雑記

大学院受験のおもひで

人はある一定の期間までは自身の成長を阻害するような、他人からの批評を避けるために、自分の内的な思いや経験を秘めて過ごすものだと思うのだけど、寿命を意識し始めるとどこかでそれをやめて、振り返りをし、自分の「生」の延長のため、言葉としてあるいは文字として語りだすのだと思う。ただし、私にあっては自伝を出すほどの優れた人間ではないし、仮に自分がそうだと勘違いしていたとしてもまだ早い。

そうはいっても自分の所掌する範囲の媒体に何かしら書きつけるのは自由だろう。先日、大学院受験について、「私が研究室訪問をしなかった」とつぶやいたところ、まあまあ反響があった。それはそれでよかったのだけど、何かそれで私が単にいい加減な人間であると誤解されそうな気がしてきたので、仔細を書いておきたい。はじめに言っておくと、私はわりと極端な人間であることと、いろいろと不運があり、投げなりになっていた状況であったことが背景にある。そして、私はその一件を含めていろんな分岐点で間違いや失敗をするが、長期的なスパンでは時に猛烈に努力して、なんらかの成果を継続してあげてきた(のではないか?)と思っている。もし私の経験が役に立つのであれば、一度の失敗やそこいらで人生の道筋は変わったりしない、いつでもなるようになるし、周囲の導きがあれば軌道修正できるというのを言っておきたい。当時の私が研究者になりたいと漠然と思い始めたとき、その軌道を想像するのに参考にしたのは目にする本の帯付けにある著者の経歴だった。ここでは、23年前のド田舎ドアホ学生が知りたかったであろう、帯付けには書けない経歴を書いておく。

私の生来の興味とも言えることは、生物としての自分自身のことで、それを知るには進化学か、脳科学しかないと思い込んでいた。一方、仕事ととしては身近な対象として医者になりたいと思っていたけれど、浪人してもそれに必要な勉強をしなかったために、地方の農芸化学科が名前を変えてそれっぽい名前になったところに進学することにした。医業に携わることはこの時点で無くなったので(もう一度大学に入りなおすという選択肢は、今でもたまに考えるが…)、当然、就職などのことは何も考えてなかった。そのため、とりあえず、興味のままに生きることにして、神経科学かなにか白熱した、おもしろげなことができるラボに行くことにした。で、某大学大学院某機能研究科のY研究室にきちんとアポを取って見学しに行った。が、私はその大学院の試験には見事に落ちた。あまり記憶がないが、そのあとだいぶ落ち込んだし、自暴自棄になっていたと思う。そのあと、別の大学院にも出願したが、試験日を間違えるという失態をして、欠席により不合格。いよいよ進学先がなくなって親も心配し始め、親族を頼って渡米し、海外大学院を目指すという話も出てきていた。

話が横道にそれるが、行先に困って海外に渡航するのは我が家の伝統のようでもある。100年ぐらい前、私に至る血統の幹や分枝にあたる祖先には4人ぐらい米国に移住したりしているようだ。だいたいが然したる産業もない小さい島の中で食い扶持に困って豊かな国を目指したのだと思う。布哇と加州にそれぞれ2回。布哇の方は最近、数十年ぶりの連絡があったのだが、それはまた別の機会に話したい。

そんな状況で、私が海外渡航とは180度異なる、故郷の国立大であり、今の職場でもある広島大に進学したのは、一つ上の学年にいた和田さん(通称、和ダッシュ)の助言があったからだ(和ダさんは私がいた研究室に修士までいて、その後、研究員として大阪バイオサイエンス研究所、京都府立医大で働いていたと思う。今は何をされているのだろう。。)。和ダさんは地元に帰るのも良いのではないかという意味もあって、広島で私の興味の中心である進化学ができる研究室を見つけて教えてくれた。私もとりあえず、受け入れてくれるところに行こうと心に決めて、受験することにしたのである。ただ、何度か失敗を繰り返した私は、研究室を見学するのは無駄だと思っていた。もし受かったとしたら覚悟を決めてそこに行くだけだし、なにより研究室を見学したのに不合格にされたら笑いものだからである。

しかも、受験を決めたのは良いが、願書を出すのにあまり日にちがなかった。郵送する時間で締め切りに間に合わない可能性があったので、松江から広島まで自分で車を運転して現職場の学生課まで自分で出願書類を持って行った。受験日は2月ぐらいだったか、今度は試験日を間違えるようなことはなかったが、前日までの吹雪により、親が予約してくれた大学前の広島工業会館にはチェックイン時間にたどり着けず、駅前の身分不相応なホテルに泊まり、当日はJRで受験会場に行くことになった。なんとかたどり着いた試験会場での紙の試験は英語だけだった。内容は覚えてないが、たしかNatureか何かの論文の一説の一部を和訳した上で、内容を問うようなテストだったと思う。私は英語をあまり苦にしたことがなかったし、後日、英語の成績は良かったと言われたのでペーパーテストは問題なかったと思う。

問題は面接である。とにかく行けるところに行って進化の研究をすると考えていた私は、指導教員が誰になるのかわかっていたと思うが、研究室の名称はほとんど覚えてなかった。受かるかどうかわからないのだから、覚えていても仕方がないぐらいのスタンスだったと思う。冒頭で当たり前に志望研究室を聞かれて、まず答えられない。しどろもどろしているうちに、司会のD口先生が書類を見て、「第一希望は種形成機構研究部門となってますね(笑)。」で、何とかしてもらった。そのとき、はじめて住田先生を認識したのだが、優しそうな雰囲気がわかって少し安心もした。そのあとの面接の内容は記憶にない。

面接が終わったあと、懲りない私はそのまま帰ろうかと思っていたが、同じ時に受験していた人(名前は忘れてしまったが、情報生理の少し先輩にあたる方だったと思う)と話しているうちに、見学はいまからでもした方が良いのではということでぶらぶらと歩ていたところ、たまたま小阪敏和先生に出会って研究室まで案内してもらった。住田先生は多分驚いたと思うが、どういったことに興味があるのか、少し話をして論文を何報かもらって帰った。たぶん、その入試で落ちた人はいなかったと思うが、私はとりあえず行先ができて喜んだと思う。あまりはっきりとした記憶がない。入学後は、とにかく私は配列を比較して分子系統解析をやりたかったので、猛烈に実験して修士の2年目ぐらいで1報目の論文を投稿させてもらって、ドクターの1年目にはいわゆる「ファーストの論文」が1つできていた。いろいろ大変だったこともあったが、そのペースでやって2報書いて、留年もすることなく5年目で院を出た(ただし、私以外の同級生は全員早期終了しているので、私が一番劣等生なのだ)。

私のような、賢くない、研究室も見学しない、奔放にやる、という愚者が生き残っているのは、たぶん体力に恵まれているのと、住田先生をはじめ周りの方々がいろいろとりなしてやってくれたからだと思う。ちなみに、ポスドク先も3月の後半になって年度を跨ぐ直前、ギリギリで決まった。ここまでくると、よくこんな綱渡りで何とかなるものだと感心してもらえるだろう。私のキャリアではそのあとも1回、そういうのが待ち構えていたし、今後もそうなのかもしれない。

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