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件名 ホームページ利用について

こないだから、とある出版社の方と本を出そうと盛り上がっているのだけれども、それを実現するにあたり、様々な困難を乗り越えなければならないらしい。

そうした困難のうちの一つはこのブログ開設と非常に関連が深いので、ブログ一発目の記事として書いてみようかと思う。いや、書かんとあかんと思う。

で、その担当編集者が言うには、本を書かせてやってもいいんだけれども、私には致命的な欠陥があるのだという。世間と言うのは、暖かくもあり、冷たくもあり、自分が知る人が本を書いたとならば、それを手にして、「まぁ、○○さんが本、書いてはるわぁ。ここは一つ買うて見ましょう」、なんて購入にいたるのだろうけれども、自分が知らない人が書いた本など、まぁ、なかなか手にも取ってくれないそうである。

確かにそう言われると、著者の知名度が本の売れ行きに多大な影響を与えることは私にも理解できる。なるほどねぇ、と感心していると、言いにくそうに「で、先生の場合...」とだけ言い、それ以上、話すのを止めてしまった。...知名度がアウト。

この問題に対して私は、たとえばカヅオ イシグ口などの名で本を販売してはどうだろうかという結構アグレッシブな解法を提案したのである。当然、カズオ イシグロと勘違いをして購入する人を期待しての提案だ。しかし、これについては編集者に黙殺されると言うか、聞こえない振りをされると言う方法で闇に葬られた。おそらく、妥当な対応である。

打つ手の無い現実に直面し、しばし言葉を失っていると編集者は、「テレビ、出ましょうよ」と勧めてくれた。テレビ、そうだ、私にはテレビがある。最強の知名度アップメディアである。

で、ここ数日、テレビ局から出演依頼の電話がかかるのを、ただただ待っていたのだけれども、そんな電話はかかってこない。振り返ると、今までに一度たりとも出演依頼など受けたことはなかった。たぶん、このまま待ち続けても、出演依頼はない。

そのことに気がつき、意を決して編集者に「出演依頼ありませーん」とレインボーブリッジが閉鎖できない感じの発音で伝えてみたのだけれども、意外にも編集者は、「ぜんぜん似てないですねぇ」等とはまったく言わず、その代わり、結構長めの沈黙の後、低めの声で、「テレビ、もういいです」とだけ言った。

で、再び結構長めの沈黙が続いた後「じゃあ、ブログやりましょうよ」とそそのかされた。「私みたいな知名度が低いやつが書いたブログなんて、読むやついるの?読んでもらわないと、知名度上がんないよ。」と結構的をいた感じの指摘をしたのだけれども、それは受け入れてもらえなかった。ただ、もっと低い声で「いいから、やれよ」との賜れるだけであった。

で、今、こうして自分の知名度を上げるだけのために、ブログをしたためている。書きながら思うことは、これを読んでいる皆さんのことで、私の知名度上昇につき合わされていると思うと不憫で不憫で仕方がない。ただ、先に白状しといたほうが、お互い割り切った関係が築けると思うので、そうしとこうと思う。

これからも、皆さんが生きるうえで何の役にも立たないことを、ただただ私の知名度上昇を願って綴っていこうと思いますので、今後とも知名度上昇にお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。

アディオス!

2017年10月17日

件名 生物多様性に関する調査について

河童見たことある?俺はあるけど。

実は、中学生の時、河童を見たことがある。いや、正確には、河童かどうかわからないのだけれども、合理的に考えるとそれは河童でしかありえず、それ以来、それを積極的に否定すべき事実も得られておらず、これをもって今なお、私の中でそれは河童でなのである。

自宅と中学校の間にはため池があった。私が生まれ育った愛知県における知多半島の付け根には大きな河川が流れておらず、農業を営むためにはため池が必要であり、いたるところにため池があった。そして河童はうちの近くのため池に棲んでおった。

学校の帰り、そのため池に立ち寄り、生物多様性に関する調査を行うことが常であった。まぁ、ザリガニ捕まえたりするだけなんだけど。

で、その日はそのため池に流入する水の経路である土管の上に座り、水が流入するあたりで調査をしていた。経験上、こういったところに集まる習性を、生き物はもっている。私を含めて。

で、なんか変わった生き物いないかなぁ?って注意深く観察したところ、水深数十センチメートルのところに転がる大きめの石のところに、結構はっきりと、水かきが付いた足が見えた。足の大きさは5cm位ありそうで、そこから推定するに、本体はかなり大物なことがうかがえる。うかがえるんだけど、水が汚いがため数十センチでも視界が悪く、本体は見えない。

私にはこのため池に棲むそんな大きな足を持った生き物についての情報が欠如していたため、ため池外部から、なんらかの死骸がこの土管を伝って流れてきて、そこに沈んでいると考えた。キモイけど死骸を手繰り寄せて、この足の持ち主が何者であるか確認・同定してやろうと思い、長めの棒を探して、再び土管に戻ってきた。

棒を持って土管の上に戻ってきた時も、やはり死骸だけあって、そこにまだいやがる。で、死骸だと安心しきって、その近くに棒を突っ込んだやいなや、その水かき付きの足がゆっくり、ぬおーっと深いほうへ消えていったのである。生きていた!

移動方向が深いほうなので、もちろん本体は見ることはできなかった。

私が得た情報はここまでなのだが、この情報から合理的に何が起こったか推理すると、河童がため池におって、それに遭遇したというストーリがもっとも蓋然性が高い。いや、それ以外のストーリーが思い浮かばない。なぜならば、それだけの大物の、足に水かきをもつ生物など、私が知る限り河童しかいないからである。

それからというもの、中学生の私は河童におののきながら生きる日々が続いた。これは河童の身になって考えてもらえればわかると思う。

河童と言えば、誰しもが知る生物界のスーパースターである。だからこそ私は皆さんに、「河童を知らない人がいれば、ヤホーで検索してほしい」と言わなかったのである。つまり、老若男女、皆さんはすべからく河童を知っていて、河童を知らない人などはいないからである。河童は知名度レベルで行くと犬・猫に匹敵する生物なのである。

にもかかわらずその正体はいまだミステリアスで、その標本は日本のいかなる博物館はおろか、かのスミソニアン博物館、大英博物館、ライデン自然史博物館(ナチュラリス生物多様性センター)、広島大学博物館にも所蔵されておらず、謎のままなのである。

これはひとえに河童側の努力の賜物であり、これまでも、これからも、正体がばれそうになった場合は、そのソースを根こそぎ始末するという処置で乗り越えてきたことが予想される。

ということは、河童と偶然に遭遇した私はどうなるのかと言うと、当然、河童に消されるのである。

では、どうやって河童は私を消すのか?であるが、相手は河童である。たぶん、河童はこういった事態に備えて、誰がどこに住んでいるか、という個人情報を十分に把握しており、河童のみが持つ個人情報検索システムにより、私の所在などひとたまりもなくばれてしまうのである。これはたぶん個人情報保護法に抵触すると考えられるが、相手が河童なんだから、個人情報保護法の対象になるとは思えない。やつらは、ずるい。

よしんば、個人情報検索システムを河童側が構築していなかったとしても、やつらはそれで打つ手がない、ということにはならない。やつらは、神通力を持つ。河童が持つ神通力により、やはり簡単に私の居場所など特定されてしまうだろう。やつらは、ずるい。

では、いつ消されるか?であるが、相手は河童である。昼間に公道を歩いてうちまで来たら、多分たくさんの人とすれ違い、すれ違う人それぞれを消して回らないといけなくなる。河童の身になって考えれば、これはめんどうなので、絶対に避けたい。おそらく、奴らが来るなら、人通りが少なくなる夜だ。

で、夜な夜な、今日は河童が来るんじゃないだろうか?今日こそ河童が来るんじゃないだろうか?と恐れおののく日々が続いた。中学時代、恋にも、部活にも、勉強にもいまいち集中できなかったのは、ひとえに河童のおかげである。つまり、恋や部活や勉強など考える暇があったら、河童のことを考えなければならなかったのである。その頃の私の頭の中は、生命にかかわり、切迫した問題である河童にほぼほぼ埋め尽くされていた。

にもかかわらず、これは私の人徳の部分なんだけど、自暴や自棄を起こさなかった。つまり、「どうせ俺なんかやがて河童に消される身。お嬢さん、少し下がっておきなさい」と、悪人から娘さんを保護するといった類の勝ち目のない喧嘩を買ってみることや、学校を休んで、NHK教育テレビを見続けるといった行為、もしくは様々な反社会的な行動に至らなかったのである。将来が無いと思えば、こうした反応をしても不思議ではないにもかかわらず。

ではなぜ、自暴や自棄に至らなかったかと言うと、私は賭けに出たからである。もし、河童が根こそぎソースを始末し続けて来たのであらば、なぜ我々は河童の存在を知っているのであろうか?完全に矛盾する事実である。この矛盾を説明するためには、新たな仮説を導入せざるを得ない。つまり、河童は遭遇した人間のうち、ほんの一部だけを生きながらせ、その生き延びた少数の人間が、河童のことを言いふらしてきたのである。

では、河童はなぜ、一部だけを生きながらさせるか、と言うと、これも、河童の身になって考えれば簡単でに分かる。河童はいつも我々に気が付かれないようにと、ひっそりと生活している。河童はこれが人と共存する最適な戦略と踏んでいるのだろう。しかし、この生活は正直、寂しい。「俺は、ここにいる。誰かに俺のことを認めてもらいたい」という気持ちを河童が持ったとしても不思議ではない。いや、持っている。

では、この気持ちをだれにぶつけるのかと言うと、ちょいちょい人前に現れ、そいつを「カッパー!」と驚かせたり、己の河童姿を見せつけたりすることで、人類に河童の存在を周知するのである。こうして河童に選ばれた、故意に河童と遭遇させられて人は、どうなるのかと言うと、生かされるのである。「あそこに河童おるでぇー」と人々に周知するために。

よって河童に消される大多数もあれば、一方でこうした役割を担わされる人も、少数ながらいるわけである。そして、私は賭けた。私は選ばれたのだと。私は河童に生かされるのだと。河童伝道師として、河童の寂しさを埋めるために。

皆さんももうすでに気が付いてもらえたと思うけれども、夜な夜なこんなことを考えていたら、勉強する暇なんてどこにもない。

で、幸いにも、私は選ばれたほうの人間に回され、結局いつまで待っても、河童は現れず、だからこそ今でも消されずにいる。自暴や自棄をしなくてよかった。もうこの年になれば、河童が私のもとに来ることもなかろうし、たとえ来たとしても、私も中学時代からかなり人相が変わっているから、わざわざ訪ねてきた河童が、「よしんば俺に見覚えがねぇとは言わせないぜ!」などと言ったとしても、平気な顔して「誰かと人間違えしてんじゃねぇの?お前なんか知らんよ。河童を見るのは、これが初めてじゃ!」と、すっとぼけてやることだってできよう。

この河童に遭遇したという話は、河童に託された、河童伝道師としての使命でもあるので、ちょいちょい披露するんだけれども、これを聞いた人は、結構高い確率で、「私も河童にあったことがある」という反応を返される。野生のクマを見た人より多いんじゃないかと思うくらいの勢いである。

と言いうことは、結構いるんじゃないだろうか、河童。よって、皆さんにとっても、河童遭遇リスクは結構高いことが予想される。一つだけ助言をすることが許されるのならば、たとえ河童に出会ったとしても、自暴や自棄する必要はないと思う。日々、河童におびえながら、しかし、まじめに生きよ。ならば、河童に生かされん。

アディオス!

2017年10月17日

件名 注意喚起 国外での研究活動について

ミャンマーで調査してるの、お仕事で。

で、ミャンマーにあまり長く居れないこともあり、大体は短期決戦。2週間くらいで結果を出さないとならない。

こういったとき成功を左右する肝は、どれだけ現地の協力者の支援を得られるか、に尽きる。幸い現地の協力者たちは、みな働き者で協力的。しかし、実を言うとこうして皆が協力的であるのは、私の人徳に負うところが大きい。

というのも、私は常々人の名前を覚えるのが苦手にしているんだけど、こと協力者に関しては話は別で、極力、名前を覚える努力を払っているからである。なぜかというと、人は名前を覚えてもくれない人に親近感を抱くわけもなく、そう言う場合は、「名前も覚えてくれん奴と働くのはまっぴらごめんである。まぁ、適当に働いたふりだけしておいて、お給金だけもろときましょか」となってしまう。そうならないために、名前を覚えるのは最低のマナーなのである

で、今回の協力者の名前はジージージョー。まぁ、日本語のアルファベット(カタカナ)でつづると、ジージージョーなんだけど、現地の人がジージージョーを呼ぶ場合には、全くジージージョーには聞こえず、それは、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェなのである。

こういった場合、聞こえたとおりに発音すべきで、つまり、ジージージョーではなく、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェの発音が正解。

で、ここで皆様にお願いがあるのですが、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェと発音してみてください。そう、なかなか難しい。しかし、困難であることを理由にあきらめるのは、根性が足りません。

そこで、私はジージージョーに用事があろうがなかろうが、ジージージョーに向けて、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェと言うようにしていたのだが、現地の発音に近い音、つまり聞こえたとおり発音するためには、顔の筋肉を全開で動かす必要があり、そうすることでやっと、自分の納得のいくジゥェウィージゥェウィーチョァウェに達するのである。

さて、こうした努力を持って繰り出されるジゥェウィージゥェウィーチョァウェなのだが、ジージージョー本人には全く自分の名前とは聞こえないらしい。なぜならば、私がいかにジゥェウィージゥェウィーチョァウェと声を張り上げようが、ジージージョーは知らんぷりをするからである。いじわる。

しかし、努力というものは必ず報われるものであり、だからこそ我々は努力を惜しまない生き物なのであるが、私のジゥェウィージゥェウィーチョァウェも報われる日が来たのである。つまり、数日のジゥェウィージゥェウィーチョァウェを経て、ジージージョーがどうやら、

「このおっさん、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェ、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェ、うるさいあるね。うるさい、うるさい思うてたけど、もしかしてこのおっさん、私のことジゥェウィージゥェウィーチョァウェとよんどるん、ちゃーいまーすかーぁ!?」

と気づいてくれたのである。それ以降、ジージージョーは、私がジゥェウィージゥェウィーチョァウェと呼ぶ度に、きっとそれは私のことを呼んでいるのだろうと忖度し、応えてくれるようになったのである。

では、私は今でも、ジージージョーをジゥェウィージゥェウィーチョァウェと呼んでいるのかというと、否である。なぜかというと、調査を一緒に行っている大学院生が、

「先生?ジゥェウィージゥェウィーチョァウェって何すか?それに、ジゥェウィージゥェウィーチョァウェっていうときの先生の顔、やばいっすよ」

と言いやがるからである。顔がやばいのは、なるべく現地の音に近づけるために、顔をこわばらせているためであり、こうした努力が外国語を習得するうえで重要なことに、彼はまだ若すぎて気が付いていないのである。

で、大学院生にその通り伝えると、なんと意外にも大学院生は

「ジージージョーって普通に言えば、ジージージョーには伝わりますよ」

などと言うではないか。これは外国語を日本語の範疇としてとらえようとする全く誤った理解であり、現地人が言うように、つまり聞こえたとおり発するのが鉄則、つまりそうしなければ通じるはずがないのである。大学院生が持つ類の誤った認識を矯正することも高等教育機関の定めである。つまり私の仕事。

しかし、私自身、常々、凝り固まった思考は禁物だと考えている。ありえない大学院生の見立ても、一刀両断に切り捨てるのではなく、一度評価する必要もある。これが大人の対応。

物は試し。おそるおそる、大学院生が言う通り、ジージージョーにジージージョーと呼びかけることにした。試しにね。

すると、なんと不思議なことでしょう。ジージージョーは普通に、返事をするのでは、ないでしょうか。

つまり、ジージージョーにはジゥェウィージゥェウィーチョァウェではなく、ジージージョーと言ったほうが普通に通じることがわかったのである。それ以来、このおじさんは、変顔をしてジゥェウィージゥェウィーチョァウェと呼ぶ努力を、やめてしまったとさ。めでたしめでたし。

アディオス!

2017年10月17日

件名 注意喚起 国外での研究活動について(2)

海外での野外調査には、思いもよらない落とし穴が、調査者を陥れようと、ほくそ笑みながらぱっくりと口を開けている。

私ぐらいの経験豊富になると、落とし穴に落ちるほうが難しくなっちゃっているんだけど、危険な罠に落ちたという、最近では全く稀有となってしまった貴重な体験を紹介しましょう。

海外に野外調査に行けるのは、夏休みなど、講義が開講されていない期間。つまり毎年8月から9月にかけて参る。で、その年も8月の下旬にミャンマーに向けて出発した。

仁徳者である私がこういったときに思うことは、現地協力者のことであり、ミャンマーでの調査を迅速・快適に進めるためには、貢ぎ物を授けるなどして、協力者のハートをがっちり鷲づかむ必要もあろう。

ということで、早速ジージージョーへの貢ぎ物を物色した。ジージージョーは最近大学を卒業したらしいので、二十代前半のはずである。で、この年頃の女子は、万国共通でファッションに興味がある。

で、ファッション雑誌を貢ぐことにした。ファッション雑誌ならば、写真だらけだから、日本語が読めなくても(もちろん、ジージージョーは日本語は読めない)、掲載写真を眺めるだけで十分楽しめるのである。なるほど、冴えているぞ!俺!

で、福岡空港の本屋に立ち寄ったのであるが、20代女子が好みそうな雑誌が複数ある。そして、その表紙の体裁は結構似ていて、どれを選ぶのが正解か、正直さっぱりわからない。

長考の末、結局、重さと値段の関係で選択することにした。雑誌を手に取り、どれが重いかなぁ、と重さを評価し、その重さと価格の関係で、ベストコストパフォーマンス賞を選らび、それを購入するという戦略である。

で、栄誉あるベストコストパフォーマンス賞に選ばれたのは「Ray」だった。

レジにそれを持っていこうと、改めて「Ray」の表紙をじっくり眺めると、まだ8月下旬だというのにすでに10月号。特集は、「見つけた♡愛され秋おしゃれ」的なものであった。…秋…一生来ないな、ミャンマーに。

常夏の国、ミャンマーに秋はない。でも雨季と乾季はある。そこで、「今年の燥季のお肌トラブルは、これで解決!」という特集を提案したいのだが、これが採用されるわけもない。なぜならば、Rayの読者層に占める、ミャンマー人の割合が限りなく0に近いのではないかと思うからである。つまり、ミャンマーマーケットに向けた商品を送り込んでも、そう言ったマーケット自体が国内に無いので売れないのである。これは、「Ray」にミャンマー語版がないことからもうかがい知れる。

しかし、もうすでにベストコストパフォーマンス賞を与えてしまった後であり、あまつさえ副賞として購入されることを告知してしまっているため、いまさらこれを反故にするとなると、それはそれで社会に与えるインパクトが大きい。それに、「Ray」のライバル誌たちも、こぞって秋特集を展開させている。乾季特集はない。

で、結局「Ray」をスーツケースに忍ばせ、ミャンマーに向かった。

調査初日、調査カバンに「Ray」を入れ、調査へ向かった。現地協力者と久しぶりに再会したのではあるが、違和感が。その違和感の所存を探索すると、それはすぐに判明した。ジージージョーがいない。「なんだ、初日からいきなり遅刻かぁ。ええ根性してはんなぁ」と思っていたのですが、ほどなくして調査隊は、ジージージョーを置き去りにして、調査へ出発と相成った。

こりゃ薄情じゃねぇか?と思い、大学院生に、ジージージョーはいつ来るか聞くと

「えーっ、先生知らなかったんですか?ジージージョー今回、来ないんすよ。フェイスブックで連絡あったじゃないですか」
と言う。

...まじか。どうやらジージージョーはフェイスブックなる未知で異次元の連絡方法で調査に参加できないことをすでに告知していたらしい。大学院生よ!あなたの役割は、異次元の連絡方法で得た情報を伝統的な連絡方法(口頭での伝達)に変換し、私に伝えることである。

こうなると、宙に浮いてしまったのが「Ray」。調査協力者で女子を探すと、50に差し掛かろうかというご婦人がいらっしゃる。「まぁ、いいか」という安易な理由で「Ray」をそのご婦人に貢ぐことにした。

ご婦人は、「なんで私に?」といぶかしげるそぶりも見せず、素直に「Ray」を喜んでくれた。いいことしたなぁ、という満ち足りた気持ちでいっぱいになった、

アディオス!

