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2002年の映画採点簿


2002年のベスト1はこんな父親がいたら世界も救われるということで『息子の部屋』のナンニ・モレッティにします。

ついでにワースト1は『フェリックスとローラ』で文句なし。ルコントは性懲りもなく「なんた

ら道り」なるいかにも愚作そうな作品が上映されますが、ここまでくるとボイコテboycotterするしかありませんね。

12月16日サロンシネマ Francois OZON『まぼろし』Sous le sable

エキセントリックで不思議な魅力が定番(『サマードレス』、『焼け石に水』)のフランソワ・オゾン監督がシリアスで緊張感に満ちた作品を撮った。演出は細部まで丁寧で、カメラもいつもながら魅惑的である。崖越しに映し出される青い海は何とも美しく、死の誘いまでも感じさせる。しかし、何よりも、とにかく何よりも感動的なのはシャーロット・ランプリングだ。ほんの少し前の過去とやがて来るかもしれない未来を見つめるような確信と決意に満ちた眼、そしてこれを受け入れる覚悟ができていると言わんばかりに閉じた口。そんな彼女がカートを押しながらスーパーマーケットで買い物をする時に流れる曲がバルバラの『九月』Septembre(Quel joli temps)ではないか。静かに始まるピアノの前奏で「はっ!」としたが、"Jamais le fin d'ete n'avait paru si belle「夏の終わりがこんなに美しいことはなかった」とバルバラがゆっくりと歌い始める。おそらくは訪れることのない春の再会を願いながら、9月の美しい季節を哀しく歌う。そう、これもまた夏の終わりの物語であった。しかし、なんという驚くべき一致だろうか(Qelle etonnante coincidence!)。これはバルバラの中で、いや、シャンソンの中で私の最も好きな曲であるのだ。この曲をバックに、彼女は傍らにはいない彼を思いながらカートを押す。確かに彼はここにはいない。しかし、映像は不思議にも、この曲に助けられて、いないはずの彼と歩く彼女のシーンをオーバーラップさせるかのようである(オゾンはここで安易な回想シーンは使わない)。彼女は彼を失っただけでなく、彼の母親とも対決をしなければならない。その義母が「息子が生きている方が残酷だ」と憎しみを込めて彼女に語るこのシーンは凄まじいほどの恐ろしさだ。アップで映し出された老婆のしわは剥き出しの憎しみである。やるな、フランソワ・オゾン。8点



11月5日横川シネマ 松原明・佐々木有美『国労冬物語 人らしく生きよう』

ほぼ4ヶ月ぶりの映画である。二つの論文をかかえていることもあって年内はこれまでかと思っていたが、見に行ってよかった。久しぶりのインパクトあるドキュメンタリーに出会うことができた。冒頭から一気にこの「物語」に飛び込む。見るにつれて、怒り、驚き、怨み、悲しみ、恐怖、悔しさとこちらの気持ちが変わっていく。とりわけ、映像のない音声のみのシーンは恐ろしいし、バカバカしい。異端審問官は中世だけではなかった。しかし、最後は不思議にも、悲しみとともに前に向かっていくエネルギーをもらった。「こんな状況は悲しすぎる。雇用という社会生活の根幹を支える領域で固定化する差別の構造は、やがて再び社会全体を覆い尽くしてしまうのではないか。何もかもアメリカと同じにしなければ気がすまない規制緩和論者たちは、自分のように頼るべき地位も身分も持たない普通の人々の人生を、また必死に封建社会からの脱出を図ってきたこの国の近現代史を、一度でも顧みたことがあるのだろうか。」(斉藤貴男『機会不平等』文藝春秋社、p.100)と問いたい。このままでは、やがて彼ら国労組合員だけでなく私たちさえも、チェチェンやトゥパク・アマルーのゲリラと同じようなどうにもならない状況に置かれるのではないだろうか。形となって現れる現状脱却の方法は(願わくば)異なるであろうが、ゲリラたちの現在はそのまま私たちの未来かもしれない。「・・・なぜこんなことが起きたのか、君が完全に理解することは、とても大切です。わたしもお母さんも、君の行為を決して忘れません。いつかまたみんな、特に君のお母さんと一緒になれればと願います。あなたたちもわたしも、とてもお母さんを必要としているから。いつも言っているとおり、連帯は人間に最も大切なことです。私は、刑務所にいる仲間、特に君のお母さんと連帯しています。彼女と連帯していることは、君たちとも団結していることだからです。君たちにはお母さんが必要で、刑務所から彼女を救出する手立てはほかにないからです。確かに私たちの人質にも、悲しんでいる家族がいます。でもいつの日か、やはり苦しんでいる君たちのような子供がいることを理解するでしょう。とにかく、わたしを信じ続けなさい。決して失望させません。いつかこの日本の公邸から出るとすれば、それはあなたたちが望み、夢見ることを実現できたからです。・・・」(リマの日本大使公邸人質事件のセルパ容疑者が長男ネストル君(当時10才)にあてた手紙、1997年4月29日付朝日新聞より)「連帯」は知ることから始まる。8点



