雑記

生き物好きの熱量

最近、自分が研究者になるまでの歩みを振り返ることが二度ほど立て続けにあって、その中で一番実感しているのが、私は生物学者でありながらそれほど生物のことが好きではないし、生物の生態や特徴についてあまり興味がないということである。幼いころを振り返っても、特に魚を捕まえたり、虫を捕まえるということに興味はなかったと思う。

それなのになぜ、現職で動物学を教える立場にあるのか、というのは後述するとして、最近思うのが、生物(動物)が好きという人は、それほど動物を大事にしない、ということである。私の周囲には世の中でも無類の生物好き、特に動物好きがあふれているはずだが、特に生き物が好きでもない私よりも動物に対する愛情が少ないと思う。なぜなら、動物が好きだといいながら、採集してきた研究対象の飼育を怠る人間が多い*。私は、彼らの生き物好きは嘘だと疑っている。(*あくまでも私の主観であり、一人を除いて特定の人物を指しません。)

私の主たる「好き」強度の比率は「探究」:「球蹴り・運動」:「生物」= 6: 3: 1 ぐらいで、生物は全体の1/10であるにも関わらず、研究対象の動物の飼育を怠ったことはない。であれば、私の知っている生き物好きの彼らの「好き」とは何なのだろう?
仮に好きと公言する閾値が6割であるとすると、私の「探究」と同程度のはずだが、彼らは何かにつけて飼育をさぼる。彼らが嘘をついていないのだとしたら、「好き」の全体量が私の1/60以下なのだ。「好き」が少ないというのは、言葉の響きからしてもなんとも悲しい。

「好き」というのは、わかりやすく俗っぽく言うと、「情熱」と言えると思う。その全体量というのは(情)熱量である。そしてそれらは、生得的なものなのかもしれない。となると、もはや生き物好きにつける薬はない。またしても悲しい結末になる。体温と同じように熱量もできることなら十分に高く維持して欲しいものである。失敗もあるが、その方が楽しいのではないか、と人生を約半分ぐらい生きてきた経験を元に言いたい。

私が生物がそれほど好きではないにも関わらず、職業として生物を扱うのかについて、私は個々の生物には興味がなくとも、総体としての生物や特徴を生み出すメカニズムにはとても興味がある。総体は生物多様性、メカニズムは分化とも言い換えることができ、学問分野としては、進化学、遺伝学、進化遺伝学の分野にばっちり当てはまるのである。ばっちり当てはまるのは、私と同じような情熱を持った(しかしながらもっと優秀な)偉大な先人たちがそのような分野を切り開いてきたからに違いない。
考えてみると、10歳ごろに漠然と物事の始まりを考え始めたころからこの道に入っていたと思う。私の熱量の6割を占める探究活動はその頃からあったし、対象は移り変われど今も継続している。熱量が生得的と思うのもそのような過去を覚えているからである。

しかしながら、立場上、考えなければいけないのは、他人の総熱量を上げるにはどうすればよいのか、である。しかも、遺伝子改変ではなく、教育によって。人格形成が終わりつつある20代の大人に向けてできることは少ない。熱量の少ない人間をいかに向上させるか、これほど難しい生物学的課題はないのではないか。

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