2017年10月17日

件名 職業訓練について

昔から、餅は餅屋、なんていうように、仕事を頼むなら、それを専門する人に任せるのが一番であり、それほど専門職に従事する方、つまり職人の技量は素晴らしいことを示しており、常人がそれを目の当たりにしようものならば、その洗練された腕前にほれぼれさせられ、これは、昔も今も変わらないのである。

で、最近、そう言った職人技に完膚なきまでに魅了されてしまったので、その体験をお分けしようかと思う。

運動会シーズンのたけなわの頃、下の娘は運動会で踊る踊りのマスターに躍起になっていた。で、学校での踊りの練習だけでは不十分と判断した娘は、おうちでも踊りの練習に努めたいのではあるものの、そのためには踊りの音源を入手しなければ、どうにも盛り上がりに欠けてしまい、踊りに身が入らないのだと言う。

確かにこれは一理あり、まっとうな主張である。しかるに、踊りにはそれ相応の音楽が必要であり、音楽と踊りが同調することで、我々は踊りと音楽の本当の喜びを知るからである。これは例えば、盆踊り等々のすべての踊りに共通することであり、無音で踊り狂うというのは、あまりポピュラーではない。

「よっしゃー、パパが音楽を手に入れてやるから、安心しんさい。で、なんて歌なん?」

と娘に聞くと、娘は、歌の名前は存じ上げないという。ただ、歌を特定するいくつかのヒントは持っており、それは、「ドラえもんの歌である」と「365日、つまり1年の日々をうたいつづっていること」である。そこでもう少しヒントを引き出すために、娘に

「試しに一節歌ってみんさい」

というと、娘は恥ずかしがりながらも、

「さーんびゃくろくーじゅうごにちー、いつでもー、いけるさー」

と歌ってくれた。なるほど、365日、1年をつづった歌であることがわかった。365日いつでも行けることから、年中無休、つまりコンビニ的などこかに行ける、という歌であろう。さすれば、「ドラえもん 一年 歌」 でヤホーで検索すれば一発である。

そこで、実際にヤホーでの歌の特定作業に入ったのだが、全然見つからない。娘は、「さっき「安心せい」なんて言っておきながら、このおっさん、ほんと、使えんなぁ」、とは全く言わないけど、そういう顔をしておった。

完全に追い込まれた私は、助けを求めることにした。一人で考え、行き詰まった場合、大概、誰かに相談すれば難なく解決できるのである。ただし、ここで一番の問題は、ふさわしい相手に相談することである。

もちろん、ふさわしい相手とは、それ生業としておる人。つまりこの場合は音楽の玄人、すなわち音楽職人である。私はまごうことなく、最寄りのレンタルショップに向かった。娘を連れて。

で、レンタルショップ店員に「ドラえもんの挿入歌で、1年の日々をつづった歌を探しているのですが、心当たりはありますか?」と聞き込み調査を敢行した。調査対象となったのは、まぁまぁ若めの女の人だったが、客商売にしては、すこし愛嬌というか、愛想が足りない感じの人であった。

しかし、意外にもその女性は「残念ながら、思い浮かびません。ほかに情報はございませんか?」とけっこう親身になって相談に乗ってくれるのである。そこで娘に、

「歌え。今、歌えや。家で歌ったの、今歌え。」

と小声かつ低めの声で命令したのではあるが、娘はこともあろうか、この場で歌うことを断固として拒否しよった。最高のヒントになろうものを。。。そこで、腹をくくり、私が歌うことにした。私の歌声は、意外にも悪くない。で、娘がおうちで歌った通りの旋律で

「さーんびゃくろくーじゅうごにちー、いつでもー、いけるさー」

と、歌うと、歌い終わるかどうかのタイミングで、その女性は、

「お客さまっ!うけたまわりましたっ!」

と言って、CDを探しに店内に消えていった。そしてほどなくして数枚のCDを手にした彼女が戻ってきた。

彼女が言うには、その歌はほぼ間違いなく、miwaという人が歌っている歌であり、映画の主題歌になったがため、多くのCDに収録されているという代物で、例えばこのシングルCDでは、いくつかのバージョンが楽しめるだけでなく、なんとカラオケまでもたしなむことができるという創意工夫がなされている、とか、こっちのアルバムは、その歌自体は1曲しか入っていないが、それ以外の映画の挿入歌も網羅されている、とかいった類の、それぞれのCDの差別化される特色まで説明してくれる。

その説明を聞くにつれ 彼女の音楽に対する造詣の深さに打ち震え、知らない間に涙が頬を伝ったのである。これぞ、職人。これぞ、玄人。

娘はほしかったものが手に入り、始終ニコニコしておった。二人でお礼を申し上げると、この女性は、最初の不愛想な感じに戻り、そそくさとほかの業務に移っていった。まさに絵にかいたような、想像通りの職人であった。

日本には、職人がいる。頼もしい職人がいる。こんな素晴らしい国に、生まれ育ち、本当によかったと思いながら、娘とニコニコしながら、帰路についた。

なお、うちについてからCDを聞くと、店員の見立ては激しく正しく、娘がほしがっていた曲そのものであったのだが、残念であったのは、その歌は1年をつづったものでなく、どこでも行ける、制約はない、という自由を歌ったもので、365日ではなく、

「さーんびゃくろくーじゅうーど、どこでもー、いけるさー」

と言うサビの、360度が正解であった。店員さん、よくわかったな。さすが、職人!

アディオス!

2017年10月17日

件名 職業訓練について(2)

360度の一件で、我々家族は、かの音楽職人の業に魅了され、かつ音楽に関する頼もしい見方を付けたわけであるが、彼女に再び仕事を依頼する機会が、こんなにも早く訪れるとは、夢にも思っていなかった。

年の瀬も迫ったころ、上の娘が冬休みを利用して、クラスのみんなとカラオケに行く、と興奮気味になっている。カラオケ好きなんだ。

で、娘は、カラオケでぜひとも披露したい曲があるのだが、一発本番で披露するのは勇気がいるので、万全の準備をしたうえで臨みたい、と言うのである。

これは本質を突いた、全く素晴らしい考えであり、学会でプレゼンをするときなども、なんとなく話の流れだけを頭に入れ、「細かい説明はまぁ、何とかなるでしょ、プロだし」位な軽い気持ちで臨んでしまうと、必ず失敗する。

この失敗は、プレゼンター本人は気づいていないという質の悪いものだが、プレゼンターは話の流れをわかっているので、たとえ、ところどころつっかえつっかえでも「まぁ、全体としては意図は十分伝わったはず。よくやった、俺。」という気持ちになっちゃうのである。

ところがその実、聴視者からすれば、予め話がどのように展開するかわからないわけだし、話がどのように進むかわからない時に、細部の説明が不十分、というか洗練されていないと、後者のほうの咀嚼に時間がかかり、その理解に心を奪われているころには、肝心の全体の話がどこに行っているのか全く見えなくなり、プレゼン終了時頃には、「いったい何の話したん、あいつ?」になっているのである。当然こうしたプレゼンをした場合、聴視者は「何だったんださっきの?はい、次、次!」となってしまい、かのプレゼンは記憶の片隅にも置かれないのである。つまり、「大体の流れを抑えるだけ」では全然、準備不足。

聴視者は、立て板に水のプレゼンを聞いたときはじめて、流れと細部を理解することになり、これを持って初めて議論が深まり、ディシジョンが作られるのである。つまり立て板に水が、プレゼンにおける最低条件なのである。

なので、娘の万全の準備には全く同感であり、ここはぜひ、「万全の準備の末、大成功を収めた」という成功体験を積ませ、彼女の成長につなげたいと願ったのである。

「よっしゃー、パパが音楽を手に入れてやるから、安心しんさい。で、なんて歌なん?」

と、どこかで聞いたことのある質問を上の娘にぶつけると、上の娘も歌の名前は存じ上げないという、やはりどこかで聞いたことのある返事。どいつもこいつもなぜにうちの子は歌の名前を覚えない?

ただ、歌のフレーズは知っていて、それは

「ざーんーこーくな、こどものように、しょーおーねーんよ、なれっ!」

であり、最後の「なれっ!」の部分が、「オレッ!」みたいな、闘牛感有り余る勇ましい感じで、確かに歌いたくなる一曲である。歌詞に目をやると、少年に残酷な子供に成長するよ仕向ける歌であるようだ。ただ、なぜそう仕向けているのはここからだけではその真意、メッセージはわからない。

この情報から、私はヤホーで検索することはもうしない。だって僕には職人がいるんだもん。

で、上の娘を引き連れ、あの職人が待つレンタルショップに足を向けた。

レンタルショップのカウンターを見ると、あの女性はいない。代わりに結構ご年配の男性が、彼女と同じ服を着て立っておる。店長だ(本当は店長かどうか知らぬが、店長と言うことにする)。

店長の実力は知らないのだが、店長となればその力は絶大であり、あの若めの女性でさえあれだけの力を持っているのだから、業務経験を彼女の何倍も積まれた店長の実力はまさに天井知らず。本気を出せば、地球を滅ぼすほどの力を持っているにちがいない。いや、持っている。

で、店長に娘が曲を探している旨を伝え、それは、

「ざーんこ、、」

と歌おうするや否や、店長は、

「お、お客様、歌われても...ちょっと...」

と、私を制止するのである。まさかの展開である。

「いや、大丈夫だって。娘が言うには、結構有名な歌だっていうし、私、結構音楽に疎いから知らんだけで、店長なら知ってるって、絶対!」

と慰めながら、「私、店長ではございま...」と、口ごもっている店長の制止を振り払い

「ざーんーこーくな、こどものように、しょーおーねーんよ、なれっ!」

と歌い切った。特に、「なれっ!」の部分が上手に歌えた。

歌い終わり、上手に歌えたな、という結構な充実感とともに、店長のほうを見ると、店長の目は泳いでいた。口にこそ出さなかったが「だから言ったじゃん、歌われてもわかんねぇーんだよ」という思いが、その表情からうかがい知れた。

しかし、これは完全に何かの間違いである。地球を滅ぼす無尽蔵な力を持った店長なのだから、本気を出すまでもなく、CDを持ってきてくれるはずなのである。調子悪いのかな?いや、単に、聞こえなかっただけなのだろう。合理的に考えれば、それしかありえない。ここはいっちょ、大きめの声で、店長のために歌ってあげましょう、と、

「ざーんーこーくな、こどものように、しょーおーねーんよ、なれっ!」

と、今度はかなり大きめな声でうとうてみた。先ほど、店長のためなどと記述したが、実を申し上げるとそうした利他的な動機は結構小さい方で、本当は、一度目の歌唱での「なれっ!」の部分がずいぶん上手だったので、もう一度歌いたい、という利己的な動機の方が大きかったのである。特に「なれっ!」を。

2曲目を歌っても、店長は全く、CDを持ってこなかった。むしろ、「おいおい。また歌っちゃったよ。もしかして、もう一回歌うんじゃぁないの?」と言う感じで、さっきより困っておる。

すると、カウンターの向こうにある、バックステージにつながる扉が「バーン」と開いたかと思うと、聞きなれたあの声が!

「お客様っ!うけたまわりましたっ!」

よく見ると、音楽職人の彼女が、スーパーサイヤ人のように金色に輝きながら扉の向こうに立っていた。正確には金色には輝いていなかったけど、私にはそう見えた。

彼女はそう言うと、店内に消えていった。そしてほどなくして、結構ボロボロになった1枚のCDを手にした彼女が戻ってきた。

「その歌は、エバンゲリオンの歌で、娘さんが言うようにとても人気の曲です。ですから、このようにCDケースがボロボロになっていますが、聞くのには問題ありません。うちのお店には、これしかないのですが、これでよろしいでしょうか?」

と、丁寧な対応を見せてくれる。よろしくなくないに、決まっておる。それにつけても、彼女の音楽に対する造詣の深さ。彼女の能力。今回も結局それを目の当たりにし、感動に打ち震え、膝のガクブルが止まらないのである。、、、そういえば、店長はどっかに行って、もういない。

娘はほしかったものが手に入り、始終ニコニコしておった。二人でお礼を申し上げると、この女性は、不愛想な感じに戻り、そそくさとバックステージに帰っていった。休憩中だったのかな?

なお、うちについてからCDを聞くと、店員の見立ては激しく正しく、娘がほしがっていた曲そのものであったのだが、残念であったのは、その歌は、

「ざーんーこーくな、てんしのてーぜ、しょーおーねーんよ、しんわに、なーれ」

が正解であった。うちの子はどいつもこいつも、記憶が適当である。

アディオス!

2017年10月17日

件名 研究室内における音楽鑑賞について

研究打ち合わせ等の目的で、いろいろな先生の研究室にお邪魔することが多い。

お邪魔させていただく先生の研究室は、たいがい快適で、コーヒーが出てきたりすることさえある。

で、他人の研究室に訪問した際、特に気になることがあるのでここで白状しておく。

こういう快適な研究室には、非常に高い確率で、快適な音楽が流れておる。なんていうんだろう?いろんな音が複雑に混ざった音楽。たぶん、クラッシックと呼ばれているもの。

そういう現場に遭遇するにつけ、やはり研究室にはクラッシックだなぁ。ハンニバル・レクター博士も、クラッシックに合わせて、エアータクトを振っていたもんなぁ。インテリにはクラッシックだよなぁ。といつも思ってしまう。

で、早速、インテリを詐称する私は、自分の研究室に帰ってそれに倣い、講義で使う指示棒を持って、クラッシックを聞いたりするんだけど、全くもって心に響かない。こんなミュージックでは指示棒を振り回す気になれないのである。こんなんでのりのりになれるレクター博士の気が知れない。

私は、普段はロックを聴くのだけれども、ロックをレクター博士の文脈で言うと、女装した犯人が、愛してやまない飼い犬が危機的状況にあることさえそっちのけで、全裸で踊り狂う方の音楽であり、よく言えば陶酔を助長する、悪く言うといかれている方の音楽である。とは言え、私が欲しているのはクラッシックではなくロックなのである。断然。ただし、女装して全裸で踊っているかどうかは、ミステリアスな部分も少し残しておくほうが、知名度上昇の為には必要とも思うので、イエスともノートも言わないでおくことにする。

そうした経緯もあり、私の研究室では、クラッシックではなくロックがかかっておる。あまり大音響にならぬように気を付けているので、廊下には漏れていないと思うが、私の研究室に訪れたとき、ロックがかかっていた場合は、他の研究室でクラッシックがかかっていた場合と同じような気持ちでいてくださると、大変にうれしゅうございます。

アディオス!

2017年10月18日

件名 子育て支援について

下の子は、まだ小学4年生だというのに、せっせと塾に通っている。
まだ小学4年生だというのに、夜9時まで塾で勉強している。
あまつさえ、塾の先生からは、「復習が足りてない」と言われ、家に帰っても勉強せなあかん。一方、その頃の私はというと、踊りを踊り、それを上の娘に見せつけるなどして、極上の無駄な時間を過ごしておる。

で、夜9時に塾が終わってから小学4年生が一人で家に帰るのは不憫なので、迎えに行くことにしている。娘と違い、私は夜9時には、踊りを踊るなどの自由を満喫し、なんならば踊りを踊ることで十分忙しいのではあるが、「踊りを踊るがために、迎えに行くことができない」という理由は通らないであろうとの常識的な感覚も持ち合わせている成熟した大人でもある。

で、9時の15分くらい前には塾に着いているようにしているのだけれど、どうしても15分前には着いていないといけない理由があり、なぜならば私にはその15分の間にしなければならない重要なルーチーンがあるからである。いわゆる五郎丸。

で、そのルーチーンというのは、塾は結構街中の賑々しい、というか、まぁ人通りも多いところにあるので、近くにバーがあって、まだ9時くらいはそれほど混んでいないそのバーは結構開放感が全開で、全面ガラス張りになっていて、中の様子が伺えるしくみになっていて、そのしくみを利用して、バーの壁にかかっている大型テレビに映し出されるカープの戦況を確認することである。9時前ともなると、野球も佳境を迎えるころである。

ただ、バーの外からおっさんがバー内を物色する姿はおぞましいことはよく理解しており、そういう現実感覚・社会通念も持ち合わせた成熟した大人たる私は、あまり長く見続けると、叱責を買うことにもなりかねないし、そこまでに至らなくてもバーの従業員、お客様に不快なお気持ちを与えることにもなりかねないので、大概点数を確認するくらいで終わりにすることにしておる。それに、私にはまだやらねばならぬ別のルーチーンがある。

バー(のガラスの前)から塾にまで戻ってきた私であるが、紹介が遅くなって申し訳ないけれども、その右手にはボールネンドでもらったスモールトートが握られていて、その中にはなんと、縄跳びがはいっておる。なわとびる。

で、セコンドルーチンは、二重跳びをなるべく多く跳び続ける、である。調子がいいと、30回くらい跳べるのだが、30回も跳ぶと、跳んだ後、めまう。憔悴しきってへたり込んでいるときに、大概娘が塾を終え出てくる。直前の15分間に何があったか知る由もない娘は、憔悴しきった私の姿だけを見て、それまでの時間必死に勉強してきた自分とダブらせながら勝手に、仕事に勤しんでいる理想の父親像を描いてくれ、うるんだ目で
「疲れている中、迎えに来てくれて、ありがとう」
などと言ってくれる。二重跳びなんだけどね。

ただ、娘の解釈は誤っているものの、自分にとっては都合のいいものであるため、卑怯で汚れた魂を持つ私は、あえて訂正することはなく「まぁな、気にするな」とだけ言って、いっしょにお家に帰る。

実はこの後、お家に帰るまでに、別のルーチーンがあるのだが、みなさんも、おなかがすいたころだろうから、今日のところはこれで勘弁してあげます。

アディオス!