7月1日広島宝塚 森田芳光『模倣犯』

津田寛治がよい。何をしでかすかわからない怖さがある。しかし、その津田も藤井隆との同性愛的な友情の点では今一つパッとしない。おそらく演出の詰めが甘いのだろう。この映画にはその詰めの甘さが目立つ。山崎努に涙を流させる必要はないし、彼は立ち去るのではなく、立ちつくして欲しい。また、藤井隆は問題外としても、中居正広はそれらしい雰囲気作りに止まり、木村佳乃は感情の整理さえ出来ていない。それにシリアスにお笑いを入れて一体どうしたいというのだ。また、たびたび挿入されるテレビコマーシャルには何ら批評も見られず中途半端、物語後半も説明的すぎる。要するに、森田芳光はもうダメだということである。前々作の『刑法第三十九条』でせっかく少し回復の光が見えたのに。単に女性が虐げられる姿をマニアックに写したいだけか。原作の宮部みゆきに謝っていただくということで、津田寛治のみの2点。



6月3日サロンシネマ 阪本順治『KT』

布袋寅泰の迫力ある音楽。これにのった物語には緊張感がある。演出もしっかりとして観る者をぐいぐいと引き込む。ただ、映画が三島の死から始まるとすれば、佐藤浩市扮する自衛官富田も物語の終わりで死ななければならないだろう。とすれば、物語をどう終わらせるか。阪本は、富田が「死んでもいい」から「生きたい」と願った時に彼を殺す。それもワンクッションおいて。私にはこれが必ずしも成功したようには見えないが、これが限界なのか。もう一つ言えば、事件を動かす組織の輪郭があまりにもはっきりし過ぎて、この事件の「怖さ」が半減しているように思われる。もっと、わからない部分、不気味な部分を意図的に描いてもよかったのではないだろうか。7点



5月20日サロンシネマ Jacques RIVETTE『恋ごころ』Va savoir

RIVETTEの映画がこんなにわかりやすくていいのだろうか、と思った人は私を含めて少なからずいたに違いない。勿論、不勉強の私には演じることの虚構性と現実の生活との混濁(演じてみることで自分の現実に何が見えてくるのか、つまりva savoir)程度しかわからないが、きっとピランデルロの劇中劇にはRIVETTE流の様々な仕掛けが他にもあるのだろう。しかし、何とまあ「色」の美しい映画なことか。Jeanne BALIBARの雰囲気(声と視線と身のこなし)、彼女が着る服、そして歩く場所といい、とにかく美しい。圧巻はピエールのアパルトマンの天窓から逃れ(この「脱出すること」s'evaderにも深い意味があるのだろう)、パリの屋根の上を歩くシーンである。日本映画にはこういう美しさは見あたらない。7点



5月4日広島市映像文化ライブラリー 薮下泰司、手塚治虫、白川大作『西遊記』

1960年の作品である。演出に古さが目立つが、そこが逆にこのアニメーションの色彩と柔らかい動きに合っていて魅力的だ。しかし、実はもう少し色彩の美しさを期待したのだが...今年はどういうわけかアニメーションが多く、既に3本目である。こう観てきたものの、アニメーションは想像力発揮の映画としてはよいのだが、後に残ったイメージ(特に登場人物、つまり人間)にどうも深みが感じられない。やはり、実写の方が...と思ってしまうのは私の感覚の鈍さ、いや、想像力の貧困さよるものなのだろうか。4点



