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2003年の映画採点簿
2003年のベスト・ワンはどう考えても『ボウリング・フォー・コロンバイン』しかありません。
直球だけでなくあの変化球を混ぜた巧みな投球術には学ぶべき点が多々あります。
11月10日サロンシネマ Ken LOACH 『ブレッド&ローズ』Bread and Roses
これは「パン」(生活)と「薔薇」(尊厳)を獲得しようとする中南米移民労働者の物語を引っ提げたケン・ローチによるアメリカへの殴り込みだ。しかし、いつも言うようだが、このカタカナタイトルはなんとかならぬものか。英語帝国主義に悪乗りした製作側からの配給元への圧力なのだろうか。だから文部非科学省なぞが小学校への英語導入という大きいモノにはマカロニヤンキー迎合無知蒙昧阿呆陀羅政策を考え出すのだ(これ、右翼の『諸君!』怒らないのですかね C'est bizarre,n'est-ce pas?)。必要なのはまず日本語でしょう。かといって、斉藤某「声出し」体育系野郎のように、批評性もなく何でもやたらに「声に出して」読めばいいってもんじゃありませんが。実はこの映画の中にも言語の問題が示唆されている。パーティー会場での歌だ。「おいらは最近英語を習い始めたんだ。敵と戦うためにね。」こんな感じだっただろうか。さすがはケン・ローチ。でもそうだとするともう少し英語とスペイン語のスイッチングが意図的であってもよかったかもしれない。作品そのものの評価だが、なかなか出来はよい。労働組合運動という今日のアメリカ映画では滅多に見られないテーマを取り上げ、ユーモアを交えながら物語はうまく展開していく。ラストのマヤが車で送還されるシーンは冒頭のシーンとも照応し、離別も互いの理解の上に立てば耐え得ると終わるところなども心憎い。ただ労働組合の組織化への過程では、危機的な状態に陥った「連帯」が再び求心力を取り戻す肝心の部分、即ち移民労働者の結束への心の動きが描かれていない。それをサムとの恋愛にすり替えてしまったところにこの映画の限界があるのかもしれない。しかしこの点を除けば、『ブレッド&ローズ』は常に正面勝負をする。その象徴がマヤと姉ローサの「対決」で、これが圧巻である。これでもかこれでもかと涙と怒りでローサが投げつける彼女の汚れた過去に私たちはマヤとともに言葉を失い、涙してしまう。立ちつくさざる得ない圧倒とはこのことである。いや、待てよ、まさかこの姉の名前ローサRosa(「薔薇」Rose)の類推を容易にするために意識的に英語タイトルのままにしたのでは?でもそんなはずはないですね。7点
9月22日サロンシネマ 塚本晋也『六月の蛇』
一瞬、神代辰巳の『赤い髪の女』へのオマージュかと思った。雨、赤ならぬ青、結ばれない男女。あまりにも徹底しているのだ(注)。この作品はパワー溢れる塚本晋也がこだわりにこだわった会心の作である。孤独、病と死への恐れ、性への渇望といったものを共有しながらも相手と交わることができない。唯一繋がるのは電話と写真。とにかく青みがかった映像が美しく、そしてこの映像に音(録音)がかみ合う。電話の声、ひたすら降り続く雨の音、カメラのフラッシュの音。これらが見事にこの青の映像に調和する。ただ脚本に荒さが無いわけではない。寺島進は必要ないだろう。8点
(注)こういった感想に監督の証言は参考にしていない。参考にしていないどころか、私は映画館でパンフレットも買わなければ、映画評もごく一部を除いて積極的には読まない(その「一部」の例を少し挙げれば、木下昌明の社会派批評、中川洋吉のフランス映画批評、最近フォローしていないが「ゆとりの王様」寺脇研の日本映画批評、塩田時敏のピンク映画批評、それにフランスの評論家による映画批評ぐらいなものか)。当たり前のようだが映画は作品が総てであり、従って作品そのものからしか評価しないし、何よりもほとんどの映画批評はつまらない(製作・配給会社の広告塔、意味のない内容解説、俳優や監督の裏話、稚拙な感想、とるに足らない脱線等々、分析の欠けた戯言である)。斯くして「独断と偏見に満ちた」採点簿という所以である。誤解なきように。