2017年11月09日

件名 子育て支援について(2)

娘と塾から帰る途中、大概、娘のほうから
「で、今日は行くん?」
と聞いてきよる。私としても、彼女が早く帰って復習しなければならない身であることは重々理解しておるのであるが、「帰って復習するんだったら、と言う条件付きで(まぁ、この条件は、毎度のことだが反故にされるのだが)、行くのを認めよう」とつい答えてしまう。行ってはいけないと分かっていながらも、行かずにはいられない。親子が向かおうとしているのは、それぐらいの魅力が放たれている場所なのである。

で、この親子をひきつける魅力を放ちまくっているのは、公園である。公園というか、そこにある鉄棒である。サードルーチーンは、鉄棒。

娘が手に入れようと躍起になっているのは、"前方支持回転"である。まぁ、普通、前方支持回転といわれても、さっぱり分からないと思うので、それはヤホーで検索していただけたらと思っておる。

まぁ、そういってもヤホーで検索してくれない人もいると思うので、前方支持回転を平たく言っておくと、それは子供には結構難しめな技で、逆上がりの次に入手すべきスキルである。で、彼女はこの力を手に入れようと練習に勤しんでおるわけだが、そこには親である私も耳を疑う驚愕の理由が隠されておった。つまり

「小学4年生ではまだ誰も前方支持回転できないの。だから、私が一番にできるようになってやるの!」

である。エリート思考。これはエリートのみがもつことを許された考え方であり、もしかしたらそういう考え方があることはうすうす感づいてはいたものの、残念ながら自分の短からず人生の中で、自分はそんなエリート思考を一度たりとも思いついたこともないので、そういったものは、仮想的な、いわば机上の空論で、遭遇することもほぼない、幻の思考だと信じ込んでいた。

その幻の思考を、まごうことなく娘が口にしたのである。つまり、娘は自分がエリートであること自ら声高らかに言明しているわけである。それを聞くにつれ、父親である私は決して親ばかではないのだけれども、「自分の娘がエリートである。とうとう身内に、しかも子供にエリートが現れた」という事実に打ち震え、その頼もしさに心のどこか深い部分が熱く燃え上がり、もう、もうどうすればよいかわからなくなり、鉄棒の隣にそびえ立つジャングルジムに駆け上がり、ロッキー気取りで両手を挙げながら、娘の名前を「エイドリアーン」っぽく叫ばずにはいられなかった。夜の9時過ぎに。

娘の名前を叫び続けることで、心の平静をとりもどす、というか、まぁ、少し落ち着いてきた私は、娘が何をしておるのか多少気になり、ジャングルジムの上から見下ろしてみたのだけども、どうやら娘はジャングルジムで大騒ぎをしている父親を尻目に、せっせと前方指示回転の練習をしておる。さすがエリート。

で、まだまだサードルーチンは続くのですが、もうそろそろ大学に着くので続きはまた別の機会でということにしたい。

アディオス!

2017年11月09日

件名 子育て支援について (3)

サードルーチンたる前方支持回転であるが、娘は結構惜しいところまでできている。最後に体を持ち上げられれば完成である。しかも、全く成功の兆しが見えないわけではなく、数回に一回は成功できておる。まだ、失敗のほうが断然多いのであるが…。

で、ここで私が問われているのは、父の真価、つまり父親の威厳が発揮できるかということである。父親の威厳というのは、「お父さんすげぇー」という感じが、もうちょっと盛られた感じのあれで、その厄介なところは、「今、通り過ぎて行ったの見えました?あれ、あれが父親の威厳ですよ」とか、「今触ってるとげとげの、何かわかります?それ、父親の威厳ですよ。ちくちくしますねぇ。」みたいな感じで具体的には示しがたい、曖昧模糊としたところ。

とはいえ、父親の威厳が存在しないかというと、そうでもなく、そうとしかいいようのない気持ちを私たちが持っているのも事実である。ただ、問題なのは、この威厳とやらは、姿かたちを変えて具現される変幻自在なものであり、さらには、同じ行動をとったとしても、「あの父の場合は威厳になりますが、ああ残念、この父の場合は全然威厳ではありませんね」という父デペンデントな不安定さも併せもつという代物であるところ。願わくば後者のお父さんにはなりたくないのであるが、父の威厳(いげん)れるかどうかは、要するに、いかに効果的なタイミングで、父の威厳れるか、につきるのである。

で、この場合、父の威厳をうまく醸し出すためには、的確な助言を与えるなどして娘に前方支持回転の力を取得させる手助けをすること他ならない。さっきから、「思いっきり頭をぶん回せ!」とか、「最後に手首を返すんじゃ!」とか、まぁ助言的なことは言っておるが、なかなかすぐにうまくできるようにはならない。

それもそのはずで、こういった力は、教わり、シンクしてわかるものではなく、体が覚えるもの、フィールするものである。とはいえ、助言などくその役にもたちやしない、という乱暴なことを言っているわけではなく、むしろ助言は有益なものであり、助言を咀嚼しながら試行錯誤し、何度か失敗・成功をするうちに、体の使い方のチューニングが施され、やがては会得するといった類のものだからである。

さて、娘に何かを会得させる場合は、言って聞かせるという方法もあるかもしれぬが、見せてみる、というのも効果的である。そこで私は、新たな次元の措置に入ることとした。つまり、やって見せる。「とりあえず、見ときんさい。わしが今からグルングルン回ったるけぇ、グルングルん回るところを、見ときんしゃい」と言い、試技に入った。

鉄棒をつかむと、心がざわつく。「できんのかなぁ、わし?」という不安な気持ちがこみ上げよる。…心配なことなどあるかい!簡単である。いや、簡単なはずである!先ほどから娘に言い聞かせてきた助言を体現するだけである。まずは頭をぶん回す。

意外に、ブーンという風が切れる、低めの音が聞こえる。キョワイ。

で、最後は手首を返す。

意外に簡単に前方支持前転れた。なんだ、簡単じゃねぇーか。

さすれば、ここが、父の威厳の出しどころということになる。父の威厳を発揮するには、前方支持回転を畳み掛ける、が正解。一息も入れず、二回目の試技に入った。そして今度はグルングルンと回り続けた。

二回転もすると、頭に血が上り、半官器官もいかれ、なんとも形容しがたい感覚となる。と同時に、冷静かつ客観的に自己を点検する自分もおり、その自己点検によれば、ただ今私、父の威厳を全開にスパークさせ続けているわけであり、これはまさに自分が描く最高の父親像で、私がそれを具現している真っ最中であると思うと、今まで感じたことのない充実感がとめどなく湧き出し、たちまち充実感の波、海にもまれ、飲み込まれたしまった。こうした充実感におぼれる状況は経験がないのだが、いざなってみると、いろいろな感情がほとばしり、情緒がコントロールできない。すると本当に、本当に不思議なんだけど、腹の奥から自動的に

キョキョキョー

と、今まで出したこともない高めの笑い声が発されのるではないでしょうか。まぁ、不思議。それに発しただけでなく、もう止まりません。いったいどうなってしまったのでしょう、お父さん。

さてこの状況を、冷静かつ客観的に再点検すると、父の威厳を全身から放ち、虹色に輝きながら、けたたましく高めの笑い声を発し、前方支持回転し続ける俺。夜の9時過ぎに。

他人が見れば、地獄の餓鬼も、裸足で逃げ出すおぞましさ。しかし、娘は違う。父の威厳の毒気を、ただ一人、余すことなく一身に受け続けている。

確かに娘は数回転目までは、ぽかんとしておった。しかしそのうち、目を潤ませながら、手を叩きはじめ、そして今なお叩き続けておる。見たか!これが父の威厳!楽しんだか!父の威厳!

鉄棒からはじけ飛ばされ、時よりまだ「キョッ、、、、キョッ、、、」っと断末魔の声を上げながら、地面に横たわる父に、娘は手を叩きながら近づき

「パパすごいね。私もパパみたいになりたい」

と素直な感想を漏らしよった。父の威厳。父の威厳。父の威厳。

しかし、一つだけ気になることがあるんだけど、パパみたい、っていうのはいったいどの部分をさしているのだろう?願わくば、キョキョキョーと高めの声を発している部分でなければよいのだが。

アディオス!

2017年11月09日

件名 新刊紹介 「絵でわかる 進化のしくみ」

本日、拙著、「絵でわかる 進化のしくみ」が講談社から上梓されました。進化・種の誕生・種の絶滅をキーワードにしたためました。

本書は、私が広島大学で10年以上担当している「種生物学」という講義をもとにしたものです。講義をするたびに内容を少しずつですが洗練させていきました。ですから本書は私にとって、10年以上かけて少しずつ書き込んでいった下絵に、丁寧に色を塗っていった、という感じのものなのです。

教養課程で開講されている講義ですから、特別な知識がなくても読み進められる内容です。とってもおすすめの本ですから、ぜひとも読んでいただけたらと思っています。

さて、本書の内容の一部には”ボツ”にしてしまったものがあります。私的にはなかなかよく書けていると思っているのですが、掲載に関して担当編集者とかなりの議論を交わし、紆余曲折を経てボツにした部分です。実を言うと、最終的には編集者にも納得してもらい、「ゴー」をいただいたのですが、人の心は裏腹で、いざゴーをいただくと、「本当にゴーでいいのかな?」という天邪鬼な部分が出てきてしまい、結局自ら取り下げてしまったのです。

ドフリースの突然変異説を説明するときの挿話にするつもりの文章でした。
それでは、読んでください「余談:映画『エックスメン』のミュータント」!!!


余談:映画『エックスメン』のミュータント
ドフリースの突然変異説の話をするたびに、私はSF映画『エックスメン』を思い出します。荒唐無稽なのそのストーリーをたどると、人の中にごくまれに超能力を持った個体(映画では、この人たちは「ミュータント」と呼ばれている)が現れることから始まります。このミュータントは、葉が大きいとか葉が長いとかいったレベルの変異どころではなく、空を飛ぶとか嵐を呼ぶとか言った類の派手な能力を獲得しているので驚きです。そして、ざっくりとまとめると『エックスメン』は、こうしたミュータント同士や、ミュータントと人が戦うSF活劇です。実は私はこの映画が大好きで、ちょいちょいのタイミングで見返すのですが、優性思想などの重いテーマが込められていて、考えさせられます。
この映画に悪役としてよく登場する(つねに悪役というわけではありません)、マグニートというミュータントは金属を自由に操れます。金属を自由に操れるといっても、鍛冶ではありません。まぁ、一度ぜひ一度『エックスメン』を見て、彼の能力を確認してみてください。で、私はひそかにマグニートに憧れていて、ときどき彼になりきって遊んでいます。とくに、夜中に疲れきって仕事から帰ってきたときに、マグニートに変身しがちです。私はマンションに住んでいるのですが、エレベーターのドアの開閉に合わせて、あたかもこのドアはマグニートである私が超能力で開けているんだぞ、という感じで手を大きく動かすのです。エレベーターは金属で出来ているので、マグニートならばその動きを掌握できます。観音開きの一1号エレベーターの場合は両手を広げ、片開きの2号エレベーターでは右手だけを動かします。乗り込んだ後は、ドアを閉めるのも私の超能力のおかげですよーってという感じで、今度はさっきの開けるときとは逆の動きをします。ドアの開閉と手の動きがシンクロした時は、自分が本当にマグニートになれたような気がして、ちょっとした快感ひとしおです。
しかし、幸せな時はあまり長く続かないのが世の常です。ある日、落とし物かなにかの理由で、マンションの管理人室に行かなければならないことが起こりました。そして、私は管理人室で驚くべきく事実を目の当たりにしたのです。エレベーターホールおよびエレベーター内に、何やら防犯カメラ的なものが付いているなぁ、ということは常々認識していたのですが、それが本当に機能しているのかどうかは定かではありませんでした。しかし管理人室のモニターには、その映像がしっかっと映し出されていたのです。
映画『エックスメン』では、ミュータントは自分の能力を隠し、ひっそりと暮らしています。その能力がバレた日には、人々が怯え、過剰に反応し、終いにはミュータントがいじめられるからです。もし管理人が、私の洗練されたマグニートのふりを見て、私を本物のマグニートだと勘違いしたら、せっかく購入したこのマンションに住めなくなる、いやそれ以上の騒ぎに発展するかもしれません。幸いにも管理人は私のマグニートぶりに気づいてはいないように見えましたので(彼が心理戦をしかけている可能性もありますが)、これを期に私はマグニート(のふりをする)能力を封印することにしました。


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2018年03月02日

件名 模造品・偽物に対する注意喚起

おっす!おら、悟空!

嘘である。私は悟空ではない。今回はなぜ私が嘘をついたのか、事の顛末を白状しよう。

うちの娘はドラゴンボールが好きで、土曜の夜には私の寝室に来て、
「明日の朝は8時55分に起こしてほしい」
と、目覚まし時計(=私のこと)をセットする。8時55分とはつまり、ドラゴンボールの開始5分前だ。ドラゴンボールは見逃せられない、しかし、日曜くらいは寝坊したい。このせめぎあいのギリギリの線が8時55分なのである。で、目覚まし時計(=私)は、この時間には起きて、家でグダグダしておる。

で、まぁ、お望みどおりに起こしてやるのだが、この前なんかマラソン中継のためドラゴンボールが中止になっていたことがあり、それを目の当たりにした娘は、「また一週間ドラゴンボールを待たなければならないのか!」と泣き崩れ、それを見るにつけ私は、「こんなに夢中になれることがあって、うらやましいな」と思い至るのであった。

こんな娘であるが、私の色眼鏡を通してみると、毎日結構頑張っているように見えるのである。まぁ、朝起きて、学校に行って、学校から帰ってきて、勉強して、寝る、の繰り返しなのであるが、それだけでも、親からすると「がんばってはりますなぁ」に見えてしまうのである。

で、常々そんな娘に何らかのご褒美を与えたいと思っておった。ご褒美をもらえたのならば、娘もきっとお喜びになるに違いない。しかし、ものを買い与えるといった類の経済力は、残念ながら私には備わっていない。そこで、お金がかからないご褒美の内容について思いを巡らしていたのだが、つい先ほど思いついたご褒美が、「父親が突然、悟空になる」というものだった。

もちろん、私はスーパーサイヤ人どころか、普通のサイヤ人ではないし、かめはめ波すら撃てない…まぁ、かめはめ波が撃てただけでも大変なことではあるが…しかし、努力次第では悟空っぽく話せるようにはなれるかもしれない。もし、父親が悟空っぽく話せたら、娘のテンションもうなぎ上り、滝だって登り切るに違いない。

で、「いつやるの?」のタイミングであるが、実は私は今、海外出張の身。もし、もしである。帰国した父親が実は父親ではなく、悟空だったら…娘は興奮して死んでしまうに違いない。出張期間中にマスターするしかないのである!

で、これを受けての先ほどの「おっす!おら、悟空!」の詐称なのである。いや、正確には詐称ではない、悟空になるための修行なのである。さて、ここで問題なのが悟空たる私に次に何を言わせるかである。熟考、長考の末、持ち時間いっぱいで思いついたのが、

「おっす!おら、悟空!○○ちゃん(娘の名前)のやつ、ちょっとみねぇ間に、すげぇ気が上がってるなぁ。おらぁ、ぶったまげちまったぞ。フリーザよりでっけぇ気じゃねぇのか!?次回、ドラゴンボール○○(娘の名前)!○○(娘の名前)数学で赤点を取る!?ぜってぇ見てくれよな!」
だ。

実際、出張中だってメールでつながっているのだから国内対応の仕事も来るし、もちろん海外にいるのだからここでしかできない仕事、つまり調査、会議、プレゼン、講義、加えてそれらの準備も残されている。準備の方は準備を全くせずに出張に飛び出した賜だ!これらの合間を縫って悟空になるための修行をするのはかなり大変なのであるが、なり切ってやる!!悟空の偽物に!

…こんなに気合が入っていたのに、もうすでに帰国日。もちろん、悟空には寄せきれていない。いわば、全くの別物だ。最初の自己紹介がなければ、「はて?」となることが間違いないレベルに仕上がっている。とは言え、もう修行をする時間は残されていない。一年後に来るって言っていたサイヤ人が思ったより早く地球に到着してしまった感じである。

仕方がないので帰宅に合わせて腹をくくり、
「おっす!おら、悟空…」を玄関で娘に披露したのであるが、マレーシアでありえないほどに刈り上げられた髪形をじっと見つめながら、彼女は一言、
「出張中に、何があったん?」
とだけ、ぼそりといいよった。

アディオス

2018年03月19日

件名 お弁当および昼食について

お昼は生協で食べることが多いの。いわゆる学食。

で、時々のタイミングで味噌汁か豚汁かを選べる日が出現するのであるが、本日がまさにそれであった。

生協には、様々なバリアーやストレスをフリーにする画期的な工夫が施されている。生協におけるバリアー・ストレスといえば、例えば漢字が読めない人にとっては注文自体がそれにあたり、つまり、「棒棒鳥豆腐」の写真を見て、「ぶちうまそうじゃのう。わしゃぁこれを食べたいのお」と所望したとしても、漢字が読めないとなかなか頼みつらいものであり、よしんば、「ボーボーどりまめぐさり」と注文しようものなら、カウンターのうら美しいお嬢さんに「はい、バンバンジーとうふですね」と、さり気に訂正されて、ばつが悪くなってしまうのである。

で、生協にはそうならない素敵なしくみがあり、つまり、メニューには写真と共に漢字名およびルビが振られており、ルビのほうを朗読することで、注文者がこの難局を乗り越えられるようになっているのである。例えば、「店長本気か?の激辛プリン」(分かりやすく例示するため、メニューを捏造しました。このメニューはイメージで実在しません)には、「てんちょうまじか?のげきからぷりん」とルビが打ってあるといった具合だ。

さて、豚汁に話を戻そう。豚汁を注文するとき、私は一瞬であるがそれを躊躇した。つまり、21世紀においてさえも未解決のまま放置された、ブタ汁かトン汁か問題に直面してしまったのである。メニューにはでかでかと「豚汁」と書いてある。しかし、ここでの問題は漢字表記ではない。問題の所存は豚を音読むか、それとも訓読むかだ。そんな時はほら、よく目を凝らしてごらん。きっとルビがふってあるよ。正解がそこに書いてあるよ。…そこで、メニューをよく見ると、やはりそこにはしっかりとルビが振られ、はっきりと「ぶたじる」と書かれておった。なるほど、生協での正解は「ブタ汁」だ!!