4月15日サロンシネマ David LYNCH『マルホランド・ドライブ』Mulholland drive

ハリウッドの夢を壊す映画。イタリア系実業家に牛耳られるハリウッドでもがき苦しむ監督、女優を目指しながらも挫折していく若き乙女。たびたびスクリーンに映し出される「HOLLYWOOD」という文字は、逆にこの夢の映画界をこれでもかとばかりにリンチ風に打ち砕いていくかのようである。もはや「マルホランド」という道はない。物語は「ツイン・ピークス」以上の加速度で飛躍していく(飛躍し過ぎ気味?)。例によって数々の不思議な人物が登場し、彼らが交わす会話は大変面白い。誤解しないでほしい。「不思議な人物」とは外見から一見して分かる得体の知れない人物ではない。そうではなくて、ごく普通の人なのだが、何かしらの狂気を持つ人物である。その人物が垣間見せる神経質な様、過剰さ、バランスの崩れ、そして悪意といったものにはユーモアと同時に怖さが感じられる。(この演出はいいのだが、下手な小細工はせっかくの世界を台無しにする。)これでは怖くてアメリカにも行けたものではない。まあ、行く気は全くありませんがね。5点



3月31日江南コロナワールド 映画ドラえもん(渡辺歩『僕の生まれた日』、やすみ哲夫『ゴール!ゴール!ゴール!!』、芝山努『のび太とロボット王国キングダム』

一つ一つのシーンが柔らかさに欠ける。「ドラえもん」の絵は日本アニメーション作品の中でも数少ない良作の一つと考えているが、キャラクターが曲線的であるわりには、一つ一つのシーンが直線的で強すぎる。『僕の生まれた日』の妙なリアルさと暗さ、そして成長した樹木の描かれ方(樹木の伸びやかさはトトロのドングリのように余裕がなくっちゃね)。『ゴール!ゴール!ゴール!!』は論外。子どもに媚びるような遊びはやめてもらいたい。(ポリシーをしっかりと持つべきですね。)さすがに『のび太とロボット王国キングダム』となると気合いも入っているせいか、ロボットをどう考えるかという命題もあって少しは楽しむことができた。しかし、子ども向けとはいえ、いや、子供向けだからこそ、そろそろ「〜王国」というのは終わりませんか。今回は「女帝」だったので、少しは面白かったのですが、もっと民主的にいけないものですかね。3点



3月18日シネツイン Sally POTTER『耳に残るは君の歌声』The man who cried

正直言って、前評判ほどは良くなかった。ロマ、ユダヤ人、移民ロシア人などの民族的問題を巧みに扱ってはいるものの、肝心の「声」へのこだわりが十分に描ききれていなかった。多分に見せることに力点が置かれ(馬を追う自転車、プール、二人の抱擁)、編集もよく分からない(なぜ難破シーンを冒頭に持ってくるの?)。何かちぐはぐしている。しかし、繊細でいて印象的なシーンがないわけではない。冒頭で林の中で娘を探す父親は情緒に溢れ、その後の離別は哀しい。また、女友達の描き方には深みがあった。4点



3月18日シネツイン Bertrand TAVERNIER『今日から始まる』Ca commence aujourd'hui

今日から始まってほしい、今日から始まらなければならない。ロゼッタ(『ロゼッタ』、評は「2000年の映画採点簿」)やフレディ(『ジーザスの日々』、評は「2001年の映画採点簿」)が同じく生きる厳しい現実にどう立ち向かえばよいのか。主人公は教員であるがために彼を取り巻く日常への接し方は一層複雑である。社会とのつなぎ役としてどうすればよいのか。彼にもプライベートな時間と空間があるはずなのに。他者へ手を差し出すべきか、どう差し出すべきか。連帯、社会、経済、制度、政治の持つ力とは一体どんなものなのだろうか。でも、もう一度今日から始まるし、今日から始めなければならない。7点



