミュージカルが好きで、僕はロンドンで確か4回(5回かもしれない)、東京で劇団四季のを1回見ている。ファントムの生き様に共感できるところがあって、学生時代にはpoint of no returnという言葉に泣かされもした。
最後に見たのがもう5年前のロンドンだ。ハーマジェスティーズシアターの雰囲気も素晴らしいし、僕らも少しだけおめかししてタクシーで乗りつけた。そのロンドンにもう一度行って、この舞台を見たくなった。そういう映画だった。
映画自体も素晴らしい。舞台を実にうまく表現しているし、舞台以上の演出も盛りだくさんだ。それでも映画と舞台は全く違う。
映画での一番の収穫は、英語ではよく聞き取れなかった会話の部分が、字幕でよくわかったことである。オペラ座の新しい支配人たちの台詞なんて、本当にもうぜんぜんわかっていなかった。わかっていなくて、どの歌もよく知ってる、なんて言っていたのだから、我ながら困ってしまう。

2005年2月5日(土) 厳島神社とプレッツェル

ようやく厳島神社に初詣に行った。家内の友人カップルが一緒にお昼にと誘ってくれたので、それならと厳島神社に誘ったのだ。今日は暖かくてよい一日だった。
うえので穴子飯を食べ、参拝し、紅葉まんじゅうやさんでお茶をもらってまんじゅうをつまみ、また戻ってきても、まだ陽は高い。廿日市のドイツ菓子屋コンディトライ・フィルダーシェフに直行した。欲しかったプレッツェルがあって大満足し、コーヒーとパンをその場で食べて、街に戻ったのであった。

2005年2月6日(日) 生きる力は集中力かもしれない

出産まであと数ヶ月ともなると、育児のことや子どもの教育のことなどについても考える機会が増える。僕は教員だから、子ども教育については、やはり大きな興味がある。知識とか学力とかそういうものを付けさせるために、塾や私学や高い教材やら、場合によっては引越しまでしてしまう。少子高齢化とさけばれていても、この現象は強まっているように感じる。
こういうときに僕はいつも自分の子どもの頃を思い出す。自分の部屋で机に向かって何かに熱中している時のことだ。大抵の場合、それはいわゆる学校の勉強ではなかったと思う。僕はどんどん目を近づけていって、気がつくと電気スタンドの白熱球の下に頭がある。それを部屋に来た母親に笑われるというか呆れられた。そういう話だ。
なんというか、自分が興味を持ったことに、じっくりと集中する環境と時間があったことに感謝している。それとともに、実は集中するということは、環境と時間があっても、集中する能力というのが必要なのだと、最近特に感じる。
だから僕は子どもに必要なのは、なによりも集中力だと思っている。なんでもいい。ここ一番での集中力は、勝負強さ、自信、全ての能力の上達につながるし、なによりもそれは、生きる力そのものなのだと思う。

2005年2月7日(月) skype skype

インターネットプロトコルで会話ができることは、もはや珍しいことではない。ふうん、で終わりである。それでも僕はskypeをダウンロードして無料のユーザ登録をした。なんか素晴らしく簡単に通話ができるところが気に入ったのだ。
使ってみてから気がついたのだが、ユーザを部分一致で検索することができる。世の中に僕と同じような苗字やログイン名を考える人がいるのがおもしろいし、それが日本人じゃなかったりすると、なおさらである。おもいつくまま手上がり次第入力して楽しんでしまった。
こんなことではいたずら電話がかかってくるのではないかと心配をし始めた。しかし、これはメールじゃない。一方的にかかってくることは、たぶんない。こちらが断ってしまえばコミュニケーションは成立しないのだ。コミュニケーションはこうじゃなくてはいけない。