このルビを確認し、勝利を確信した私は、明るく朗らかに、「ブタ汁ください」と注文した。すると、どうでしょう?こともあろうにカウンターの向かい側から「はい、トン汁ですね」とのご返信である。私はこの返答を聞き愕然としたのではあるが、同時に彼は私の“ブタ汁”を訂正したわけではないことも承知していた。彼の行動は、私がブタ汁=トン汁という認識を持っていることを前提に、あなたにとってのブタ汁は、わたしにとってはトン汁であり、あなたが注文したブタ汁たるトン汁は、しっかと私の耳に捕捉され、いまから私にとってのトン汁をよそりよるよ。よろしおすな?という、味噌汁じゃないほうの確認作業に過ぎない。

それは分かるんだけど、全くの誤解をすると、「おにいはん、また豚汁のことをブタ汁って呼んではりまんの?私なんか、小学生の頃からトン汁でしたよ」とディスられているようにも聞こえてしまい、さすれば、これに対し「俺は別に俺のブタ汁に誇りを持っているとか、どうしてもブタ汁じゃないといやだとか言う輩ではなく、どちらかと言うとぜんぜんブタ汁でもトン汁でもよかったんだけど、生協が正解がブタ汁ってルビってるから、生協に合わせてやったのに、その挙句が、その挙句がトンくぅわぁ!!!」と、気持ちがすさんでいくのが道理というものでしょう。…曲解なんだけどね。

事の顛末をすぐ後ろで見届けていた大学院生は、「トン汁ください」と涼しい顔で注文し、なんなくブタ汁をゲットしていた。私は心の中で「トン汁ちゃうやろ、お前も、『ブタ汁』って言うところやろ」と思っていた。大学院生は、私がご乱心なことを察知し、「いいじゃないですか、味噌汁が出てきたわけじゃなくて、トン汁が出てきたんだから」と慰めてくれたのだが、これに対してさえ私は、「そこもトン汁ちゃうだろー!ブタ汁だろー!」と言いそうになるくらい追い詰められていた。ただし、乱暴な物言いは学びの舎には適さないので、慎むことにしたのではあるが...。

席に着き、豚汁を食べてみると、いつもより具がぜんぜん多くて、それはもう筑前煮に迫る勢いで、とってもおいしかった。幸せな気分の中、「まぁ、ブタでもトンでもどっちでもいいよな。なんなら、筑前煮でも全然OK」と思っていた。

今回はいつになく社会派でしたね。

アディオス

2018年03月30日

件名 ハイパーサイエンスクリエイター(HSC)事業採択のお知らせ

いつの頃からだろうか、メガネをかけ始めたのは……

こう書くと、悠久の昔からメガネをかけていることを想像されるかもしれないが、実はたいしたこと無いくらいの昔で、4~5年位前の出来事だったはずだ。目が悪くなってしまったのだが、視力が落ちたのは老眼のせいだった。老眼はメガネに頼るかなり前から始まっていたのだけれども、まぁ、基本、離れれば見えるくらいの窮状で、離れることで対処できていたのだが、その頃には10m位離れなければ見えないくらいになっていて、新聞を読むのも、本を読むのも、オブジェクトから10m離れて行うのはとかく不便であり、で、老眼鏡の世話になることを決意したのである。たぶん、4~5年前に。

それが生まれて初めてのメガネ作りだったんだけども、生まれてから40年以上もメガネをかけていなかったがため、メガネをかけている自分にどうしても馴染めず、メガネ屋さんで試しにかけるどんなメガネに対してもことごとく、「なんだか変っぽい感じがする」、と自己評価を下してしまい、店員さんに向かっての「このメガネ、変だね」を連発し、最終的には店員さんに「変なのはメガネじゃなくて、お前の顔だぜ」という表情を作らせるまでに至っていたのであった。

どうしても納得できない己のメガネ顔に対して、結局は、メガネはかけているんだけど、なんとなくかけていないように見える、ふちなしで、かつレンズが小さめのメガネをこしらえてしまったのである。今となっては消極的であったと反省をしている。

で、その老眼なのだが、老眼鏡が無ければ手元のものが全く何も見えないくらいまで進んでいる。近くのものを見る場合は老眼鏡をかけるわけなのだが、とはいえ、老眼鏡をかけたままでは遠くのほうがぼやけてしまい、「歩く」などの基本動作をすることさえままならないので、近くを見るときは老眼鏡をかける、遠くを見るときはそれを外すということを慌しく繰り返すことになっていた。

で、この繰り返しの動作が特に大変なのは講義のときで、手元の資料や学生名簿を見るときは老眼鏡をかけないと見えないし、学生に向かって話しをするときは老眼鏡をかけたままだと学生の顔がぼやけるし……結果、忙しく老眼鏡の着脱を延々と続けないといけないのである。

ただ、講義中はかなり必死なので、自分が老眼鏡をかけたり外したりしていることにさえ気が向かないほど集中しておる。よって、つい最近まで、自分がメガネを使って、落ち着きのない自分を演出していたなど、よもや思わなかったのである。

で、それに気がついてしまったのは先だって行われたインドネシアのITBでの講義で、国外で、外国語で行われたこともあいまって、私のてんぱり具合は半端なく、「みーなさーん。見ーてくーださーい。このおっさーん、いっつもより多めに付け外し、しーてまーすよー」の如く、景気よくメガネを着け外しし続けていたのである。

もちろん、講義中はメガネの着脱のことを気にする余裕など無いのだけれども、ITBが勝手にアップしやがったユーチューバーを帰国してから見返すと、せわしくメガネを着脱する自分の姿があられもなく全世界に向けて拡散されていたのであった。炎上しないのが不思議なくらいである。

で、本来ならばまず先に、「この英語、みっともなくない?」と感ずるべきところを、「メガネの着脱、みっともなくない?」と猛省してしまい、いつ、なんどき、どんな相手でもかけ続けられるメガネの購入に踏み切ったのである。いわゆる、遠近両用。

レンズは決まった。で、問題はフレームである。今回は前回の失敗の二の轍は踏みたくない。つまり、主張するフレームがほしいのである。メガネが独り歩きするような、コナンがかけているような、「あいつ、実は本体メガネじゃなーい?」と思わせるようなメガネがほしいのである。

で、メガネ屋さんに行き、値段を考えずに一番とんがっていたフレームを選び、レンズ込みの見積もりを依頼すると、なんとそれは4万円を軽く超えており、予め予算は決めていなかったものの、それは際限なく金を支払うという態度ではなく、いったいメガネが幾らするのかさえ想像もしなかったので具体な予算が建てられなかっただけであり、とはいえ4万円オーバーは私のうすぼんやりとした予算範囲のはるか上を行っていたのである。

「こんなにしちゃうのか。とても買えないな」と言葉に詰まっていると、「他店さんと比べてもらえればお分かりになると思いますが、うちはかなり勉強しておりますので」と、これでもかなり控えめな値段であることを店員さんが伝えてくれるので、「それならば早速、他店さんと比べてやろう」と遠慮なくそのお店を後にしたのだった。

で、私が次に向かったのはコストコである。コストコには奥の方で目立ちにくいけれどもメガネコーナーがある。確かにある。

コストコのメガネコーナーにはフレームも結構盛りだくさんにそろえてあって、お気に入りのフレームもいくつか見つけることができた。で、そのうちで一番見込みのありそうなフレームを選び、レンズ込みの見積もりをいただくと、なんと先ほどの半額以下なのである!

で、購入に至ったメガネだが、自己が主張するタイプのフレームで、意識高い系の私にはおあつらえ向きの、平たく形容するならば、ハイパーメディアクリエイターっぽいのである。いや、業務内容からいって、私がかければハイパーサイエンスクリエイターだ!

で、先日からそのメガネをかけて、自慢げに廊下を闊歩しているのだが、廊下で私を見かけた際は、黙して、「あ、あれがHSC(ハイパーサイエンスクリエイター)か」と思っていただければ、たいへんうれしゅうございます。

アディオス!

2018年04月10日

件名 通学時における特別配慮について

日本には職人とも呼ばれるその道のプロがおり、そう呼ばれる人々の知識がいかに深いものなのかを堪能した経験をこのブログにしたためたことがあるのだが、深いのは何も知識だけではない。彼らの動きそのものも特筆すべきもので、一つ一つの動きが研ぎ澄まされていることは言うまでもなく、一つの動きかから次の動きへの移行も無駄がない。彼らの完全に洗練された動きの中にも、プロ・職人と呼ばれる人々のすばらしさを感じることができるのである。

こうした身のこなしは、「教えてもらう」、というのも重要なのだが、それよりむしろ、それをいかに体が覚えるかが重要であり、日々鍛錬される基本動作の繰り返しを経て、自然に身についていくという類のものであり、プロ・職人の身のこなしに達するためには、非常に長い時間を要する地道な努力が必要なのである。

で、私ごとで恐縮なのだが、もう、10年以上、電車+バス通学しているの。だから、名実ともに通学のプロ。通学に関する知識、身のこなしは人を感動にいざなうレベルに達しておる。

つまり、自分で言うのもなんだが、私の電車に乗る、バスに乗り換える、と言う通勤における一連の動作は洗練され尽くされ、全ての無駄が排除されている。例えば、15分に1本の割合でくる、通勤時間帯の電車の時刻は記憶され、それに最適化された時間に家を出る。下車駅のホームの階段の位置を把握し、下車時に誰よりも早く階段を登れるよう階段最寄りの扉に近い席をゲットする、等々の様々な工夫を、なんの無駄、無理のない身のこなしで行なっているのである!

本日も、なのであるが、誰も惚れ惚れしてくれないので、自分で自分に惚れ惚れしながら、無駄のない動きを続けて通勤を続けていた。

さて、私は、職人、その中でも超一流と呼ばれる人でさえ、時として失敗することを理解している。一流になればなるほど、超一流と呼ばれれば呼ばれるほど、彼らの動きはよりぎりぎりのラインを攻めるのであり、そしてこの動きこそが彼らを超一流と呼ばしめる所以なのである。

超一流が選ぶぎりぎりのラインは、通常成功することがありえないほどのハイレベルなのだけれども、なんと彼らはこうしたぎりぎりのラインをさえ難なくクリアしてしまうのである。こうした彼らの姿を見た、物事の難易度がよくわかっていない常人の中には、「あれって以外に簡単なんじゃねぇの」と錯覚してしまうものもいることだろう。もし、こうしたぎりぎりのラインを常人が攻めるものならば、ほぼほぼ確実に失敗し、「ほーら、言わんこっちゃ無いよ。じゃけわしは、むりだ、っちゅうたんよ」、と失笑を買うことになるのである。

しかし、しかしである。超一流であっても、非常に稀ではあるものの、ほんの小さな体調の変化や心的要因により、失敗することもある。ぎりぎりを攻めるが故、小さなズレが失敗につながるのである。

だからこそ、わたしはニシコーリがエアーkを失敗しようとも、内村航平が鉄棒から落下しようとも、わたしは彼らを責めたことがない。むしろ果敢に責めた彼らを褒め称えたいとさえ思ってしまう。つまり、結果ではないのである。我々超一流のレベルに達したものにとっては、いかにアグレッシブになれたか、が問題なのである。こうした気持ちは超一流同士のみが分かち合えるものだから、みんなには分かってもらえないかもしれないなぁ。

で、本日の通勤なのだが、私自身が手痛い失敗をしてしまったので、事の顛末を紹介しよう。この失敗、常人なら失敗自体を悔やむこともあろう。しかし超一流である私。もちろん、アグレッシブになれた上での失敗であるので、後悔の気持ちなど、微塵もない。いや、むしろすがすがしい気持ちでいっぱいなのである。

大学最寄り駅に電車が着いた。この後、バスで座席をゲットしなければならないが、このためには、誰よりも早くバスに乗り込む必要がある。つまり、電車下車後は華麗さと速さの両方が求められるのである。頭でイメージしたとおりのライン取りで電車を下車し、華麗なステップシークエンスで階段を駆け上がり、トップ集団を形成しながらバス停に近づいていった。すると、バス停にはバスがもう既に到着しており、そのわさわさ感から、かなりの客が乗車しているのがうかがえた。どうやら、一本前の電車で駅に着いたお客様が結構な数、いらっしゃるようである。とっさに、「今日は乗客が多いな、うかうかすると座れないかもしれない。この先、コンマ一秒を争うし烈なレースになりそうだ」、と私はレース展開を予想した。

私は、小気味よく、二段あるバスのステップ第一段を上りながら、ここから先は常人(通勤通学初心者)にはできない身のこなしであり、かつ大変危険なので、決して真似をして欲しくないのであるが、なんとバス内を素早く見渡したのである!!つまり、ステップを登りながら、バス内を物色するという、同時に二つのことをやって見せたのだっ!!

すると、私は一席だけ奇跡的に残された空席を発見した。そして、

「あの席は、私がゲットする」

と心に決めた。
「狙った獲物は逃さない。それがこの俺、ルパーンしゃ〜んしぇ〜い」
気取りである。

しかし、獲物を抱くためには、誰よりも早く獲物に到着する必要がある。そのためにはパスピーをピッとして、そのままシームレスに座席方向に素早く移動する!と思った時、余計なことが頭をよぎった。

「このステップなければいいのにな」

するとまぁ不思議。まだ、2段あるステップのうち一段を上っただけに過ぎず、本来ならばステップをもう一段登る動作をしなければならないところを、そのままデェスティニーである空席方向へ次の一歩を踏み出しちゃったのである。これはすなわち、残された1ステップに蹴つまずくことを意味しており、当然、私は蹴つまずいた。

結果、私はバス入り口付近で派手に転倒し、いろいろなところに青タンを形成するに至った。バス内で、私の通勤を応援してくれているギャラリー、とくに入り口付近のアリーナ席のお客さんが、うずくまる私をかたずを呑んで見守ってくれている。

フアンを心配させるのは心外である。血豆った手でギャラリーに向かって手を振り、「まだプレイできる!」と私は気丈にアピールをした。本当はそんな状態ではないものの、心は、心はまだ折れていないのである!そう、私は通学のプロ。私は座席のルパーンしゃ〜んしぇ〜い。

目の前で転倒した知らないおじさんに、半笑いされながら手を振られたアリーナ席のお客様は、結構複雑な、なんとも言えない顔をしておった。そう、書きあらわすならば「なるべくかかわりあいたくないな」という顔であった。

ここで、私は我に返った。
「そうだ!席。席!席ゲットしよー!」
残り一つの空席方向に目をやると、目を疑う光景が!!

バスに乗り込むまで私の直ぐ後ろにおったお嬢さんが、ちゃっかり座っておるではないでしょうか。どうやら、うずくまっている時、上手くかわされたらしい。

バスが大学に着くまでの20分間、通路に立ちながら私は涙した。痛いのではない。ただただ、悔しかったのだ。ベストパフォーマンスを出し切れなかった自分の不甲斐なさが。多分この涙は、メダルを取ることが確実視されていた選手がメダルを取り損ねた時に流すものと、同じであろう。

アディオス!

2018年04月20日

件名 (お詫び)学内での発話について

私が寝る部屋はベランダにつながっており、ベランダに出るためには必ず通らないとならない“通路”の役割を担っている。ということはつまり、ベランダという楽園に通じる地獄の門の役割をも担っているのが私の寝室であり、そして、つまるところ私が地獄の門番。

ある夜、寝室でネットサーフィンしておったところ、上の娘が部屋に入ってきた。明日、プールがあるらしく、水着が必要なのではあるが、それは洗濯され、いまだベランダで干してあり、それをゲットするという目的での入室であり、つまり用があるのは私ではなく、ベランダの方である。

で、まぁ娘が部屋に入ることに関しては問題はまるっきりないのではあるが、問題があるとすれば娘の部屋への入り方である。

半開きだったドアが開いたかと思うと、娘が

「いきなり入ってごっめーん。まことにすみまめーん。」

と言いながら入室したのである。
聞き間違いようのないセリフ。
偶然にかぶりようのないセリフ。
懐かしい、かつて聞きなれたセリフ。…ジョイマン(ジョイマンが分からない場合はヤホーで検索してください)。

本来ならば、「何なんだこいつ~」と返すのが親として正解なのであろうが、完全に気が動転してしまった私は、「何なんだこいつ~」と返すことは出来なかった。私が完全に気を動転させてしまったことを皆さんも簡単に想像することができるだろう。娘がジョイマンなのである。

気が動転してしまった結果、口からやっと出たのは、

「すげぇな、おい。完璧なジョイマンぶりじゃん。学校でジョイマン、はやってるんだ?」

という、娘を讃えるものの、あまり気の利いていない言葉だった。しかしその言葉に対して娘は想定外の反応を示した。

「ジョイマン?誰?」

......ふざけるな!今の今まで散々ジョイマンだった自分を偽るのか?たとえ自分を偽れたとしても、俺はごまかせねぇぜ!とも思いつつ、ややおとなしめの言葉を返すことにした。

「だって、「まことにすみまめーん」って。あれ、ジョイマンじゃん」

「あ、あれ。「ジョイマン」っていうんだ。知らなかった」

「知らないわけないじゃん。「まことにすみまめーん」って、ジョイマン以外誰がゆうんだよ」

「パパだよ。パパの真似。パパ、今年の1月から3月まで、ずっと言い続けてたじゃん。「まことにすみまめーん」って」

1月から3月といえば、中学受験を控えた娘を塾に迎えに行っていた頃だが、そう言えば、確かに塾への行き帰り、口ずさんでいた覚えがある…ジョイマン。しかし、しかしである。2017年にはジョイマン気取りの輩はほぼ皆無で、2017年はどちらかというと断然、ブルゾンであり、「35億」とうそぶくのはありだとしても、「まことにすみまめーん」の方はちょっと…結構いかれた感じになっちゃうし、そういったいかれた感じは少なくとも公では慎むべきであるという社会通念を身に着けている以上、「まことにすみまめーん」と口ずさむわけにもならず、しかし個人的にはなぜか「まことにすみまめーん」がブームで、「まことにすみまめーん」と発したい衝動に駆られ、妥協策として私はジョイマンを“心ずさんで”いることにし、公序良俗・社会通念を成熟させた私が、「まことにすみまめーん」を音として発するわけがないのである。

口ずさんでもいないにもかかわらず、心ずさんでいただけにもかかわらず、娘にはその内容が伝わっている。この状況を説明するのは非常に難しいのではあるが、ひとつの可能性として、娘にはエックスメン的な何かが宿っており、もう少し平たく言い換えると、もしかして娘は他人の心を読むことができ、つまるところ「娘はチャールズなのだ」と考えることで、以上のことがすべてきれいに説明できることになる。もしこの考察が正しいのならば一大事であり、私の心に浮かぶ数々のしょうもないことが逐一、娘に伝わっていることになり、当然それはジョイマンにとどまらないはずである。そこで、おそるおそる、

「なんで、知っとる?パパがジョイマンのこと?」

と聞くと、娘はめんどくさそうに、

「だから、言ったじゃん。パパは1月から3月、「すみまめーん」って言い続けたからじゃん。」

「だから、俺のジョイマンはお前に聞こえたのか?」

「聞こえるの決まってるじゃん、あんだけでっかい声でジョイマンしたら。私は恥ずかしくてしょうがなかったんだから。」

…と、いうことは、娘がチャールズなわけではなく、わたしがジョイマンを垂れ流していたわけである。自分では、シャドウジョイマンを嗜んでいたつもりなのだが、その実、ジョイマンが口からだだ漏れていたということになる。しかるにこれは大変危険でやっかいな状況であり、それはなぜかというと、もしかすると、結構いかれた感じの自分を公道のみならず、職場でも演出していたかもしれないからである。いや、可能性としてはかなり高い。あるかないかで言えば、あるだ。あるかないかで言えば…あるだぁ!

もしかすると、講義中、講義に向かう廊下で、会議中、通勤のバス中で、「すみまめーん」とむやみに言っていたかもしれません。もし不快に思った方がいらっしゃいましたら、お許しください。この通りです。「まことにすみまめーん」。

アディオス!