2月23日ワーナーマイカルシネマズ広島 宮崎駿『千と千尋の神隠し』

我が小さな仲間にようやく好奇の目が向いたので、遅まきながら観ることができた。宮崎映画には現実社会への鋭い批判が現れていることがしばしば指摘されるが、この作品にはそれがきわだっている。飽食、拝金、権威主義、環境汚染、そして自己喪失。そんな「神隠し」に隠れた(「現れた」と言うべきか)この現実を乗り越えて千は千尋になっていく。もうカオナシではない。アニメーション作品を見慣れていないせいかもしれないが、話の展開の早さや広がりに一部ついていけないところがあった。登場人物であるハク、ゆばば姉妹、そして「人間」の設定がよく分からない。とりわけ、ハクが以前千尋を助けた川の神につながるというくだりは、伏線を張りつつも最後になって急いで辻褄合わせをしたような印象を持った。ここでついでに述べておけば、私はアニメーションの映像は「リアル」になりすぎるとその面白さが失われると考えている。例えば、コンピュータ・ゲームのようなおどろおどろしい映像に向かっていくことはアニメーションの簡潔な美しさを失うことになってしまうのではないだろうか。三次元ではなく、あくまでも二次元の抽象化の美学で勝負してもらいたい。従って、この作品の中で海が「リアル」に描かれたシーンがあったが、私にはどうもしっくりいかない。かと言って、実写とアニメーションの役割分担をすべきであると必ずしも私は考えているわけではない。アニメーションは実写で描ききれないものを表現できる一手段としてとらえられることがあるが、このようなアニメーションの補完的な位置付けもやめた方がよい。見方を変えて考えてみよう。実写で描ききれないシーンを高度なコンピュータ・グラフィックスを駆使して描いても、映画そのものの出来自体は極めて低いことが多い。(「よくできてるね」という感想)ハリーなんたらやロード・オブなんとかを見れば(本当は予告編しか見ないが)よくわかる。(ここでは映画の話であって原作については触れていないので誤解のないようにね)言葉に追随した映像は所詮言葉の想像力に負ける。映像の自立した美しさが必要であろう。(ここまで言うと先のことと矛盾してしまうかな。)最後に、自らの竪琴ライアーのみを伴奏に歌う木村弓の「いつも何度でも」はこの作品の感動を増した。物語とは直接接点を持っていないようでいて、実は、嵐のように吹き抜けた神隠しの後に、千尋と私たちの決意をやさしく歌う。8点



2月7日サロンシネマ Alejandro AMENABAR『オープン・ユア・アイズ』Abre los ojos

スペイン映画であるためか、妙に泥臭くて怖い物語である。これがアメリカ映画ならきっと技術に走るのだろう。映像もデビット・リンチばりの艶めかしさがあり、テンポも良い。最後で説明しつつも、解釈を観客に預け、「眼を開く」という行為を映画の終わりに重ね合わせるあたりは心憎いばかりの演出である。だが欲を言えば、私だけの趣味かもしれないが、最後も整理せず、見る者をもっと混乱させてほしかった。見ることと記憶することの不思議さを、まさに眼を開ける勇気を失わせるばかりに。『母の総て』の時も書いたが、非英語の原題をわざわざ英語タイトルに翻訳する必要はない。『眼を開いて』でいいではないか。英語はびこり主義は本当に質が悪い。6点



2月4日ワーナーマイカルシネマズ広島 Nanni MORETTI『息子の部屋』La Stanza del figlio

ナンニ・モレッティの演技が良い。単純で軽薄に「力強い」石原慎太郎的な父親ではなく、こんなモレッティ的な父親が増えたらきっと世界は悲劇も乗り越えることができるだろう。この映画の中では悲劇が起きるのが物語の半ばである。事件前が長いのは、これは勿論、モレッティ監督の好きな「見る」(「診る」という漢字を当ててもよいかもしれない)ことから「経験」することへの対比が生かされるためでもあるのだが、それだけではない。やはり、父親を中心とした家族を描きたかったからではないだろうか。最も象徴的なのは、父親が車中で歌い出し、家族四人全員で合唱するシーンである。そんな家族から息子がいなくなってしまうことは喩えようもなく悲しい。回想シーンでは、父は息子の死という事実を懸命に拒否しようとする。取り戻せない過去を何とかして取り戻せないものか。父親の気持ちが十分なほどにじみ出ていて悲しい。映画のラストには、家族三人で息子のガールフレンドをまるで今は亡き息子のようにしてフランス国境まで車で送っていく。(この車中の無言のシーンは先の家族四人の時の合唱シーンとオーバーラップしている)私が担当する総合科目「映画と演劇」(ただし、私の担当分は「イタリア映画の歴史と現在」の一回のみ)のレポートで、ある学生がこの映画のラストをネオリアリスモの伝統に位置付けて語っていたが、まさにその通りで、このラストは『無防備都市』や『自転車泥棒』のように、事件はそこでは解決されないが、確実にこれから解決していくだろう決意と希望を見事に描く。朝の太陽に照らされた海辺をゆっくりと歩む残された家族三人を追うこの息子のガールフレンドの視線は、ローマの丘を下る子ども達を追うロッセリーニや、息子の手を固く握りしめる父をローマの雑踏の中に見るデシーカのカメラである。9点