2005年2月9日(水) 奈良

奈良駅から京都との県府境を越えたところにある、木津というところに行ってきた。ここの原子力研究所で開催している若者のためのサイエンスセミナーで情報デザインとしての地図の講演依頼をいただいたので、のこのこと出かけていった。
奈良はもう20年ぶりぐらい、高校の修学旅行以来だ。JR奈良駅なんて初めてで、わくわくした。それにしても大阪駅から大和路快速というのに乗ると、これが快適な電車で一時間弱で奈良に直通してくれる。奈良はもはや大阪のベッドタウンなのかもしれない。
観光の季節ではないにせよ、やはり奈良は観光都市だ。まだ目的地に着いてもいないのに、僕は三条通りでたまたま見つけた辰巳屋総本店という奈良漬け屋さんで、胡瓜と瓜と水瓜の奈良漬けセットを買った。バスに乗るとときどき東大寺の大きな屋根が見える。それでも、どんどんと東京と同じようなお店が並ぶようになっている。全国展開のチェーン店が目立つ。観光客もそういうお店を安心して利用する。
全国展開をするものが成功者で、しないものが敗者という単純な価値観はどうしていまも根強いのだろう。大きいものが勝者で、小さきものは敗者なのだろうか。僕は小さくても大きな存在感のあるものに惹かれる。

2005年2月10日(木) 鉄道ジャーナルとオレオレ詐欺

図書館でふとしたことで手にした鉄道ジャーナルを長時間読んでしまった。特集が車両色についてだったので、情報デザインとも関係が深いし、そもそも日本のようにラインカラーで車両を塗る文化も珍しいと思って読み始めたら、歴史的にもなかなかおもしろかった。新幹線の配色も0系と100系以降ではクリームからより白っぽい白に変化しているらしい。退色性がある色も、少し色を変化させるだけでそれが目立たなくなるということも新鮮だった。
その中に鉄道とはあまり縁のないエッセイがあった。
オレオレ詐欺に注意しようというCMを静岡県が流しているらしい。そこに出てくるのが大阪のおばちゃんで、大阪は静岡の倍の人口でも、被害額は半分以下だというCMだそうだ。
大阪のおばちゃんには、オレオレが通用しない。泣きながら窮状を訴えても、大声で脅かしても、とにかく突っ込む。どしたん?なんで400万?あんた誰?こんな調子だ。本当にお金に困っていても電話でお金を振り込んでもらうのはかなり難しいはずだ。本当は人間はこうなんじゃないかと思った。
もう一つ「私はよく道を尋ねられる」も大阪にはないらしい。皆が道を見知らぬ人に尋ねるし、尋ねられる。そういうのが当たり前だから、「私はよく道を尋ねられる」なんていわないし考えもしない。なるほど。
それが本来のコミュニティーなのだ。コミュニティーで暮らすということは、疲れるほどのコミュニケーションがあるということなのだろう。

2005年2月11日(金) 土をいじる

買ってからかれこれ二週間物置に置いてあるチャイルドシートが気になって、物置の掃除をした。いまスタッドレスタイヤを履いているので、その代わりにノーマルタイヤが物置の奥に積んである。その上にチャイルドシートが置いてある。意外と湿気がなくて、部屋においておくのと違いがなさそうなので、もうしばらく置いておくことにした。
物置にあるスコップで、我が家にあてがわれている花壇を久しぶりになんとかした。わずか3平米弱の花壇は雑草とミントで常に覆われている。枯れている今の時期にざくざくと土に還すべく「なんとか」した。こういうのをなんというのか僕はよくわからない。
今日は暖かだったので、ちょっと動くだけで汗が出た。土をいじると湿っていて暖かな感じがした。春は近づいているのを感じた。

2005年2月15日(火) カセット

プロジェクトXでTDKのカセットテープのことをやっていた。フィリップスが試作機を出した直後にテープの量産を始めたTDKが、メーカーより早く、音楽の音質の録再が可能な高性能なテープ:スーパーダイナミックをつくった。それをみてTEACがステレオテープデッキをつくる。部品会社がただの下請けでは無くなった瞬間だ。すばらしい。
中学生の頃、TDKのメタルカセットはあこがれの的だった。アクリルとダイキャストでできたテープは、他のテープよりずっと重かった。それでも発売されたばかりのジャストカセットサイズのウォークマンとともに、次の世代のカセットのイメージリーダーだった。
次の世代が垣間見られる製品が次々とでてくる。ポートピア81が終わって、科学博覧会につづく、未来が明るい時代の象徴だった。