2018年04月28日

件名 生物多様性に関する調査について(2)

毎年5月22日は、国連が定めた「国際生物多様性の日」になっています。本ホームページでも国際生物多様性の日にちなみまして、5月中は生物多様性に関する記事を提供いたします。



毎年、この時期には卒業研究発表会が開催される。学生たちが、少なくとも一年かけて行ってきた研究の成果を公表する重要なイベントだ。つい先日(2月中旬)、今年度の卒業研究発表会が開催されたのだけれども、今年の卒論生たちもとても良い研究をしていた。

その中にオオサンショウウオを研究した者がいた。彼の研究発表を聞くたびに、幼き日のオオサンショウウオの思い出が蘇ってくる。当然、私の思い出は彼の研究内容とは全く関係ない。それでは本日は、私の「少年の日の思い出」を披露しよう。

愛知県における知多半島、その付け根にある我が故郷は、大都市では全然なかったけれども、代わりに手付かずの大自然が広がっているというわけでもなく、里山的な自然が広がっている田舎町だった。つまり、私の周りにはザリガニやらカブトムシやら半自然状態を好む生物はたくさんいたけれども、オオサンショウウオがいれるような類の自然は決して残されていなかったのである。…まぁ、たとえ大自然が残っていたとしても、もともとオオサンショウウオが知多半島いたかどうかは知らないけれども。

私は、結構子供のころから生物Loveだった。しかし、ザリガニやカブトムシ、ミヤマクワガタ、ノコギリクワガタなんかまでは野外で捕まえてきて愛でる対象だったのだけれども、オオサンショウウオレベルになると、それは全然身近な生き物ではなく、私にとってはライオンやエリマキトカゲと同じような、世界のどこかにいるはずの幻の珍獣という認識のされ方であった。

しかし、私はかなりの子供のころからオオサンショウウオのことを認知していた。というのも、親が買い与えてくれた学研の図鑑、『爬虫・両生類』にフィーチャーされていたからである。図鑑を買い与えてくれるということはどうやら、私の両親は結構な教育熱心だったようである。

学研の図鑑は何冊か持っていたんだけれども、その中でも『爬虫・両生類』は特にお気に入りで、そこには私にはウルトラマンに倒される怪獣にしか見えない動物たちがたくさん紹介されており、怪獣図鑑を見るような気持ちで夢中でページをめくったものだった。あるまじき図鑑の読み方であるが、まぁ、こらえてくれ。小学校低学年の頃なんだから。

小学校低学年で転出してしまった森実君の家に遊びに行った時だから、1年生の頃だっただろうか。その時の私は森実君と世界で一番大きな動物について協議を重ねていた。森実君は、「それはゾウじゃないだろうか?動物園で見たゾウは、それはそれはとても大きかった」と持論を唱えていた。自分の経験から帰納的に考察できる森実君は結構賢かった。それに対して私は、「そんなもん、オオサンショウウオに決まっとるがや」と名古屋弁全開で主張した。私は頑なで、持論を曲げることを拒んだ。というのも、私には強力な根拠があったからだ。学研の図鑑だ!

1973年に刷られた学研の図鑑、『爬虫・両生類』でのオオサンショウウオであるが、そこに描かれたイラストのオオサンショウウオの頭でっかちの姿は、子どもの頃の私のハートを鷲掴むには十分以上のフォルムを持つ、迫力満点の“怪獣”そのものであった。私はそのイラストを眺めるのが好きだった。そして、「いったいどこが目なのだろうか?」といぼだらけの頭部を注視するのが常だった。そして、そのイラストともに記載されていた数行の文章には「・・・世界最大の両生類。・・・」とはっきり、しっかりと書かれていたのである!

小学生低学年であっても、「世界最大の」という意味は読み取れた。これは、要するに世界で一番大きいという意味だ。問題は“両生類”の方であるが、その意味はその頃の私にはさっぱり不明であった。そこで小学校一年生の私は工夫を凝らし、「両生類は単純に動物と読み替えればよい」というミラクルな解法で、この難局を乗り越えることに成功していたのであった!!……完全な読み間違えだ!その頃の私は“両生類”が網の分類階級の一分類群であることなど、夢にも思わなかったのである。さて、この読み間違いをもって私の中では、「世界最大の動物はオオサンショウウオ」ということにあい成ったわけである。こうして、根拠は捏造されたのだ。

さらに性質が悪いのは、この根拠のソースが学研の図鑑であったことである。私の中では学研の図鑑は、嘘をつくことなど万が一にもあるわけがないほど確実性の高いものだったので、私の「世界最大の動物はオオサンショウウオ」に関する自信は確固たるものだった。……勝手に読み間違えられて誤解されるのだから、図鑑もたまったものではないだろう。

小学校1年生の私だって、世の中にゾウという体が大きい生き物がいることは知っていた。しかし、ゾウをも凌駕するほどの大きい体を持つオオサンショウウオが、日本のどこかにいると本気で思い込んでいたのである。だって、学研の図鑑に書いてあるんだもん。つまり、つまりである。私の中では、あのイラストのいぼいぼのフォルムのオオサンショウウオは、原寸ではゾウ以上の体格を持っているというわけである。

結局、森実君との間の「ゾウかオオサンショウウオか問題」は平行線をたどるしかなかった。二人は一向に合意に達さない協議に苛立ち、第三者の意見、つまり森実君のお母さんにどちらが正しいか聞いてみようということになった。森実君のお母さんは我々の問いに対して、「それはクジラよ!」とはきはきとした口調で第三案を提案し、私と森実君はさらに途方に暮れてしまった記憶がある。今思えば、誰も傷つけることのない森実君のお母さん対応は、賢かった。

卒論生のオオサンショウウオの研究を聞くたびに、「世界最大の生物、それがオオサンショウウオ。ゾウよりでかいオオサンショウウオ」という幼き日の思い出が懐かしく蘇る。そして、「ゾウよりもでかいってどんだけなんじゃ」と、自分の愚かさに笑いが込み上げてきてしまうのである。

卒論発表会で、ニヤついていたのは、奇しくもこの思い出がよみがえっていたためであり、発表者を挑発していたわけでは決して無いので、この点はぜひご理解の上、容赦してほしい。この通りである。「まことにすみまめーん」

アディオス!

2018年05月10日

件名 生物多様性に関する調査について(3)

例のサンショウウオを研究した卒論生であるが、卒業発表会では、聴衆に語りかけるような口調で
「皆さん、井伏鱒二の小説、『山椒魚』を読んだことはありますか?」
というつかみで発表を開始していた。
それを聞いた私は、
「そんなもん、読んだことあるに決まっとるじゃろ」
と思ったのだけれども、恥ずかしながら、どうしてもその内容が思い出せない。

確か
「山椒魚は激怒した。」
から始まる短編小説を読んだのは、たぶん高校生の頃。“名著”との誉れ高い小説を読み漁っていた頃だ。
「山椒魚も激怒するのか?」、とたちまち彼の世界に引き込まれてしまったのと、小気味よくかつ明解な文章だったことは覚えているものの、肝心の内容が思い出せないのだ。

かなり気持ちが悪いので、ここはひとつ読み直すことにした。

読み直すや否や、驚愕の事実が判明した。冒頭は「山椒魚は激怒した。」ではなく「山椒魚は悲しんだ。」だったのだ。どうやら、メロスとごっちゃになっていたようだ。

冒頭の一文の後、わかりやすい文章がユーモラスにつづられていた。「そうそう、これこれ」と思いながら読み進めた結果、愕然とした。意味不明の終わり方なのである。

「もしかして、どこかで読み間違えたのか?」と読み直すも、どこも読み間違いなどしていない。彼の文章は明快で、読み間違いをしたくてもできないくらいに論理的で、洗練されていた。
そして、「なるほど、こういうことだったのか」と納得した。つまり、内容を思い出せない理由がつまびらかになったのだ。要するに、内容を思い出せなかったのではなく、端から内容を理解できていなかったのだ。

齢を重ねた今となっては、本を閉じてじっくり考えれば、彼が言いたいことは痛いほど伝わってくる。簡単に読み進められるものの、その実、内容を理解するためにはそれなりの咀嚼が必要で、なるほど山椒魚はよくできた小説である。しかし、高校生の頃の自分が、この小説を乗りこなせていただろうか?あの頃の自分を思い浮かべると極めて疑わしい。

どちらにせよ、素晴らしい卒業研究をしただけでなく、山椒魚を読み返す機会を与えてくれた卒論生に、ただただ感謝するばかりである。

アディオス

2018年05月21日

件名 生物多様性に関する調査について(4)

上の娘が小学生に入りたての頃だったはずだ。もう何年前のことになるのやら、時間の流れの速さにはいつも驚かされる。

その年の夏、私は子供を引き連れて、とある場所に遊びに行っていたのではあるが、そこにはちょっとした小川が流れる場所があり、そこで水遊びをすることにした。

小川には、結構大きめの岩やらの礫が転がっていた。水は冷たかった。きっと近くに伏流水が流れ込むところがあるのだろう。

川底をよく見ると、4本足の3cm位の黒いのが、ゆらゆらしているのが見えた。きっと幼生のサンショウウオだ。何サンショウウオか同定するだけの能力は持っていないのではあるが。

そこで娘に、
「川底をよく見てごらん、サンショウウオがいるよ。まだ赤ちゃんだよ」
と教えてやると、一生懸命川底を眺め、やがて彼女の目はサンショウウオを補足したのだろう。にやーっと笑って。
「ほんとだ。ちっちゃいのがいる。つかまえていい?」
と聞いてきた。
「危険な生き物じゃないけど、触ったら死んじゃうくらい弱い生き物なんだよ。あなたが優しく捕まえているつもりでも、サンショウウオにとってはとっても苦しいんだよ。死んじゃうかもしれないよ」
と教えてやると、娘はそれを理解してくれた。そして、川底のサンショウウオを一心に眺めていた。「もう帰ろう」と言っても、「うん」と言うだけで立ち去ろうとしない位一心に眺めていた。

帰りの車の中で、
「あれ、なんていう生き物だったっけ?」
と娘が聞くので、
「サンショウウオ」
と教えてやった。娘はそれを聞くと
「サンショウウオ?」
と確認してきた。
「そうだよ、サンショウウオ」
すると再び、
「サンショウウオ?」
という同じ質問。
大丈夫か?と思いながら、
「うん、サンショウウオだよ」
というような会話を延々と続けた記憶がある。

娘の夏休みの宿題には、夏休みの思い出を綴った絵日記があった。
娘の書いた絵日記を見せてもらうと、そこにはサンショウウオを眺める親子の姿が描かれていた。

「ああ、絵日記にするくらい特別な思い出になったんだ」と思いながら文章に目をやると、そこには、

「川でサンショウゴを見つけました…」
と書かれていた。なるほど、"ウオ”のところがよく聞こえなかったんだね。

その時以来、ちょいちょいのタイミングで私は、サンショウウオのことを“サンショウゴ”と言っている。たぶん、気が付いた人はいないと思うが……

アディオス

2018年05月30日

件名 正規講義時間以外のチャイムについて

クリスマスまで、あと半年ですね。クリスマスが待ちきれない皆様のために、6月は”クリスマスまであと半年月間”と銘打って、クリスマス特集を展開いたします。

毎年、年の瀬も押し迫ってくると、広島駅の新幹線口を出た所にはクリスマスツリーが飾られる。それは見るだけでなんとも幸せな気分なれるという、たいそう素敵なものなのであるが、今年のツリーは今までのツリーよりもずっとずっとすごかった。

というのも、今年飾られたクリスマスツリーには人を幸せにするさらなる創意工夫が施されており、この創意や工夫によりいやがおうにもクリスマス感が盛り上がるようにできているからである。高さ6mほどのツリーの中央位の高さには黄金のベルが取り付けられており、そのベルからは荒縄が地面まで垂れ下がっている。そして、その荒縄を引っ張ると、荒縄のベル側の先に取り付けられた金属片がベルと接触し、ベルが甲高い音を鳴らすという志向なのである。

「ベルが甲高い音を鳴らして、楽しいのだろうか?」と疑問を思った人もいるかもしれない。たしかに、ベルが甲高い音を発するだけでは、それはまぁ楽しいかもしれないけれど、ぼちぼち楽しいレベルだろう。しかし、このクリスマスツリーには、人をぼちぼち楽しいレベルには留まらせない、驚くべく秘密が隠されているのである!

ベルが甲高い音を鳴らすと同時に、電子制御されたメカニズムが作動し、聞いたこともないような、何とも幸せなメロディーをツリーがかき鳴らすからくりなのである。そして、この音楽の素晴らしさは何とも表現できないくらいで、私のような歪んだ精神を持つものであっても「ああ、生きていてよかったな」と思わせるほどの破壊力を持つほど幸せな旋律なのである。ああ、あなたにも聴かせてあげたい。

そこで私は、帰宅時にはいつも、「このベルをかき鳴らし、幸せのメロディーを奏でたい」と切に願っているのだが、実は今までそれに成功したことはない。つまり、誰か知らない人がベルをカーンとやって奏でる演奏を、傍からもらい聞いているだけに過ぎないのであり、「ああ、明日こそ自分でカーンとやりたいなぁ。自分で音楽を鳴らしたら、どんなに楽しいことだろう」ともじもじするだけなのである。

「カーンとやればいいのではないか」と思った人もいるかもしれない。しかし、そう簡単なものではないのである。ああいうものは第一にカップルが好んでやるものであり、カップルの次は就学前の子供達、その次は中高生女子という風にプライオリティが決まっており、いっくら待ってもそこら辺からうようよわいて出て来る、カップルやおぼっちゃん・おじょうちゃん、女子中高生がカーンとやるもんだから、私の番は待てど暮らせど回って来ないのである。

「それならば、順番を主張して、カーンとやればいいのではないのか」と思うかもしれない。しかし、このツリーは順番を待つための行列を作るシステムではなく、誰かがカーンとやり、幸せな音楽が奏でられ、それが終わると、自然とツリーの周りに待機しているカップルやおぼっちゃん・おじょうちゃん、女子中高生うち誰か一人が、他者と阿吽の呼吸でベルに近づき、カーンとするシステムになっており、このシステムが発動している以上、私のようなおじさんが、カップルやおぼっちゃん・おじょうちゃん、女子中高生に分け入ってベルに近づき難いのである。

そりゃ私だって鳴らしたいのですから、根性を出して、ベルに近づいた事だってありますよ。実は。でもね、でもですよ。その時の私は、カップルやおぼっちゃん・おじょうちゃん、女子中高生をなるべく刺激しないようにと気を遣い、満面に笑みを浮かべながらベルに近づいてしまったものですから、同じく、反対方向からベルに近づきつつあるカップルの女子のほうが、気持ちの悪い笑みを浮かべながらベルに猛進してくるおじさんを探知し、こともあろうか、気持ちの悪いおじさんが自分のほうに突進していると彼女は勝手に勘違いしやがり、「キャア」なんて悲鳴を上げるものですから、私は完全にてんぱってしまい、笑顔を引きつらせながら、「ち、違うよ。おいら、決して怪しいものなんかじゃないんだよ」、とベロ(妖怪人間)の自己紹介みたいなことしか言えず、妖怪人間たる私に対してさらに凍てついて行く彼女を見て、ただ友達になりたかっただけなにに、疎外されるベロの気持ちを痛いほど共感するだけのトライアルに終わっただけだったのでした。

こんな妖怪人間の私が、「みんな、順番が分かりやすいように、列つくろうよ、列!」と声高らかに正論を主張したとしても、誰が耳を傾けるでしょうか?絶望の果て、回ってくるはずも無い順番をただただ待ち続け、結局はカーンができないまま、泣きながら帰宅する日々が続いていた。

ある日、やはりいつもどおり泣きながら帰宅すると、上の娘がなぜ泣いているのか聞いてくれた。事の顛末を白状すると、「なら、今からたたきに行こうや」と誘ってくれた。娘を引き連れてツリーに着くと、意外なほど簡単にカーンとすることがでた。女子中学生の力は絶大だ。まずは娘にカーンとやらせ、至福の音楽を奏でさせ、その後私がカーンとした。自分がカーンとすると、なんか、自分だけのために音楽が奏でられているような、格別至福度が増幅するような気がした。

調子に乗った私は帰りながら、言わんでもいいのに「俺のほうがお前より、カーンってやるのうまかったな。俺がカーンってやったほうが、より至福の音楽が流れたな」と言った。娘は、「付いて来てやったのに」と内心思ったのであろう。結構複雑な顔をして黙って聞いておった。

メリークリスマス。

アディオス

2018年06月06日

件名 贈答品に関する注意喚起

件名 奇跡

きせき【奇跡・奇蹟】
常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事。特に、神などが示す思いがけない力の働き。また、それが起こった場所。グーグル検索より

信心深いほうの反対の端にいる私は、別に無神論などと言うたいそうな立場ではないものの、まぁ、宗教的な信仰心はひっくいのである。そんな私が回心するきっかけになった、奇跡の仔犬のお話をご披露いたしましょう。

もう、10年くらい前のことだ。年の瀬も押し迫ったとある週末、上の娘は通っている幼稚園の行事であるクリスマス会に参加するため、週末にもかかわらず幼稚園に出ておった。下の娘はその頃確か、生まれてから二度目のクリスマスを体験するくらいの大きさで、全然幼稚園児ではないのだから、姉と同じイベントに参加することは許されていなかった。

しかし、この幼稚園は、幼稚園に上がる前の子供たちにもちょっとしたクリスマスイベントを用意してくれていて、姉がクリスマスイベントに参加している間、下の娘はそれに参加させようということになった。

で、こういったクリスマスイベントでは、大概クリスマスプレゼントが配られる。きっと、下の娘が参加するクリスマスイベントでも、クリスマスのプレゼントがもらえるだろう。そう思った私は、出掛けに、本当に何気なく娘に、
「クリスマスプレゼント、何が欲しい?」
と聞いてみた。すると、娘は、はっきりと
「犬のぬいぐるみ。大きな犬のぬいぐるみ」
と言いよった。この回答に私はかなりの違和感を覚えたので、10年たった今でもすごくよく覚えている。違和感の出どころは、まず、娘が流ちょうに話したことにある。まだ、2歳にも満たなかった下の子は、話せるにしても、まだまだたどたどしいもので、通常は何言っているかわからないことのほうが多かったのに、この時は、はっきりと、意味の分かる文を発話したのである。

違和感の所在はそれだけではなかった。それまでの娘を見ていても、犬が好きなそぶりも、ぬいぐるみが特に好きだというそぶりも見せなかったのだから、私は娘が犬好きだとは思っていなかったし、ぬいぐるみ好きだとも思っていなかった。だからこそ、彼女が犬のぬいぐるみを所望するなどとは全く思いもよらなかったのである。「へぇ、犬好きなんだ、ぬいぐるみ欲しいんだ、意外だね」というのが正直な感想だった。

で、クリスマスイベントだが、私の見立て通り、会の後半でクリスマスプレゼント大会に突入した。ただ、みんなが同じものをもらえるのではなく、くじ引きでもらえるプレゼントが変わるという趣向だった。隣の部屋の壁のところにたくさん紙が貼ってあり、子どもが無作為に一つだけ引っ剥がし、それを先生の所へ持って行く。紙の裏側には数字が書いてあって、実はくじの役割をして、その数字と同じ数字のついたプレゼントがもらえるという仕組みだった。

小さい子からくじを引きに行けたのだけれども、娘は参加者の中でも小さいほうで、かなり初めの方にひかせてもらえて、胸を張って隣の部屋にくじを取りに行く姿が見えた。で、そのくじを先生に渡して、プレゼントに交換してもらうのに時間がかかったのであろう。少したってから娘が、プレゼントとともに私のもとに帰ってきた。

娘を見ると、にわかには信じられないような光景が、、、。

娘は、自分と同じくらいの大きさのスヌーピーのぬいぐるみを抱っこして、それを一生懸命運んでいるのである。

「それもらえたの?」
ときくと、娘は無言で、満面の笑みとともに大きくうなずいた。大きな、イヌのぬいぐるみだ!
「よかったね、欲しかったものがもらえて」
と声をかけると、娘は大事そうにスヌーピーを抱いて、にやにやしていた。神様はいるのではないかと私に思わせた瞬間であった。

さて、そのスヌーピーであるが、意外にも娘はすぐに興味を失ってしまい、スヌーピーが娘の相手をしていた期間は本当に短く、人生のほとんどを第二の人生として、そして今でも、私の抱き枕として奉仕を続けておる。そして、大夫黒ずんでしまったスヌーピーを見るたびに、奇跡の仔犬の物語を思い出すのである。

メリークリスマス。

アディオス

2018年06月15日

件名 消耗品発注等の取扱いの注意について

2017年の春の出来事だっただろうか?