7月21日サロンシネマ Pedro ALMODOVAR『トーク・トゥ・ハー』Habel con ella
なぜ感動しなかったのだろう。前作『オール・アバウト・マイ・マザー』(以下『母の総て』)が余りにも良すぎたか。『母の総て』は見終わってすぐさまもう一度見たいと思えたのに(実はその数日後に勢い余ってサントラ盤を買ってしまった)。その感動は今は亡き名古屋熱田「旗屋シネマ」の深夜で、Philippe
de Brocaの『まぼろしの市街戦』Le Roi du Coeurのラストシーンに思わず拍手をしてしまった以来のものかもしれない。しかし、この『トーク・トゥ・ハー』(以下『彼女と話すこと』)は期待はずれだった。何がそう思わせたのだろうか。まず第一に、印象的な映像・場面がほとんどなかったこと。冒頭で主人公の二人の男がピナ・バウシュの舞台を見るところはよかったが、既にここで物語の結末が見えてしまった。『母の総て』では列車がトンネルを抜けた時に広がるバルセロナの夜景や、マヌエラが病魔に冒された夫と墓場で対面する場面などが忘れられない。第二に、主人公のベニグノとマルコに魅力があまり感じられなかった。これは見れば分かる。男が不在の『母の総て』では女たちがエネルギッシュに生き、その(元男性を含め)彼女たちが見事なほど魅力的だった。その裏返しとなる『彼女と話すこと』では、女が停止し、男二人が彼女たちの周りを取り巻くのだが、彼らの描き方が図式的に分散されていて、突っ込みが浅いような気がした。やはり最近のアルモドバルには女性を描かせた方がよいかもしれない。第三に脚本。展開がアメリカ映画にありがちな予定調和的であること。更に第四に、アルモドバルのエロスが多分に禁欲的であり直線的であったこと。以上はあくまでも『母の総て』との比較の上なので、採点は中の上の7点。
7月7日サロンシネマ Eric ROHMER『グレースと公爵』L'Anglaise & le Duc
残念ながらこの映画の良さはよく分からない。確かに絵画の中で映画を動かすという実験は斬新で美しい。しかし、その技法のみが突出して、いつものロメールの会話の面白さがこの作品には欠ける。また人工的な技法のせいでロメール作品に見られる街並みや田舎の風景、部屋の壁や調度品とそこに住む登場人物を映し出すときの計算された、そして落ち着いた自然な色彩美が感じられず、良い印象は持たなかった。とりわけ革命兵士がグレースのもとを押し入る時の会話は滑稽にさえ思えた。その滑稽さは多分に演劇的な動きと話し方によるものが多いようであるが、そう考えてくると、ロメールの狙いはある革命期のエピソードを時空を超えて描くために、絵画、演劇、そして映画の三手法を一体化したことにあったとも言える。しかし、これは小手先の遊びのような気がしないでもない。でもオルレアン公のジャン=クロード・ドレフュスにはいい味が出ていた。4点
5月22日ツインシネマ Jeacques PERRIN『WATARIDORI』Le Peuple migrateur
美しい。こんな風に力強く、懸命に、気持ちよく飛ぶんですね、鳥は。この映画を見ていると、こちらも思わず高い所から両手を広げて勢いよく飛び出したら、飛べそうな気になる。レオナルドの気持ちも分からないでもない。ジャック・ペランは以前ドキュメンタリーを紹介する番組(Antenne2時代の「25時」だったかな?)を担当していたが、さすが硬派の役者、よくモノを見ている。そう言えば、Philippe