2005年2月16日(水) 環境にやさしいのが未来の姿か

愛・地球博が開幕するまであと一ヶ月ほどになった。世の中ぜんぜん盛り上がっていないような気がする。
環境をテーマにして、自然との共生を考えた博覧会というところが、僕にはどうも納得がいかない。
自然は人類にとって驚異なのだ。僕らは自然に対峙することなんてできない。自然という物は人類の生存とは関係ない、とても大きな存在なのだ。
だから、僕らは自然の中では常に格闘しなければならない。暗闇の山中では蛇もでるし、足は滑るし、一寸先は闇だ。人間はそういう中で共存するなんてことは考えていないだろう。
ひょっとすると、自然との共生なんていうのは、自然を都会のオアシスだとか公園と思っている人の発想なんじゃないかな。
僕は、博覧会はもっと未来がみえるものがいいと思う。すばらしく人工的な大きなものがよい。東京タワーでもピラミッドでもポートアイランドでも関西空港でもいい。人類の英知の結集されたものというのは、自然と肩を並べることはあっても、また運命的の共存することはあっても、自ら自然に寄り添うというものじゃないと思うのだ。

2005年2月24日(木) ざぼん

いつだっがか、スーパーでバンペイユ(晩?柚?)という大きな柑橘類が売っていた。いまが旬なのだろう。ときどき見かける。大きいなぁと思ってみていた。
そこに小さな男の子と女の子を連れたお母さんがやってきた。兄妹は、バンペイユをみていった。「お母さん、おおきなザボンだ、ザボンザボン!」
僕はザボンという言葉を久しぶりにきいたのだが、よく考えたらザボンって一時期よく使っていた言葉だったかもしれない。サボンってなんだか懐かしい響きだなぁなどと思っていた。
お母さんがぼそっと「ザボンじゃないでしょ」と恥ずかしそうにいっていたのが印象的だった。
帰宅して食材図典で調べたら、ザボンとは八朔のことだった。そんなことも知らなかったのかとこっちが恥ずかしくなった。

2005年2月26日(土) 再び土をいじる

2005年2月28日(月) あさかぜ

寝台特急の「あさかぜ」と「さくら」が今日で廃止となる。東京と九州を結ぶ寝台特急は富士とはやぶさのみとなり、3月からは二つが門司まで併結されるので実態としては一本の列車になる。
僕は小学校の頃、東京から父の実家の山口まで帰省するのに「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」に乗った(富士は小郡に停まらなかったのだ)。当時は新幹線の移動も珍しかったので、寝台特急に乗るというのはクラスの中でも少数であった。当時は寝台は3段で窮屈だったに違いないが、自分も小さかったので弟と一緒のベッドに寝ても充分に眠れた。どこかとても遠いところまで連れて行ってくれる濃紺の列車というのは、とても魅力にあふれていた。
再び九州夜行の世話になったのは大学生の頃。あさかぜで小倉に行ったときのことだ。そのときのあさかぜは、一頃の華やかさは失われたとはいえ、A個室寝台、B寝台二人個室、シャワールーム、食堂車が連なり、東京発の夜行の中で唯一濃紺に金色の帯を巻いた特別な列車だった。僕は人気の少ない食堂車でハンバーグ定食を食べ、小田原に着く頃にはコーヒーを飲んでいた。朝目覚めると瀬戸内海に沿って走っていて(いま考えるとあれば宮島付近だったのだろう)シャワーを浴びた後の朝ご飯もやはり食堂車で洋定食だった。
広島に越してからも、東京出張に行きに何度かあさかぜを使った。そのころにはあさかぜは下関行きの一往復となっていて、食堂車もなくなりA寝台個室とB寝台のみの寂しい編成だったが、それでも王者の貫禄のようなものを醸し出していた。なんか東京に参上。って感じがしていたのだ。夜8時に広島駅を出発し、帰宅の途につく車列を横目に見ながら瀬野八の坂を上っていく。機関車の汽笛が遠くで鳴る。客車はスローなリズムを刻んでいく。非日常の空間が夜の山陽本線を静かに滑っていく。
そういう「あさかぜ」が消える。そして僕も年に30回以上飛行機に乗るようになった。時代は変わるのだ。でも「あさかぜ」の名は、そしてあのような贅沢な旅行空間はどこかで復活してもらいたい。

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written by hikizo
Akiary v.0.51