夕刻であった。研究室でいつものように業務をこなしていると、携帯電話のバイブレーターが作動した。私の携帯電話には、保険の勧誘以外の電話がかかることがめったにないため、この時も保険の勧誘だと思ったのだが、携帯の画面には、それが自宅からかけられていることを示していた。
電話に出ると娘だった。娘はかなり焦っていた。

いつも早口な娘であるが、この時は、いつもに輪をかけて早口で、
「パパ、大変だ!大変なことが起こった!」
と言うのである。で、大変だという状況は分かったから、何が大変なのか教えろと命令すると、どうやら彼女は夕方のニュースを見ていたところ、昨年の台風の影響で材料のジャガイモが極度に不足しており、ポテトチップの供給が困難なことを知ることになったらしい。

で、
「パパ、大変だ!パパが毎晩楽しみにしているポテトチップスが食べられなくなる危機が迫っている!そんなところで仕事をしている場合なんかじゃなくて、一刻も早くポテトチップを求めてスーパーに走るべきだ!」
と進言してくれるのである。私の晩酌......ではなく晩ポテトチップを心配してくれるところはうれしいのだが、さすが子供。浅はかである。

私たちは今まで、何度となく、品薄を乗り越えてきた。1993年の米不足。2007年の納豆不足。2015年のバター不足。不足した時はみな、判を押したようにうろたえるものの、品不足はいつも一時的で、あっという間に市場に商品が返ってきたのである。そこから帰納すれば、今回も一時的な品薄に決まっているのである。あせる必要は全く無い。

で、余裕で娘をあしらおうとしたのだが、娘は必死のパッチであり、あれだけ毎日、体が悪くなるくらいの勢いで食べ続けているポテトチップなのだから、たとえ一時的であろうが食べられない時期があれば、私はもだえ苦しみ、結果として、あっという間に狂い死ぬであろうこと、ニュース映像によれば東京のスーパーではもうすでに、ポテトチップ争奪戦が始まっており、明日になればそのブームは確実に広島に到達するであろうこと、そして、だからこそ、今すぐにポテトチップを入手しなければ、もう二度とポテトチップを口にすることはできず、挙句に死に至るであろうことを、三段論法みたいに主張した。まぁ、これは、三段論法でも何でもないのだけれども…….

当初、「心配することないよ」と全然余裕をかましていた私は、娘の必死のパッチの主張を聞きながら、みるみる青ざめて行き、膝のガクブルが止まらなくなり、もしかして娘の言っていることが正しいのではないか?余裕をこいている場合ではないのではないか?……そうだ!頭が悪いのは娘ではなく、私だったのだ!と秒速で改心した。

きれいに心を入れ替えた私は娘に、「反省しました。私が間違っていました」と白状した。娘は、「その気持ちを態度に示すことが大切なんじゃないのかな?」と早急に何らかのアクション、対応をとることを求めよる。私はたまらず、娘に「私にできることは、私にできることは何なのですか?」と、その具体のアクションとは何であるか、明示を求めたのであるが、娘は、「何で二回聞いた?」などと突っ込むことも無く、粛々淡々と

「そんなのも分からないの!今すぐパソコンの電源を切り、荷物をまとめ、研究室を施錠し、一刻も早くおうちに帰るの。そして、すぐさまスーパーでポテトチップを購入するの!」
と私が今とるべき行動を教えてくれた。

私は、「購入するの!」と言い終わるか終わらないかくらいのタイミングで携帯電話の通話を切り、パソコンの電源を切り、荷物をまとめ、研究室を施錠し、一刻も早くおうちに着くようにダッシュした。広大西口に向かって。広大西口に向かってダッシュした。

ダッシュしながらうすぼんやりと考えていた。娘は激しく正しい。私が仕事を怠ったとしたらどうなるだろうか?そりゃ、私の信用は暴落するだろう。しかし、それで社会が止まることはない。私があけた穴は、組織の誰かが埋めてくれるのだ。仕事上の私の変わりなんて、どこにだっている。溢れかえらんばかりにいる。それが組織だ。しかし、ポテトチップはどうだろうか?私が自らポテトチップを買わない限りは、誰かが私のためにポテトチップを買ってくれることはない。ポテトチップの方が、100万倍重大な案件だ!!!この世界はポテトチップを中心に回っている!!!世界の中心はポテトチップだ!!!ポテトチップ様!バンザーイ!!!私は無意識に、薄笑いを浮かべながら万歳を行っていた。広大西口で。

……完全なる失考。これがあの誉れ高いマインドコントロールと呼ばれるものなのだろうか。

で、うちに着き、時計を見ると7時30分。私は荷物をうちに置くや否や、車のキーをもって、うちを飛び出した。向かう先はいつものマックスバリューではない。マツダズームズームスタジアムの向こうのコストコだ!ポテトチップを買い込むならば、断然コストコになのだ。そんなことはとうの昔から決まっている。なぜならば、私はコストコで、スーパー・クレイジー・ジャイガンティックパックなる500gも入ったポテトチップを売っていることを知っているからだ(ヤホーで検索したところ、スーパービッグたる呼称でした。謹んで訂正しておきます)。

コストコは8時に閉店する。しかし、30分あれば、余裕でコストコに到着できる。果たして、閉店前にコストコに着いたのではあるが、かなり様子がおかしいのである。お客様、お客様が、あの巨大なカートにスーパー・クレイジー・ジャイガンティックパックを積んでいるのである。そしてみな一様に、奇妙なうすらっ笑いを浮かべているのだ。それは、あたかも、「私は勝者。世界の中心を手に入れた21世紀のルイ16世」といわんばかりに。あの人も、ほらあの人だって。

「やばい。買いそびれる」私は激しくうろたえた。この状況では、ともすると私はポテトチップを買いそびれる敗者になりかねない。ダッシュで店内に入ると、閉店まで15分もあるというのに、もう既に景気よく別れのワルツがかかっていた。私は三拍子に乗りながら、時よりターンを決めつつ、ポテトチップ売り場に急いだ。私は結構ワルツは好きなほうだ。そういえば、NHKのウィーン・フィル ニューイヤーコンサートを見るのがお正月のルーティーンだ!

ポテトチップコーナーには、まだまだけっこうたくさんのスーパー・クレイジー・ジャイガンティックパックが並んでいた。そして、私は、うすしお味とコンソメパンチ味を一袋ずつ購入することに成功した。巨大カートにうすしお味とコンソメパンチ味のスーパー・クレイジー・ジャイガンティックパックを詰め終えると、私の中には満ち足りた、いかんとも表現しがたい気持ちが湧き上がってきた。私はとうとう、世界の中心にたどり着いた!世界の中心を手に入れたのだ!私もなったのだ。 21世紀のルイ16世に(打ち首られちゃう運命かも知れないが)!!

カートを押しながら、レジに向かう道すがら、私は笑った。大いに笑った。けたたましく笑った。私の笑い声は、店内に響き渡り、別れのワルツをかき消すほどだった。そして、店員たちは、みな同様に怯えていた。私には、店員がおびえながら繰り出す「いらっしゃいませ」が「新しい王の誕生だ!王よ永遠なれ!」に聞こえていた。そして、また笑った。さらにけたたましく。オホホホホーッ!

で、こうした経緯で入手した、世界の中心たるスーパー・クレイジー・ジャイガンティックパックであるが、一年以上経った今、賞味期限を当に越えた状態で、未開封のまままだ私の寝室に置いてある。だって、スーパー・クレイジー・ジャイガンティックパックって一人で食べるには大きすぎて、開けるのに勇気がいたんだもん。

アディオス!

2018年06月22日

件名 職場の安全衛生について

夏休みはフィールド活動の期間です。今月は夏休みを前にして、フィールドに潜むリスクについて紹介、解説していこうかと思っています。




マレーシアに来ているの、お仕事で。

我が研究地にはヒルという血を吸う動物がいらっしゃる。半端ではない位いらっしゃる。
9月に調査した時には、
「吸いたければ、どうぞ」
という男らしい態度とともに丸腰でヒルに挑んだところ、見事に返り討ちにあい、一日にうちに10カ所近くもかまれ、30を超えるヒルが体の上を這いまわる己の姿にさすがに気持ちが悪くなり、
「吸いたければ、どうぞ」
等と言ってしまった今朝の自分を激しく恨んだものであった。

さて、ヒルにかまれるとどうなのかというと、まず短期的には血が止まらなくなる。このため、血を吸われた部分に接触する服は真っ赤に染まる。逆に、真っ赤に染まったTシャツを見て、「さっき違和感を覚えたのだが、ヒルだったのか」と、はじめてヒル被害を認識することも多い。そして、その後数日間は噛まれた場所が激しくかゆくなる。

さて、それ以上のこと、例えばヒルにかまれた後に感染症に冒されるリスクなどについては、私は詳細を存じ上げないのであるが、マレーシアから大学事務にヒルに噛まれまくっている旨を報告したことがあるのだが、その際、大学事務からは「ヒルにかまれた後、川に入るとレプトスピラ症なる、なんだか怪獣の名前のような病気にかかるので注意したまえ」という旨の返信があり、
「もう既に、毎日毎日、景気よく川をジャバジャバと横切っとりまんがな」
と、ガクブルした記憶が生々しい。まぁ、レプトスピラ症にはならなかったのだけれども…

で、次の日は、如何にも体に悪そうな凶悪な殺虫剤を体に振りかける、などの考えられるあらゆるすべての措置を講じてジャングルに入ったのだが、そのかいあって、「どうやら今日はかまれなかった。さすが、これだけの邪悪な力を持つ殺虫剤ならば、きっと私の体にも悪影響あるだろうね。殺虫剤のせいで寿命が全うできなかったりしてね」、なんて鼻歌を歌いながらシャワーを浴びるために下着姿になったところ、あろうことか下着が真っ赤に染まっており、もちろん、「とうとう初潮を迎えてしまったか」などと冗談を言えるほどの精神の余裕などなく、ただただシャワー室の中で、「なんでここなん?」「なんでここなん?」と二回、誰に向けて放ったか分からない突っ込みを大声で上げることしかできなかったのであった。突っ込みを上げながらも、自分の将来を酷く、酷く悲観した…そりゃ、やっぱりかゆくなるんだよなぁ…と(信じてもらえないかもしれませんが、幸いにも全くかゆくなりませんでした)。

こんな苦い体験をしているのだから、そりゃあ今回はしっかりヒル対策をしているのだろう、と多くの人が思っただろうけれども、それに対する答えは「否」だ。なぜならば、私は調査地を知り尽くしているからである。つまり、今回の調査は乾期であり、乾季にはヒルのような体がぬれぬれの動物は機嫌が悪くなり、どっかで身を潜めて、ただただ雨季が来るのを待っているはずであり、私の血を吸うほど彼らには余裕はないからである。だから、特に何か策を講じるまでもなく、いわば、この時期はヒルの被害には合いたくたって合えないのである。

……合えないのであるはずだったんだけどね……朝からじゃんじゃん降る雨を、「おかしいなぁ。乾期は雨が降らないはずなんだけどなぁ」と首をかしげて見ていたのだが、雨の降る中ジャングルの中を40分くらい歩いただけで、体中を這いまわるヒルは軽く20匹を超える事態に遭遇し(24匹おりよった)、急激にテンションが下がったのであった。こっちは再び丸腰だし、今回は20kg以上の荷物を背負って、10km以上ジャングル内を歩き回るという類の調査なので、荷物が重すぎて、目的地が遠すぎて、なかなかヒルに気を向けることなどできないやしない。いじわる。

初日は、2カ所の被害に抑えられたが、二日目は14カ所。今回も全身血だらけなのである…

ひとことだけ言わせていただけないだろうか。
「しっかりしろ、乾季!」

アディオス

2018年07月02日

件名 (お願い)野外活動を安全に行うために

野外での活動、俗にいうフィールドワークには、ともすると我々を消し去れるほどの巨大で凶悪な危険が潜んでいる。そんな危険に私自身が消されそうになった苦い経験をWebマガジンBuNa誌上に絶賛好評連載中なのであるが、野外活動に伴う危険は、基本的には我々が支配できる類のものだから、必要以上に危険におびえることはない。危険が牙をむいて襲い掛かってくるのは、往々にして我々のディシジョンに非がある時なのだから。

野外活動での危険を支配するために必要なことは、危険を、そして自分が置かれた状態を見極める力であり、それに従って最適なディシジョンを下し続けることだ。つまり、平たく言えば、無理をしなければよい。

しかし、こんな簡単なことさえが、フィールドワーカーには時に難しい。我々は調査の成功のために並々ならぬ努力を注ぎ込んできたのであるから、目の前に貴重な獲物(データ)が現れたとき、たとえその獲物(データ)を取るために危険を冒さなければならなかったとしても、ついついそれを取りに行ってしまうのである。そして、獲物(データ)を得るための熱意と無謀な挑戦との境界は、時として悲しいほどに薄くなる。それまでに払った努力と犠牲が大きければ大きいほど、我々は、自分にはこの獲物を得るだけの資格があると勝手に思い込み、危険の兆候を軽視しがちなのである。

そんな我々が陥りがちな危険な状況を、私が実際に犯した野外での誤ったディシジョンを例に、今日は紹介しようかと思う。今回も硬派な内容だ!

今考えれば、私はその日、重大な判断ミスを数度犯している。もちろん、その時々には、最善の選択をしたはずだと信じきっていたのだが、後から考えると誤った選択であり、最初の誤った選択がほころびを生み、そのほころびが、度重なる誤った選択により、取り返しのつかない大きさまで広がってしまったのだ。

私はその日、娘たちを連れて吉和に向かった。釣り堀に釣りに行くのだ!ここ最近、「忙しい、忙しい」を連発し、どこにも連れて行ってやってなかったから、今日くらいは遊びに連れて行ってやろうと思い、それならば彼女らが大好きな魚釣りだ!吉和の釣り掘りだ!と思ったのだ。

釣り堀では受付で、竿が何本要るか聞かれたのだが、私は、はきはきと、「2本!」と答えた。1本を順番に使うという選択もあろうし、釣り堀のおじいちゃんは、「2本はいらないかなぁ。1本を順番に使えばいいんじゃないかなぁ」と1本の利用を勧めてくれていたのではあるが、もしそうした場合、醜い竿の奪い合いが発生することが高度に予想され、終いには、竿を持っていないほうが、どっかから棒的なものを拾ってきて、釣りに勤しむ竿を持っている方をつつきまわすと言った様々な妨害工作に発展することだって十分考えられるので、ここはやはり、一人1本だと思ったのである。今考えれば、この選択が誤っていた。

釣りを開始する前に、子供たちを集め、これから始まる釣りに関する約束事を取り決めた。というか、釣りのルールを一方的に伝達した。この1方向性は野外活動では特に重要である。というのも、野外では、何かしらの不利な状況が突然発生した場合、撤退するなどの行動を迅速に行わなければ命にかかわることがある。そんな時、迫り来る危険を目前に、撤退するかどうかなどを皆で議論している暇はない。適正な判断(撤退)と無謀な挑戦の境界は限りなくあいまいなのだ。撤退に反対する者はいるだろうし、その理由だっていくらだって作れる。目標の獲物が目の前にいればなおさらだ。議論をし始めれば、収束する兆しさえ見えないこともあろう。

しかし、そんな議論をしている間に事態が悪化し続けることもある。そうなれば我々が支配できる状況ではなくなることもあるだろうし、こうなってしまえば、我々の地位は自然の支配者から自然の一部となり下がり、自然の猛威を前になす術は何もなくなってしまうだろう。こうした最悪のシナリオを避けるためには、リーダーのみがディシジョンを下し、それ以外はそのディシジョンに盲目的に従うに限る。野外では、リーダーが王であり、法なのだ。文句があるのならば、野外を出てから幾らでも言えばよい。しかし野外にいる間は、リーダーに従い続けるのだ。野外での時間を議論で費やすのが、一番愚かな行為なのだから。

で、今回の釣りの場合は、一番経験のある私が判断・ディシジョンし、それを子供たちに伝える。子供たちには拒否する権利は無い。私のディシジョンに従うしかないのだ。私が王であり、法である。このルールを植え付けるため、1方向的な意思伝達が必要なのだ。もう既に、野外活動は始まっている!

で、私は次の二つのルールを娘に伝え、それに従うように命令した!
1.1時間だ!1時間のアタックの後、釣れようが釣れまいが、私たちは撤退する。次の1時間のための竿の賃料は支払はない!これは、竿の賃料をケチったがための選択だ!

2.一人6匹までだ!一時間を待たずとも、調子よく釣れてしまって、釣れた魚が6匹に達した場合、そこで釣りは終わりだ。たとえ、10分で6匹釣れてしまっても、それでお終いだ!

この時は、娘たちは黙って私の指示にうなずいていた。

さて、読者の皆さんの中には、2番目の命令に違和感を抱いた人もいらっしゃるかもしれない。それについての説明というか言い訳は、次回の記事に任せよう。今回もだいぶ長くなったので。

今回はとりあえずこの辺で!

アディオス!

 

マラリアに罹った稀有な経験の連載が、WebマガジンBuNa誌上で始まりましたぜひ、遊びに行ってください。


2018年07月08日

件名 (お願い)野外活動を安全に行うために(2)

まえーはーうーみ、うしろーは、はーとーやーの、たいーりょーえ

大丈夫だ。前回の魚釣りの続きの記事だ。

愛知県における知多半島、その付け根で育った私にとっては当たり前のように見たコマーシャルは、原始人が出てくる関ヶ原鍾乳洞、「ほんとにほんとにほんとにほんとにらいおんだー」の富士サファリパーク、そして前出のハトヤだ。40年位前の話だから、今もそうかは分からないけど。ちなみに、どこにも連れて行ってもらっていない。

さて、ハトヤには「たいりょーえん」なる釣堀があるようで、確か、謳い文句は、「三段逆スライド方式」。「釣れば釣るほど安くなる」というナレーションを聞くにつけ、子供の頃の私は、「いっぱい釣れたら、ただになっちゃうじゃーん?」と、射幸心を刺激され、飛び跳ねて喜んだものだった。ハトヤ、行ったこと無いけどね。

浅はかな子供の私は、釣れば釣るほど全体の料金が無料に近づくと認識していたのだが、高度な知恵を大量に詰め込んだ大学教授、ウォーキングコンピュータたる現在の私は、「三段逆スライド方式」に対して、違う認知の仕方をしている。つまり、まぁ、たぶん「三段逆スライド方式」とは、魚の一匹あたりの値段表が三枚あって、釣れた数に応じて値段表がより安いほうにシフトするといった類のもので、釣れば釣るほど全体の料金はもちろん高くなるけれども、お得感が増すといったものだろう。まぁ、間違っていたら、許しくれ。この通りじゃ。

で、私たち家族が訪れた釣堀は、三段逆スライド方式を採用していない。釣れば釣るだけ、それに見合ったお金を正比例で払うという、まぁ、普通の釣堀なのだ。で、この釣堀には食堂が併設されていて、追加料金を払えば、食堂で、釣った魚を調理してくれて、我々はそれを食べることができるのだ。もちろん、釣った魚を持ち帰ることも可能だが、未熟な調理技術しか持たない私は、「アマゴの南蛮」とか、作れるはずも無い。釣った魚は、うちには持ち帰らず、その場で食べると決めていたのである。

で、家族の大きさから割り出した魚の数が12匹。12匹までならば、みんなで協力し、おのおのがベストを尽くせば、おいしく食べられるはずだ。これを超えたら危険である。せっかく釣り上げた魚が、せっかくの命が無駄になってしまうのだ。だから、一人6匹。合わせて12匹ルールなのである。

2本の竿をゲットし、まずは、上の娘の竿の準備をしてやった。そして、そのあと直ぐに下の娘と竿の準備をしている時、異変が起こった。

上の娘が、
「パパ釣れた!パパ釣れた!」と騒ぎ始めたのである。まさかと思いながら見てみると、確かに釣れている。入れ食い状態だ!