MONNIERの『アルジェリア戦争』La Guerre d'AlgerieやCOSTA-GAVRASの『Z』といった社会派の映画、それと今回の『WATARIDORI』にもつながる『ミクロコスモス』Microcosmos,
le peuple de l'herbeもプロデュースしていた。タイトルも「渡り鳥」ならばles oiseaux
migrateursとするところ、敢えて今回もpeuple「人々、民族、人民」を用いるところにも彼の思いと眼差しの優しさを感じさせる。盲目の映写技師アルフレードの死でシチリヤに帰郷し、昔自分が撮った8mmとアルフレードが紡ぎ出した「歴史」を溢れる涙で優しく見つめるあの映画監督のように。7点
4月21日サロンシネマ Michael MOORE『ボウリング・フォー・コロンバイン』Bowling
for Columbine
これだけ世界がろくでもないと、思わずそれにカメラを向けてしまいたくなるせいか、このところドキュメンタリーが面白い(『国労冬物語 人らしく生きよう』、『チョムスキー 9.11 Power
and Terror』)。この作品ではマイケル・ムーアその人がとにかくいい。こんな兄ちゃんに、『ガープの世界』の元フットボーラーと『息子の部屋』の父親ナンニが加われば、世界も今の数倍楽しく、幸せになるの違いない。ジーンズからおしりを少しはみ出しながら、ニタニタと相手にマイクを向ける。まるで単なる興味から近づくようでいて、その実、相手の放つ言葉やスキを突破口にして攻め立てる。もしこれがきちっとした格好のいかにも鋭そうな人物が銃についてシビアな質問をしようものならどうだろう。おそらくここまで敵の恥部を赤裸々に暴き出すことはできない。しかし、そもそも敵とは誰なのだろう。この点も面白い。過激なロック歌手マリリン・マンソンが実は一番まともなことを言っているからだ。何よりも圧巻なのは、マイケルがインタビューによる問題の顕在化だけで満足することなく、その問題を解決する、更に言えば「世界」を変革する一つの方法を私たちに披露する下りである。スーパーから銃弾の販売を停止させるために、銃弾で傷ついた車椅子の青年を飛び込みで店頭に連れて行き、見事に銃弾撤去を確約させるのである。そう簡単には引き下がらない「粘り」の勝利だ。政治家から大学生まで、この日出ずる愚かな「神の国」ではすっかり忘れ去れた力である。しかしながらこの映画のいいところは、素材や「主演」の行動力だけではない。編集が「主演」のラフさとは裏腹に極めて緻密で、鋭い。例えば、無差別に発砲される教室の監視カメラの映像に、携帯から助けを求める声をかぶせるが、監視カメラの冷淡さと声の恐ろしさが凄まじい緊張感を作り上げる。こんなアメリカ、以前はその同じスクリーンにクーパーの良心が映し出されていたが、もう今は無理なのだろう。この映画がカナダ制作である点に、アメリカの限界を見て取ることができる。「恥を知れ、ブッシュ」、そして「くたばれ、コイズミ」。10点
4月3日広島宝塚 芝山努『のび太とふしぎ風使い』
今年もドラえもんの春休みです。今回は「風」がテーマでした。流行のアニメーションに見られる絵のギザギザ感やデフォルメがドラえもんには極端に少ないことは前にも書きましたが、このいわば丸みの世界を壊すことなく「風」がどのように吹くかが問題でした。それはある程度成功しているように思われます。しかし、このところ毎回のように冒険先行型の展開が続くと、ドラえもんも何かに急かされているように感じなくもありません。映画版というイベント化も分かりますが、やはりドラえもんはもっと日常的であってほしいところです。3点
3月17日サロンシネマ 吉田喜重『鏡の女たち』
