『ヒトラーの贋札』 を観ました。 意外、と言っては失礼ですが、パイプ椅子の補助席が出るほどの超満員。 99席のミニシアターですが、超満員。 映画の内容のせいか、観客の年齢層も高かった。 前の席も、隣の席も、70歳前後の男性でした。 隣席の男性は、席に着くなり 「たいぎいのぉ」 などとのたまうので、「だったら来るな!」 と突っ込みたくなりました。 前の席の男性は座高が高く、字幕が見えなくて困った。 開始直後、どうも寝ていたらしく頭が前に傾いて字幕が見えやすかったのですが、すぐに起きてしまったらしい。 ちぇっ (下品ですみません)。 って、映画開始直後に寝るなって話もありますが。 さて、映画の内容ですが、第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所で行われていた贋札作りの話。 映画の中で何度もナチスがユダヤ人に暴行を働くシーンが出てくるので、その都度 「何でそんなことをされなくちゃならないんだ!」 とどうしようもない怒りがこみ上げてきました。 人種が違うだけで自分が偉いわけでもないのに、なんでそんなことが平気でできるのか。 思い出して、また憤りを感じています。 映画はサリーという贋作師とブルガーという印刷技師を中心に描かれているのですが、サリーは悩みながらも贋札作りに加担し、ブルガーはナチスに力を貸すことを拒みサボタージュ。 両極端な描かれ方をしています。 さて、どちらが正しいのか。 サリーが贋札を完成させなければ、仲間が5人銃殺される。 仲間を守るために贋札作りに手を貸すことは、心情的に理解できる。 また、ナチスに力を貸すことを拒むブルガーの気持ちも理解できるけれど、贋札を作らなければ仲間が銃殺される。 どちらも正しいと言えるし、正しくないとも言える。 答えは出ないですよね。 サリーがドルの贋札を完成させてすぐにドイツが戦争に負け、映画は終わるのですが、2人の人間の葛藤を描いているのだから、もう少しどんでん返し的なものがあっても良いのになーと思ってしまいました。 史実を描いているので、仕方ないとは思いますが、「えーっ、本当に贋札を作って終わり?」 と思ってしまいました。 細かいところで言えば、結核で苦しんでいるコーリャのために、サリーが偽パスポート作りに手を染めてナチスの隊長から薬を手に入れたのに、その薬の存在をコーリャが知ることもなく射殺されてしまうのが悲しかった (射殺は、偽パスポートと薬を交換した隊長の指示)。 それと、偽パスポート作り班にいた男が、材料として運ばれてきた旅券の中に自分の子どもの旅券を見つけ、絶望して自殺を図ろうとして仲間に止められ、終戦まで何とか生き延びたのに、終戦と同時に子どもの写真を胸に自殺してしまうのが、何とも言えず切なかった。 その遺体を抱き、途方に暮れるサリーの姿も悲しかった。 先に書いたブルガーが、映画の中では信念を貫く男としてとても格好よく描かれているのですが、エンドロールで 「この映画はブルガーの書いた本を元に作成された」 みたいな文章が流れて、ちょっと冷めてしまいました。 なんか公平性を欠くような気がするなぁ。 実話なのかもしれないけど、それは知りたくなかったな。
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