上の娘が釣り上げた魚の口から、針を外す作業のために、下の娘から離れると、下の娘がブーブー言う。なんせ、お姉ちゃんの魚を釣り上げた勇士を見てしまったのだから、自分もやりたくてうずうずしているのである。でも、この場合は魚の口から針を外す方がプライオリティが高い。だって、魚がかわいそうだから。

で、なんだかんだでやっと下の娘の準備が整うと、下の娘もすぐに釣った。下の子が釣った魚から針を取っている間に、上の娘も釣る。バケツの中の魚は、見る見る増えていった。

途中、上の娘と下の娘の糸が絡む。釣り糸がはるか遠くの木の枝に引っかかる。つり針がトイレの屋根に引っかかる。といった、まず普通、起こらないだろうという事態が頻発した。私はというと、もつれた糸をほどいたり、木に登ったり、トイレの屋根に登ったりと、大車輪の働きだった。こうしてハプニング続きにもかかわらず、20分そこらで、バケツの中の魚は10匹になっていた。

私は、
「二人ともあと1匹ずつ釣ったら終わりだからね」
と、最後通告を行った。

程なくして、下の娘が最後の一匹を釣り上げた。そして、その直ぐ後に、上の娘も釣り上げた。

「あー楽しかったねぇ」
と言いながら、上の娘が釣った魚の口から針を外していると、そこには信じられない光景が!!下の娘が次の一匹を求めて釣り糸を池にたらしているのである。私は激しく非難した。
「約束が違うじゃろーが。今すぐ、釣るのをやめんさい!野外をなめるんじゃなーい!」
と。すると下の娘は、


「分かっているの。約束は分かっているの。でも、私は自分が抑えられないのー」


と言いながら、釣りを続けよる。ようやくお姉ちゃんの魚から釣り針を外し、そのまま妹の釣竿を取り上げようと妹のほうに近づくと、背後で不穏な動きが……振り返るとおねえちゃんも釣り糸をたらし始めている!
「なにしとるんじゃぁ。貴様、自分がやっとることわかっとるんくわぁ」
と上の娘を非難すると、一言だけ、


「妹だけずるい」


とだけ言い放ち、涼しい顔でつりを続ける。二人に釣竿を持たせてしまったがため、二人の動きを掌握できないのだ!

結局、予定を4匹オーバーしたところで、何とか両者から釣竿を取り上げ、強制的に終了させてやった。

食べきれるだろうか?と不安になりながらも、全ての魚、計16匹の魚の調理を依頼した。娘たちは、がむしゃらに自分らが釣った魚をぱくついた。そして、見事全てを平らげたのである。魚は激しくおいしかった。そう。インドネシア東カリマンタン州で食べたイカンバカールくらいおいしかった。

……野外では、適切な判断と無謀な挑戦との境界は、時として悲しいほどに薄くなる。

アディオス!

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2018年07月13日

件名 野外活動を補助する装置を効果的に活用するために

講義中、ちょいちょいのタイミングで、時計を見つめている時間があるんだけど、気が付いていた?

あの時、私は決して、「私の時計ってかっこいいなぁ」と時計に見とれているわけではない。今回は、講義中、私がなぜかくも頻繁に、時計を見ながら固まっているのかお教えしよう。

私は時計を購入した。前から欲しかったやつだ!ベルトは結構ダサいんだけど、野外での活動をサポートする多くの機能の付いたそのモデルに前からあこがれを抱いていて、とうとうその時計を手に入れたのだ!これさえあれば、野外でのアクティビティが天井知らずで上昇するはずだ!

で、その特筆すべき機能なのだが、自慢も兼ねて紹介していこう。

まず、暗闇での使用時に利用される、広島カープのように真っ赤に光るバックライトだ!皆さんも日常、暗視スコープを付けて諜報活動に勤しんでいらっしゃると思いますが、そんな時厄介なのが、突然目に入る明るい光。テレビや電灯など、普段の何気ない光でも、暗視スコープを付けていると、まぶしさを感じてしまいますし、暗視スコープにも負担をかけてしまいます。皆様も日ごろからお困りのように、通常の時計のバックライトも、暗視スコープ装着時は明るすぎます。そこで工夫されたのがこの真っ赤なバックライト。暗視スコープ装着時でも、目や暗視スコープに負担がかからないように工夫されており、暗視スコープが鈍感な波長帯の光を利用しているのです。つまり、全く新しいコンセプトのもと作られたバックライトなのです!

ただ、残念なことに、私は皆さまと違って、暗視スコープを利用していないので、このバックライトが意味をなさないばかりか、老眼の私には、ぼーっとうすぼんやりとした赤い光を放つバックライトでは、時間が見づらくてたまらないのである。

で、次に紹介する機能はショック探知機能!Gショックとかにあるじゃん、ショックアブソーバーとかいう機能。あれとは全くの別物だ!

みなさんも日常、銃を利用して諜報活動に勤しんでいらっしゃると思いますが、そんな時厄介なのが、自分がいつ銃を撃ったのかログを取ることですよね。とにかくめんどくさい。そこで工夫されたのがショック探知機能。発砲時に与えられる手首への衝撃を探知して、時計が搭載しているGPS機能と連動し、その場を自動的に時計内のメモリに記録します。

ただ、残念なことに、私は皆さまと違って、銃を利用していないので、このショック探知機能にも意味が見いだせない。

あと、多才なこの時計は、日の出、日の入り時間(野外活動中、これは正直役に立つ)、月齢、位置情報システム(GPS)を用いた緯度・経度、および標高の測定(さっきほのめかしたやつ)、そして方位を教えてくれるのである。まぁ、野外活動時はGPSを持って歩いているから緯度・経度や標高はそれに任せているし、方位はコンパス使ってるんだけど……

で、垂涎の時計だったんだけれど、いざ使ってみると……全く使いこなせない。ボタンが5つも付いているのだけれども、ボタンを順番どおりにきちんと押さなければ、使いたい機能が画面に現れないしくみになっている(あたりまえだ)。このボタン操作が、なかなか覚えられない。試行錯誤でボタンを押せば、多機能の迷宮に迷い込み、異世界で迷子になってしまうのだ!

で、講義中なんだけど、残り時間を知るために時計を見ると、結構頻繁に画面が月齢を示してることがあって、「月の欠け具合、今一番いらない情報じゃ」と思いながら時間表示に戻そうとボタンを押しているのである。で、結構高い確率で、ボタンを押すたびに、時計は教室の位置座標を教えてくれたり、日の出の時刻を教えてくれたりし、肝心の時間がなかなか表示されないのである。

多機能な時計を買うときは、それなりの覚悟がいるようだ。

アディオス!

2018年07月25日

件名 子育て支援について4

私が、私が試されている!!

子供部屋には机が3つ置いてある。部屋に入って右端の机は下の娘の机であり、左端の机は上の娘の机である。で、その真ん中の机は、私の机なのである。

家の中で一番勤勉な私は、テスト期間中などの特別な時期を除けば、娘たちよりもずっと長く机に向かっており、勉強をしておる。隣の机で父親が勉強をしているというのは、それなりの抑止力を持っており、ほんの10分くらい机に向かい、計算問題を数問解いただけで、机から離れようとしたり、机には向かっているけれどもその実、消しゴムのかすをねりねりしながらボーっとしたりするなどの反社会的な行動をとった場合、容赦なく後ろから父親に注意されるので、娘らも勉強をしないといけないのである。

で、今日、私の机の上に、たぶん、上の娘からであろう手紙が置いてあった。

手紙はいたって簡素なものであり、ルーズリーフみたいな紙が二つに折りたたまれて、それがシールで閉じられているだけだった。そして、その手紙の表面には、

手紙を読んでから開けてください。開ける前に深呼吸してください。

とだけ書いてあった。

……意味が分からない。開けないと読めないし。でも、読んでからじゃないと開けちゃダメだし。ぐるぐると思考をめぐらせ、結局、意を決して手紙を開けることにした。一応、深く深呼吸してから(深く深呼吸は重言?)。

手紙を開けると。

だから、読んでから開けてって書いたじゃん

とだけ書いてあった。なんじゃそりゃ?

アディオス

2018年08月21日

件名 お弁当および昼食について(2)

件名 お弁当および昼食について (2)

マツダズームズームスタジアムの向こう側にあるコストコ知ってる?私のお気に入り。

休日のお昼は、子供を引き連れてコストコでピザを食べることがちょいちょいある。子供がピザを食べたいと要求する時があり、ピザならば断然コストコだからである。

コストコのピザはおいしいだけでなく、大人が食べても満腹になるくらいのボリューミィで、かつ安い。ドリンク込でもワンコインでおつりがくる。だから、断然コストコである。

で、コストコに着くと、娘たちが席を探し、私が注文するための行列に並ぶという見事な分業が行われる。まさにチームワーク。これぞファミリービジネス!

しかし、この分業にはファミリービジネスでは片づけられない理由も隠されている。実は娘は私とともに行列に加わりたくないのである。恥ずかしいから。

なぜこのハンサムダディ―にたいして恥ずかしがらないといけないのかというと、先に結論から言ってしまうと、このハンサムダディ―は注文のくせが強いからである。

コストコって結構インターナショナルで、お客様層を見ても、日本人じゃないんじゃない?という人が多く、だからこそ店員はすべてバイリンガルなのである。そして、店員がバイリンガルというコストコの特性を利用して、私は外人のふりをするのである。理由は、「外国人って、なんとなくかっこいい」、というだけだ!!

まだ見ぬアメリカに思いを馳せ、アメリカ人ぶるのである。店員も、結構親切に応対してくれる。まず、

「ゥ~、ラピッザ」
から会話が始まる。「ゥ~」の部分には全く意味はないのであるが、私の場合、英語での会話の出だしは「ゥ~」から始めるルーチーンにしているのである。五郎丸に対して、「なんでいちいち忍者のポーズなん?」と誰も聞かないであろう。皆が彼のルーチーンを認めているからである。五郎丸よろしく、私の「ゥ~」についてもあえてほっておいてほしい。

で、続くラなのであるが、これはピッザの冠詞である。実はピッザの冠詞がラなのかルなのか、はたまたそれ以外のラ行なのか全く知らないのであるが、とりあえず、冠詞を付けずに名詞を言うのは英語ではありえないと思い込んでいる節があるので、これをもって「ラピッザ」なのである。英語の会話の中で、英語以外の冠詞を使うわけだから、これが間違っていたとしても、文法的な問題はない。よしんば間違っていることが露呈されても「教養がないなぁ」と思われるだけだろう。

そして、店員が「なんだこいつ、外国語対応か」と認識したのを見極めた後、続いて、

「チューピーセジョーブチィ~ズ、プリィ~ズ」

と叫ぶのである。つまり、「チーズ二枚」だ!

この一連の注文が娘にはたまらなく恥ずかしいようであり、一緒にいたくない、でも、なにかしているふりはしなくては一緒にいらせられる。そこで繰り出される一緒にいなくてもよい工夫が、

「パパ、注文頼む、私はチーズだから。席はまかしといて!」

なのである。

多分、店員さんも
「この客、くせが強いなぁ」
と思っていることであろう。

アディオス

2018年08月30日

件名 (セミナー情報)動物の貯食行動について

リスやネズミって、結構アホみたいなところがあって、普段は飢餓状態にあるんだろうけれども、たまたま実りの秋とかに、食べきらないほどの量の木の実に遭遇すると、「そんだけ食べたら体に悪いだろ」くらいの勢いで大食いをするようにプログラムされているらしい。アホだね。

しかし、よく考えると、これについては、我々は笑えない。我々も同じ行動をとりがちだ。我々だって、ドカ食いしちゃうことがよくあるし。さらに悪いことは、我々のドカ食いプログラムは、飢餓状態の時だけにスイッチが入るのではなくて、恒常的に動き続けていて、だからこそ、飽食の国々の人は太りがちで、ダイエットに走らないといけない。

で、リスやネズミの方に話を戻すんだけど、どんだけ食べても食べきらないほどの量の木の実に遭遇したときは、将来、来るべき飢饉に備えて、食べきらないこの実をどこかに運び、隠しておくらしい。これが、動物の貯食行動だ。結構賢いように見える貯食行動だが、当の隠した動物たちが、隠した場所を忘れちゃうので、飢餓時に役に立っていないことが多いようなのだ。アホだね。

まぁ、隠した後に本人が誰かに食べられちゃったり、事故にあったりで死んじゃって、本当は隠したことを覚えていたんだけど、利用されないことも結構あるんだろうけれども……

で、うちには家族のメンバーが黒パットと呼んでいる黒いタブレットPCがある。いや、正確には、あった。こういうのがあったら面白いんじゃないの?と思い、私が購入してきたのだが、おうちのWi-Fiにつなげると、ユーチューバーが見られたり、ゲームアプリをダウンロードできたりで、結構役に立っていた。

そのうちに、黒パットは家族の人気者になり、子供たちの間で黒パット争奪戦が始まり、暇さえあれば、というか、暇を作ってまで黒パッドをいじくるようになり、そんな子供たちの態度に私は激怒し、「人生には黒パットよりずっと大切なものがたくさんある。あるにもかかわらず、黒パットがあるとおまえたちはそれに気づこうともしない!」と絶叫し、黒パットを取り上げ、子供たちの手の届かないどこかに隠したのであった。

で、黒パットのことを私自身忘れていたのだが、それからだいぶたってから、子供たちに、「で、黒パットどこなん?」と聞かれたときに、驚いた。思い出せない。どこに隠したのか。で、如何にも自分が隠しそうな場所、例えば、クローゼットの中、上、衣装引き出しの中などなどを捜索したのであったが、未だ黒パットに遭遇することができないでいた。こんな状態が、ずいぶん長いこと続いていた。2年くらいかもしれない。どれだけ探しても見つからない黒パットに対して、この家の中のどこかにあるブラックホール的なものに黒パットは吸い込まれて、時空のゆがみの中に消えていったと理解することにした。これにて、一件落着!……見つかってないんだけどね。

で、この前、上の娘が学校でエプロンが必要な事態となり、確か、脱衣所にある洗濯機、その上にある棚に、エプロンがいくつかあったはずだと思い、エプロンを探しに脱衣所に向かったのだった。棚は高かった。踏み台をとってきて、棚に手をやると、エプロンに交じって、何か硬いものに指先がぶつかった。硬いものが上から降ってきたら大変なので、慎重にその固いものを引っ張り出すと、それは黒パッドだった!こんなところにあったのか!!

とりあえず、エプロン捜索を続けるため、黒パットを娘にヒョイと渡すと、娘は黒パットを持って、無言で走り去っていった。もう二度と私に隠されないためなのか、それとも妹に黒パットが見つかったことを知られないようにし、そうすることで、黒パットを独り占めするためなのか、それとも、黒パットを見たら走るようにインプリンティングされていて、その衝動を抑えきれないのか、はたまた何か別の理由かどうかは分からないけれども、娘は黒パットを持って走った。私が止めるのも無視して。どこか知らないところに。

次に見た娘は、もう、黒パットを持っておらず、どうやら、既に彼女は再びどこかに黒パットを隠した後らしい。大丈夫だろうか?あいつは、私にも勝るとも劣らぬアホなのだから。いったん隠したら、隠し場所、忘れちゃうんじゃないだろうか?次に黒パットに会えるのは、何年後かなぁ?

アディオス!

2018年09月13日

件名 就業時間外の過ごし方について

愛知県における知多半島、その付け根で育った私は、他のみんながそうだという理由で、普通に中日ドラゴンズのフアンであった。そして、他のみんながそうしているという理由で青い帽子をかぶり、同じ理由で「燃えよドラゴンズ」を熱唱していた。そして、「子供が中日ドラゴンズフアンになる」という現象は、なにも知多半島の付け根に限った話ではなく、世界中のいたるところで起こっており、つまり世界の全ての子供達が中日ドラゴンズフアンだと思い込んでいた(高校卒業後に東海地方から離れた際、「世界は名古屋を中心に回っているわけではない」という事実を知り、空が落ちてくるような衝撃に襲われました)。

とはいえ、まぁ、中日ドラゴンズの応援はしているんだけど、理由が「他のみんながしている」というものなので、当然のごとく気合が入っているわけでもなく、テレビで中日ドラゴンズのナイターが中継されていたとしても、裏番組のアニメの方を見ちゃうと言った程度。ナゴヤ球場にも、友達がなぜかチケットをゲットし、それが余っているという理由でお呼ばれしてもらったときにほぼ限られていた。しかし、今こうして考えてみると、これぐらいのフアンの方が断然、幸せなのである。

さて、この頃私の周りにいた大人を見渡すと、私とはずいぶん違っていた。大人は青い帽子をかぶっていない。一見すると、中日ドラゴンズフアンとして失格であるが、その実、私が夕食後のたしなみとして日々楽しんでいるアニメ番組を当然のごとく中断させ、平気でドラゴンズにチャンネルを合わせよる位のことを平気でできるレベルのフアンであった。

で、その先がさらに性質がよろしくない。ドラゴンズが点を取ろうものなら狂喜乱舞し、点を失えば烈火のごとく怒り、試合に勝てば上機嫌なのだが、試合に負ければ意気消沈なのである。これはもう、大人の爪のあかを煎じて子供に飲ませたいほどの立派すぎるフアンなのである。

子供のころから常々、こうした大人の子供じみた行動について疑問を感じておった。なぜ奴ら大人は野球ごときにこんなに夢中になれるんだ!?

自分が大人になってその理由がわかった気がする。チームこそ、ドラゴンズからカープに変わったものの(太田川デルタでは断然赤い帽子である)、かつての大人たちと同じ行動をとる自分がいる、子供のころはなんちゃって(ドラゴンズ)フアンだったのに。

で、この暑い気持ちの源泉をたどってみると、意外にも悲しい水脈にたどり着くことに気が付いた。

これだけ長く生き続けると、人生が思い通りに進まないことを経験を持って思い知らされる。そのことについては、自分としては上々に承知しておるつもりである。にもかかわらず、もう、十分理解し、分かっておるにもかかわらず、だからこそこれ以上思い通りに進まないことを例示する必要はもう、どこにもないにもかかわらず、日々日々、思い通りに進まないこと、例えば「今日も会議で面白くないことが通達された」、とか、「バスに乗り遅れた」、とか、「大切にしていたはずの張り子が壊れた」、などにぶち当たり続けるのである。いじわる。

で、「くーっ。本日も一日つまらなかった。思いどおらんかった」と思いつつ帰路につき、カープを見るのである。そして、「せめて、せめて、カープだけでも勝たせてくれ。俺の人生の中でそれくらいの思い通りを許してくれぇ」と思いながらカープを観戦するのである。悲しい水が渦を巻いて流れ下る濁流が日常だからこそ、カープに救いを求めてしまうのだ。

切なくなっちゃったね。
子供のころのフアンの方が幸せだね。
ちびっ子たちにお願いがあるんだけれど、もし大人が野球で騒いでいても、ちょっとくらいは許してあげてね。おじちゃんたちがそうする理由は、悲しい水脈なのだから。

アディオス!

2018年09月25日

件名 就業時間外の過ごし方について(2)

ある文化圏内では当たり前のことが、その文化圏を一歩離れるとじぇーんじぇーん当たり前ではなくなることが実はざらにあるのですが、その文化圏内のみを生活圏とする人が、それが世界的な常識ではない事に気が付くことは非常に難しく、たぶん、まぁ、ほぼ無理なのである。で、「私の考えは世界の常識である」と失考してしまう。「なぜならば私の周りは皆同じように考え、ふるまっている」という理由で。

さて今回は、ある文化圏のみでの常識が、あたかも世界の常識であると信じ切ってしまう“生息場所のバイアス”の例を紹介しよう。今回もかなりシリアスだ!!