吉田作品にしては比較的わかり易い映画である。それが象徴的に現れているのが、荒れた海辺のフラッシュ・バックの挿入であろう。これは人のいない海だけであってほしかったし、できればフラッシュ・バックそのものも入れてほしくはなかった。このカットに見られるように、以前に比べてこの吉田作品は説明的である。現在演習講義で『ヒロシマ・モナムール』Hiroshima,
mon amour(1959年日本公開時は『二十四時間の情事』)を、デュラスのシナリオと比較しながら分析しているが、ついこの作品と『鏡の女たち』とイメージを重ねてしまう。「ヒロシマ」、「記憶」、「見ること」、「戦時中の愛」などテーマが重なるところが多いからだ。レネーデュラス作品では、テーマや登場人物の意識が具体的なモノを通した即物的ないし象徴的な映像イメージで捉えられる。さすがに時代の違いもあって、この『鏡の女たち』はそこまで思い切れないようではあるが、演出上の効果が視覚的に鋭くテーマにかみ合う。それは、三世代の女性たちが腰掛けるときの配置である。彼女たちは対面に座して、お互いに正面から顔を見て話すことはない。いつも同じ側に座り、同じ方向に顔を向けて話す。ここには明らかに意図がある。自分の過去を消滅させんがために割られた鏡が象徴的に示しているように、それは自分の照り返しとしての母、娘、孫を見ることができないことを暗示しているではないだろうか。しかしだからこそ、「ヒロシマ」を通奏低音にしながら、引き裂かれた三世代がそれぞれの自己を取り戻し、互いに繋がっていく可能性を示してくれる。『エロス+虐殺』の原田大二郎や『秋津温泉』の岡田茉莉子がひたすら「前に」走っていくのとは違い、『鏡の女たち』の岡田茉莉子は隠された過去に向けて歩んでいかなければならない。映画の冒頭、日傘で顔を隠して歩むシーンはそれを暗示している。吉田映画ならではの美しく印象深い導入である。8点
3月10日サロンシネマ 『JAM FILMS』(飯田譲治「Cold Sleep」、岩井俊二「ARITA」、北村龍平「the
messenger -弔いは夜の果てで-」、篠原哲雄「けん玉」、堤幸彦「HIJIKI」、望月六郎「Pandora
-Hong Kong legs-」、行定勲「JUSTICE」)
行定勲の「JUSTICE」のみ絶品。それ以外は見るべきものはあまりない。堤幸彦の「HIJIKI」と望月六郎の「Pandora -Hong Kong legs-」ぐらいであろうか。特に岩井俊二「ARITA」はひどい。この偽善的な叙情性にはウンザリである。燃えるARITAがのたうち回る時に、嫌なものが一瞬見えたような気がしたが、まあ雑魚はどうでもいいからほかっておこう。重要なのは「JUSTICE」である。「正義」の字が溢れる教室で、ポツダム宣言を読誦しているところから、最後の落としどころが推測できそうであるが、何といってもよいのはリズムである。ほか事を行う三人の男子学生それぞれをカメラが捉え、その一人東条は体育授業でハードルを跳んでずれたブルマを直す女子学生を、そのブルマの色に応じて三色に分けて「正」の字でカウントする。この東条を演ずる妻夫木聡の演技(とりわけ表情)がとてもいい。この三と三のリズムが徐々に高まり、ラストを迎える。作品全体の評価は2点だが、行定の名誉のために言えば、これは平均点であって「JUSTICE」のみの評価は7点である。つまり他の作品があまりにもひどいということだ。
2月11日横川シネマ ジャン・ユンカーマン『チョムスキー 9.11 Power and Terror』
