フレーベルの生涯8




フレーベルの最期

 フレーベルの考えを理解してくれる人はしだいに増え、ドイツのいく つかの都市で幼稚園が作られました。また幼稚園で指導する先生の養成 もおこなわれるようになりました。幼稚園の先生を希望する人は女性が 多く、次第に女性の専門職としてみなされるようになりました。 まだ女性の専門職は少なかった時代です。フレーベルはこうして家庭の 両親にも、そして世の人々にも幼児教育の大切さを訴えました。そして1844年に家庭向 けの育児書である 『母の歌と愛撫の歌』を出版しました。

 こうして幼稚園が広まり始めたころ、フレーベルにとって大変 ショックなことがおきました。プロイセン政府が突然、幼稚園禁止令を 出したのです。フレーベルの心痛はひどく、やがて病にたおれ、とうと う1852年に亡くなりました。お墓はドイツのシュワイナという町に あります。第2恩物をかたどったお墓には、フレーベルの標語「さあ、 わたしたちの子どもらに生きようではないか」ということばが書かれ ています

 フレーベルの最期は大変辛いものでしたが、フレーベルの考えは その後全世界に広まりました。わたしたちが今、幼児期の教育が大切 だと考え、親の役割の重要性を認識できるのもフレーベルのおかげと いえるでしょう。

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1. 子どものころ 2. 大学での生活
3. 先生になろう 4. ふたたび大学へ
5. 教育実践の開始 6. スイス時代
7. 幼稚園設立 8. フレーベルの最期


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