他人の生き様に学ぶ
「生きていることに意味がある」という言葉、あるいは論説は、個人的な観念、価値観、美しく思える言葉のレトリックなどであり、生物として生きる以上のことはないと思う。ただし、「生を楽しむこと」には大いに意味があると思う。楽しむことは人それぞれであるから、いろいろな価値観で倫理的に問題がなければ誰が何をやってもよいのだが、自分については、生きている間に何かを残したい、ということに尽きる。
ヒトの寿命が延びたといっても平均値でせいぜい80代である。私は現在、40代の半ばで健康状態は良い方なのだけども、活発に活動できるのは60代までかなと思う。そうするとあと20年ぐらいのうちに、自分の意志とは別に活動量が減っていくのだと思う。世の中的には30代といえば中年であり、多くの人間が体力の衰えを口にするので、私も30代ぐらいからそのようなことを考えていたが、30年後というと想像がつかず漠然としてきたものが、あと20年と考えると意外と短いという気がしてきた。
20年というスパンは0歳児が成人(現在は18歳が成人となっているが如何に言っても未熟だろう)するまでの時間である。子供があっという間に成長するのを見ていると少し恐ろしさすら感じる。そうなると20年をいかにうまく、効率的に生きるかより一層切実に感じる。時間は残酷で後戻りができない。もっと言うと、私という生物が生きることは基本的に1度きりで2度目はない。
ただし、2度目はなくとも、同じ時代に生きる個人を見て学ぶことはできる。他人がどのように生きて、どのようなことに喜びを見出すか、様々な本、メディアで読んだり見たりすることはできる。一番良いのは、他人と会話すること、次に文章を読むこと。脳の活動量が多い順に学びが多い。一番質が悪いのが映像などをリラックス状態で見ることだと思う。
今日、目にしたのは産経新聞の「話の肖像画」という連載での、キャスターの草野仁さんの連載。とても面白くて一気に読んでしまった。私は草野さんほどの才能はないが、教員の子として生まれて教師に対する尊敬がないという部分は同じで、割と勉強ができて落ち着きがある割に、教師の能力は冷静に査定して、教え方に矛盾があるとよく指摘していた。一方で落ち着きのある振る舞いの裏には家庭での教えがあり、社会人になってから他人との諍いをしないようにした、というところも共感した。謙虚でなければ他人から学びを得ることはできず、大きな軋轢を作ってしまってはその後得られるはずだった協力関係も得られない。事にあたってはまずは自分の主義主張を叫ぶのではなく、一歩引いて考えることが大事だと思う。