チョムスキーの発言はまったくその通り。タイミングとして、この映画は書籍とは異なる媒体としてそれなりのインパクトを世界に与えることはできる。多層的な攻撃、そして対抗は確かに必要である。しかし、内容が形式を選ぶとするなら、この内容で成立するドキュメンタリーは弱いと言わざるを得ない。先に語った『国労冬物語 人らしく生きよう』や、後に語るはずの『ボウリング・フォー・コロンバイン』のような、ドキュメンタリーならではの迫力と面白さはこのユンカーマンの作品にはない。なるほど、チョムスキーには汲み尽くすこのとできない深さがあるだろう。しかし、それはこの作品には生きてはいない。どうせなら、講演で観客から放たれた「あなたのこの活動と専門の言語学は関係はあるのか」のような鋭い言葉を、インタビュアーは質問として用意すべきではなかったか。型にはまった質問だけでは面白くない。映画の中で事態が変化していく、生の姿が伝わるのではないだろうか。とりわけ、映画の終わりでチョムスキーが高級車で立ち去るシーンを入れたり、ラストクレジット後に彼の「私の声が聞こえますか」(つまり「理解できますか」、「声は届いていますか」)で映画を終わらせることに一体どれほどの意味があるのだろう。単なる特権意識以外の何物でもない。チョムスキーのメッセージが、混迷の現在においては極めて重要なことが痛いほど分かるだけに評価を下げたくはないが、それでも5点である。
2月10日サロンシネマ 山田洋次『たそがれ清兵衛』
真田広之と田中泯に尽きる。真田は押さえた演技で科白から動きまで終始緊張感を維持し、貧困の中でも黙々と家庭を守る古き良き侍を演じる。剣は立つが、それを顕示しない。ここが観る者の心をとらえる。しかし、ひとたび事が身に迫れば、相手を倒す。もちろん立ちも良い。しかし立ちの点では田中はそれ以上だ。田中の後ろからのショットは、カメラの効果と相俟って不気味な迫力をたたえる。また、斬られた後に、美しく踊るところも圧巻である。いかに間抜けな日本バカデミー賞といえども、両者に賞を与えざるを得ないだろう。宮沢りえはといえば、黙っていても不幸そうな感じがするが(それはそれで私は好きだが)、演技はね〜。それに、村の祭りへの参加や義姉と対決では、まるで時代の先端を行く進んだ女性を演じるわりには、真田に戦いの身繕いを依頼されると、黙ってそそくさとこれを手伝ってしまう。それはないだろう。進んだ女性はどこに行ってしまったのだ。まあこれは彼女のせいではなく、問題は脚本(そして監督)でしょう。最後にもう一つ文句を言っておくと、終わり方は一体何だ。そういった侍が存在したのだということを印象づけたい気持ちは分からないでもないが、余分である。余分と言えば、岸恵子のナレーションも余分である。5点
1月13日サロンシネマ Francois OZON『8人の女たち』8 femmes
豪華絢爛とはこのことである。女優一人一人の名前が花のイメージとともに現れる冒頭のタイトルクレジットからしてそうである。そういえばこのタイトルクレジットといい、物語に男性がまともに出てこないことといい、私の大好きなアルモドバルの『私の母の総て(オール・アバウト・マイ・マザー)』とよく似ているではないか。たちの悪い戦争おたくの単細胞を除けば、数種のパターンでしか動くことができないエネルギー喪失男性が巷に溢れるこの現実を見れば、松田道雄ではないが「私は女性にしか期待しない」と言いたくなる気持ちも分からないでもない。さて、その映画であるが、ミステリー仕立てのストーリーは徐々に読めてきて、むしろ歌あり踊りありの暑苦しい内容になっている。しかし、オゾン監督の意図はそうすることで、このミステリーをいかにミステリーにしないか、言い換えればいかにミステリーを異化するかということだろう。一つの事件から8人の女性の内部がさらけ出され、そしてそこから彼女達自らが変わっていく。タイトルクレジットの喩えを使えば、それはまさに蕾から花への変化である。その最も典型的な例はイザベル・ユペールが演ずるオーギュスティーヌである。(彼女にとってこんなに演じがいのある役柄もなかっただろう。役者みょうりに尽きる!)しかしその変化も、編集の巧みさで行間を楽しませる『焼け石に水』には及ばない。6点