1月28日サロンシネマ Tonie MARSHALL『エステサロン/ヴィーナス・ビューティ』Venus Beaute (institut)

その手で体を癒し、美へと導くエステシャンのアンジェルAngele(名前が象徴的である)は愛を信じてはいない。彼女は彫刻家Antoineと知り合うことでその愛を回復していく。エステサロンに入れ替わり次々に入ってくる様々なお客の気ままさの陰でアンジェルの孤独は増す。状況を積極的には説明しようとしないMARSHALL監督はその揺れ動く女性心理を丁寧に映像化しているが、なんといってもアンジェル役のNathalie BAYEが魅力的だ。この物語とは裏腹に、彼女には完全に下品にはなりきれない不思議な愛らしさがあり、とりわけその眼の美しさは忘れることができない。憂いを帯びた悲しみと同時に、ある種きっぱりとした強さが感じられる。さすが恋愛好きのTruffautが『緑色の部屋』La chambre verteで見初めただけはあろう。この世代では今後も追跡したい貴重な女優である。(我がアヌークやモニカは年老いてしまった!)5点



1月28日サロンシネマ Patrice LECONTE『フェリックスとローラ』Felix et Lola

ひどい、ひどい。terrible、horrible、insupportable!!! 更にフランス語で追い打ちをかければ、こういう映画を「くだらない」nul(ちなみに「ニュル」と発音しますが、いかにもこの映画にふさわしい音だ)と言うのですね。全編が思わせぶりなカメラの動きと無意味なスローモーションで満ちあふれ、役者は少しも美しくもなく(「悲しげな」triste女性が美しいということは分かった分かった、ハイハイ)、物語の展開も全くつまらない。よくもまあFrance2やCanal+がこんな映画にお金を出したものです。LECONTEの映画は『タンゴ』あたりから凋落傾向にあり、「橋の上のヴァネッサ・パラディ」で末期的な症状を呈していましたが、そもそも『ダンデム』、『髪結いの亭主』や『仕立屋の恋』の秀作三作はたまたまマグレで、これが続いて「奇跡」ということになったのでしょう。こんなゴミ映画は見に行ってはいけません。(誤解のないように言いますが、私もこの映画は二本立てだったので暇つぶしで観ただけです)間違いなく0点です。



1月18日シネ・アミューズ 高橋伴明『光の雨』

原作にある若い男女に「あの事件」を語るという設定を、この映画では劇中劇という形で昇華しようとした。そのアイディアはよい。しかし、陰惨なシーンが多いわりには伴明の映画の鋭さはいっこうに伝わってはこなかった。役者の演技は下手で(劇中劇という言い訳は通用しない)、核となる「革命家」が硬化していくさまが十分に映像化されておらず、肝心の「光の雨」は人工的な映像で恐ろしいほどのシラケぶり、更に、迷ったあげく観る者に解釈を預ける思わせぶりな編集(明確な意図がないひどい「遊び心」!)。金曜日の最終ということもあるが、シネ・アミューズは立ち見も出るほどの超満員で、特に20代前半の観客が多かったことには少なからず驚かされた。でも、これで伴明と立松和平のねらいは成功したのかもしれない。少なくとも表面的には。5点

2005年の映画採点簿

2004年の映画採点簿

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2001年の映画採点簿

2000年の映画採点簿


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