昨今の広島カープの大躍進は、広島市民・広島県民を鼓舞し、その結果として私たちの生活は広島カープを中心に回り始め、身の回りにあるどんな些細なことでも、何が何でも広島カープと結びつけようとする事態に陥っている。例えば、卒業式の式辞や入学式の祝辞(これらは決して“些細な事”ではありません。ご卒業、ご入学おめでとう!)、こういった場面で、誰一人カープについて触れないという学校は、広島にはほぼ無いだろう。そう。誰かが必ず言う。

「皆さんも、広島カープのように頑張ってください」

と……もし誰も言わないのならば、私がそう言ってやろう!そして、私は広島市民としてこの状況にとても満足している。

で、今や春から時間が移ろい運動会シーズンたけなわなのだけれども、運動会もしかりなのである。広島の運動会は、かなり広島カープの癖が強い。

これは我が娘が通う小学校での出来事だ!小学生一年生の競技は、ただ単に体を動かすだけではなく、様々な志向が凝らされていて、それは勝負というよりはむしろ、楽しむことに主眼が置かれているほどであった。

で、その競技内容なのだが、赤いユニフォームっぽいものを着た1年生が、スタートの撃鉄とともにバッターボックス的なものまで走って行って、そこに落ちているバット的な棒をひらい、トスバッティンッグをして、ボールが前に飛んだら、バット的な棒を放り投げ、お立ち台的なところに向かって走り出し、お立ち台的なところに上がるや否や
「さいこーでーす」
と叫び、ゴールテープを切るという、いかにも広島カープっぽい、おたふくソース味の障害物競走なのである。

で、広島の人には断る必要はないほど知名度抜群の
「さいこーでーす」
なのだが、一応解説しておくと、この
「さいこーでーす」
は、カープの不動の四番、鈴木せーや選手のヒーローインタビューでの決まり文句で、お立ち台で彼が、「さいこーでーす」と叫び、その後、だれかから(本人含む)バケツの水をかけられることで、マツダズームズームスタジアムは最高潮に真っ赤に燃え上がる制度になっているのである。で、この制度は広島市民には当たり前すぎて、世界の常識、これを知らない人など世界中にいるはずもないと受け止められているんだけれども、しかしその実驚くなかれ、広島県を超えると、ほとんど誰もこんなこと知らないのである!どう、びっくりした?

で、運動会のお客様なのですが、県内に限っているわけではない。県外から来ている、孫の勇士を見に来たおじいちゃん・おばあちゃんもたくさんいらっしゃる。で、県外在住のおじいちゃんなどは、この競技を見るにつけ、「うちの孫は、なんで叫んどるんかねぇ?それで、なんて叫けんどるんかねぇ?」になるのである。

こういった場面で、よくできた後ろの席のお母さんは、

「おじいちゃん、『さいこーでーす』は、広島における『必死のパッチ』よぉ!」

と解説しておった。そういえば、確かに関西では知らぬ者はおらぬ「必死のパッチ」なんだけど、広島で知っている人は結構少ないんじゃないだろうか?「必死のパッチ」ってなんじゃぁ?と思った広島市民にみなさん。その気持ちが多分、広島県外の人が持つ「さいこーでーす」に対する気持ちだ!

たぶん、この手のプロ野球ネタは、12球団の数だけ存在するんだろうね。

アディオス!

2018年09月26日

件名 海外視察について

あのね、ロッティチャナイって知ってる?
マレーシアのネグリスンビランにシンパンペルタンて村があるでしょ。あそこのインド人のおじちゃんが焼くロッティチャナイの評判がいいのよねー。

我が研究室に所属した人の多くが行ったことがあるパソの森。その近くの村で食べられるロティチャナイ。私が好きだという理由で、毎朝、あれだけ飽きるほど連れて行ったので覚えている人も多いと思う。どうぞ、懐かしがってください。

焼いているおじさんも元気です。
あの頃まだ小さかった男の子も、ずいぶん大きくなりましたね!!

アディオス

 


2018年10月09日

件名 就業時間外の過ごし方について(3)

広島東洋カープが優勝したのが26日。私がマレーシアに経ったのは27日。つまり、私は優勝記念セールを逃したのである。で、そんなことはまぁどうでもいいんだけど、この日程のため私は、カープが優勝したことに起因する高揚した気持ちとともに出国と相成ったのである!

私は当然、
「広島カープのように広島空港を真っ赤に染め上げよう!」
と思い、きっと私と同じように思うはずの広島市民と同じように、真っ赤な広島カープの帽子をかぶって広島空港に向かった。

……空港について愕然とした。真っ赤な広島カープの帽子をかぶっているのは私だけ。いや、正確には私以外にもう一人、どこかの小学生だけである。同行する大学院生さえかぶっていない。まぁ大学院生とは、「赤い帽子をかぶっていこう」と申し合わせたわけではないのだけれども。

さらに空港のセキュリティチェックではこともあろうに、セキュリティから

「ツェッペリン、かっこいいっすね」

と赤い帽子の方は完全に無視で、レッドツェッペリンtシャツの方に突っ込みを入れられる始末。私はイラつきながら、「かっこええんは、カープの帽子のほーじゃろうが」と絡もうかと思ったのだが、気が弱いため、

「ツェッペリン、最高ですよね」

とへらへらしながら言うのがやっとだった。

皆少し薄情なのではないだろうか?昨日、本通りであれだけ騒いどったんは、なんじゃったんじゃ?

このアウェー感は羽田でさらにうなぎのぼり。空港の、あふれかえらんばかりの人ごみの中でさえ、赤い帽子を被っているものなど、私以外にいな......あっ!いたぁ!

人ごみをかき分け、やっとのことで同士に近づき、カープの優勝を分かち合おうとすると、どこはかとない違和感が……彼のかぶる帽子をよく見るとCではなくA。エンゼルズ。「おーたにさーん」の方だった。「おーたにさーん」の前でしばし呆然と立ち尽くしていると、「おーたにさーん」は一瞬だけ私と目を合わせ、その後すぐに人ごみの中に消えて行った。

カープ優勝の次の日なのに、この広い羽田空港の中でカープは私だけ……

皆少し薄情なのではないだろうか?昨日、本通りであれだけ騒わいどったんは、なんじゃったんじゃ!

アディオス!

2018年10月10日

件名 サトウヤシ(Arenga pinnata)からの砂糖生産

スラウェシ島で訪れた森の中には天然のサトウヤシ(Arenga pinnata)がたくさん生えていて、農家が天然のサトウヤシから砂糖を生産していた。

砂糖はサトウヤシの花序液から作られる。

砂糖作りを行っていた農家は、5本のサトウヤシから花序液を集めていた。花序液集めには雄花しか利用しない。地上10m位のところにある花序まで、竹の梯子が掛けてある。5本合わせると1日で、多分7リットルくらいは取れていた。雨季になると、この倍くらいとれるという。

 

高さ10m位の花序まで梯子が掛けてある。梯子を利用して花序にたどり着く。


花序液を集めるタケ筒。これを花序の根元に突き刺して花序液を集める。

 

 


とってきた花序液は、森の中にある出作り小屋でそのまま煮詰められる。薪も森から得られるから、材料代はかからない。砂糖が出来上がるまで数時間煮詰める。

山の中に突如現れる出作り小屋。この中で砂糖作りが行われる。

花序液は鍋で煮詰められる。このまま飲んでもかなりおいしい。お汁粉的な味。

攪拌に用いられているタケのザル


 

煮詰まってくると適当に攪拌する。攪拌のための特別な竹製の籠がある。

この作業の後、さらに30分くらい煮詰めると、鍋を窯の火から離して、余熱でさらに煮詰めていく。この間、すりこ木の棒みたいなので攪拌し続ける。さらに、鍋の横にできる砂糖の結晶は、専用の用具でシロップに戻される。


煮詰め続けるとこんな風になる

煮詰めた花序液を木枠に流し込む。




多分、すりこ木で攪拌した感じで決めていると思うんだけど、ちょうどよく煮詰まったタイミングで、シロップで木の枠に流し込む。木枠に流し込むと、ものの5分くらいで固まっていく。砂糖の出来上がり。固まるとすぐさに木枠から砂糖は取り出される。

羊羹みたいなのが、出来上がった砂糖

出来上がった砂糖をアルトカルプスの葉に包んで出来上がり!

 


一つの木の枠(羊羹みたいなのが2個できる)で、500円くらい。これが4木枠できるので、1日2000円の収入になる。

砂糖の味は黒砂糖っぽい味がして、めちゃくちゃおいしい!日本に持って帰って おやつに食べよう!

アディオス

2018年10月12日

件名 オウギヤシ(Borassus flabellifer)からの砂糖生産

そういえばミャンマーでも、ヤシから砂糖を作っていた。こちらのヤシはオウギヤシでサトウヤシとは別種だ。それに、オウギヤシは栽培されていて、畦の部分に特によく植えられていた。

砂糖を作っているところは見たことないけれど、オウギヤシから生成された砂糖、タンニャは結構どこでも売られていて、食後の楽しみだった。

オウギヤシの植えられたミャンマーの田園風景

オウギヤシから作られた砂糖菓子、タンニャ。



アディオス

2018年10月16日

件名 産学連携プロジェクトについて

今や天才科学者の称号をほしいままにし、世界の英知の一角を担う私ではあるものの、私の才能は何も科学界に限ったものではなく、実を言いますと商品開発力にも爆発的な破壊力を持っているのである。そこで今回は、これまであまり語られてこなかった私のビジネスパーソンとして活躍を紹介していこうかと思う。

で、私のビジネスの才については、御託をどれだけ並べるよりも、実際に私が開発してきた商品の歴史を紹介するほうが手っ取り早いと思うので、そのようにさせてもらいたい。

で、私の手がけたヒット商品の筆頭に挙げられるのはもちろん、玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」である。しかし、しかしである。万が一、玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」を知らない人がいる場合も想定して、先に商品を軽く紹介しておこう。

東京オリンピック誘致の際、滝川クリステルさんが「お・も・て・な・し・おもてなし!」と振り付けで言ったのは2012年のこと、もうすでに懐かしい。その時、まだ生意気真っ盛りの私は、国際学会の口頭発表で、「お・も・て・な・し」をやったら、きっと面白いに違いないと失考し、あろうことかそれを敢行してしまったことがある。つまり、

『皆様の温かいホスピタリティに、とっても感激しちゃいました。日本では、あなた方のような善行はこう表現されています。
「お・も・て・な・し・おもてなし!」』

と......

わたしの「お・も・て・な・し」は、まさに、滝川クリステルさんが舞い降りたような完璧な振り付きの「お・も・て・な・し」であった。ああ、あなたにも見せてあげたい。

……私は、あれだけ連日、日本中で繰り返し報道されたくらいだから、世界中の人が、「お・も・て・な・し」を知っていて、その結果、私が繰り出す「お・も・て・な・し」により、会場中が割れんばかりの大爆笑に包まれることを期待していたのだが、こともあろうか会場は無反応。静まり返ったままなのであった。会場のほぼほぼすべての聴衆が、「なんじゃあれ?」という表情を浮かべていた。

「しまったぁ、やってもおたぁ」と、ステージ上で泣きそうな顔をしていると、学会開催地が社会主義国であり、そのお国柄なのか、前方に座っていた、結構いかつい、立場がかなり上そうなおじさんが急に立ち上がったかと思うと、私の「お・も・て・な・し」に向かって、これ以上ないくらいのおっとろしい顔とともに、なぜか大きくうなずきながら拍手を始めるものだから、それに引き続き会場は何を称賛したか分からない(多分、おっとろしい顔とともにうなずきながら拍手するおじさんを称賛しているのだろうけど)割れんばかりの拍手に包まれ、私としては「お・も・て・な・し」のあと十数秒後に沸き起こった拍手に対してどう反応すればよいか分からず、とりあえず私も前方のおっとろしい顔をしたおじさんの顔まねで大きくうなずきながら、自らも拍手の輪に入るという行動でその場を何とか乗り切った記憶がある。その後の発表が苦痛以外のものでなかったことは、想像に難くないだろう。科学者は、発表だけして帰ればいいことをこの時身をもって学んだ。あの頃の私は、若かった。

で、以上の逸話は、私が開発した玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」とは全く関係ない。

テレビを見ていると、玄関芳香剤のCMが結構多いことから、玄関のにおいにお困りのご家庭が極めて多いことをうかがい知れる。この弱みに付け込んだのがこの玄関芳香剤、「お・も・て・な・し♬」である!

普通の玄関芳香剤を5倍に薄めた玄関芳香剤が詰め込まれた玄関芳香剤が「お・も・て・な・し♬」だ。なぜ5倍に薄めるのかというと、その謎は使用方法に隠されている。つまり、玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」は「お・も・て・な・し」と言いながら、すべての音に合わせてトリガーを引く、つまり一回の使用で5回分噴出する制度になっているのだ。普通の玄関芳香剤を5倍に薄めたものなのだから、5回トリガーを引けば、普通の玄関芳香剤と同じ効果が得られるというわけだ!つまり、玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」を使うだけで何と、滝川クリステルさんの振り真似が再現できるという代物なのである!!!

なんじゃ、それだけか?と思ったそこのあなた!なんじゃ、それだけです。

ただただ、それだけなのですが、それだけがすごいのです。つまり、美しい理論は往々にして驚くほど単純なものなのです。そして、商品開発にも同じことが当てはまるのです。単純なものが強い!

で、そのすごさを紹介しよう。まず値段設定!普通の玄関芳香剤の半額まで落とす。ただし、普通の玄関芳香剤を5倍に薄めた芳香剤なのだから、これでも十分元は取れる。というか、儲かる。普段より2.5倍儲かる計算だ!それに、価格が低く設定されているのだから、価格競争に有利となる。大きさが同じ容器ならば、半額の方を取るのが消費者の心境なのである。こうした最先端の販売心理学の要素も組み込まれているのが玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」なのである。

玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」のすごさの秘密は、値段設定だけにとどまらない。実は、更新頻度の高さがこの芳香剤の一番の秘密であり、セールスポイントなのである。つまり、飛ぶように売れる。売れ続ける。

だって一度に普通の芳香剤の5倍使うわけだから、普通の芳香剤の5倍速く無くなるじゃーん!

……それだけでない。それだけではない理由は、「お・も・て・な・し」のインプリンティング効果に求めることができる。つまり、お母さんは玄関先で、滝川クリステルさん気取りで「お・も・て・な・し」をする。それを見ていた子供たちは、われ先にと「お・も・て・な・し」をする。子供の数だけ「お・も・て・な・し」が発生することになり、無駄に玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」が、急速に減っていくのである。嫌、無駄ではない。玄関に素敵な香りを残して減っていくのである。だから、罪悪感など覚える必要など全くないのだ!

ここまでいいことずくめの玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」なのだが、正直に言うと、商品開発にまでは至ったのであるが、残念ながら商品化にまではこぎつけられていない。だから、一般の人はこの商品をまだ見たことがないはずだ。というのも、この話は当時の研究室の大学生、大学院生にもれなく伝え、

「君たちの使命は、社会に出て、堅実に働き、玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」を商品化することである。いつか私が何気なく入ったウォンツ(広島県におけるドラックストアです)で、陳列台に並んだ玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」を偶然発見し、涙したいのだ!頼む!涙させてくれ!あとはよろしく!……解散!」

と使命を与えたにもかかわらず、その当時の卒業生たちは全員、環境コンサルタント業に就職してしまったのである。たぶん彼らはもれなく、就職した環境コンサルタントで玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」のプレゼンはしてくれたと思うのだが、その企画が会議を通らなかったのだろう。だって、環境コンサルタントなのだから。

個人的には、もう一度だけ、つまり2020年のオリンピック時に、玄関芳香剤「お・も・て・な・し♬」の商品化のチャンスがやってくると思うのですが、そういった製品を開発、展開される企業の方がもしこのブログを読んでくださっていた場合、どうぞジャンジャン開発して、ジャンジャン儲けてください。環境コンサルタントに就職した卒業生たちも、きっとそうして欲しいと思っているはずです。なんならば、滝川クリステルさんと一緒にCMに出てもよいと思っているほどでございます。

で、儲かった暁には、研究費を少しでいいから分けてください。

アディオス!

2018年10月19日

件名 海外における体調管理について

この仕事、合っているのだろうか?

インドネシアのホテルにて、激しくおなかを壊しながらぼんやり考えている。何かを食べると、それが姿を変えて30分後には出てくる不思議なおなかを手に入れてしまったのだ。しかも、出てくるのをとめられない。

多分、病院に行かなければ治らない。でも、病院に行って抗生物質をもらえさえすれば、直ぐに治る......はず。

なぜこんなに確信めいて発言するかというと、同様の症状にこの前にもなったから。ミャンマーに初めていった時のことだから、2014年だったはずだ。あの時もミャンマーでの視察中に激しくおなかを壊し、それからというもの、不調はミャンマー滞在中ずっと続き、帰国後、病院に行くまで直らなかった。病院では点滴やらなんやらと結構な治療をしていただいた。

先生によると、まぁ、どこにでもある(日本にもいる)食中毒菌にやられてしまったらしいだけのことなのだが……。で、その時先生は、「これは抗生物質飲まないと直らないねぇ」、と教えてくださっていたのだ。

その時の症状と今回は同じだ。4年に一度、おなかを激しく壊す。そして、病院に送られる。うーん、頻度としては結構な高さのような気がする。もしかして私は、あの食中毒菌にものすごく敏感なのかもしれない。そういう人っているのかなぁ。

アディオス

2018年10月25日

件名 海外の大学との連携について

昨日もタフだった。

私のオフィスは東広島市というところにあるんだけれども、広島大学は東広島市以外にも、例えば広島市内にもキャンパスを持ち、そこでも教育を行っている。東広島キャンパスと広島キャンパスは結構離れている。

で、昨日は広島キャンパスで夜間の学生を主たる対象とした講義があり、しかもその前に東広島キャンパスで会議があったため、会議に出た後、急いで広島市に移動というあわただしいスケジュールをこなさないといけなかった。

で、講義が終わったのは夜7時30分のことだったんだけど、講義が終わった開放感からか、普段はしないことをしてしまったのである!その顛末をご報告差し上げようと思う。あまり起こらない出来事が起こったのだから、必読だ!

広島キャンパスから広島駅に帰るために私は“電車”に乗る。広島において、“電車”といえば、広電であり、市電・トラムのことを指す。

で、広島キャンパスから広島駅への電車なんだけど、本通りやら八丁堀やら流川やら、広島で一番にぎやかなところを通過するルートになっておる。

で、彼らは袋町か本通りから私の乗る電車に乗り込んできた。インドネシア人に見えた三人組だ。そのうちの一人が、偶然私の席の隣に座った。

で、冒頭の「普段しないこと」とは、人に話しかけることである。私はこともあろうか、隣に座ったご婦人に、

「あんた、インドネシアから来たんかいな?飛行機落ちてしもうたけど、お気の毒じゃのぉ」

と話しかけてしまったのだ。レアァー。

ご婦人は、少し驚いた感じだったけど、

「こっちに来てるから、あんまりニュースが届かないの。だから、あまり飛行機事故知らないの」

と丁寧に答えてくれた。結構、上手な英語を使っていた。で、広島駅に着くまで話しをしていたら、徐々に彼らの正体が判明していった……実は、知ってる人だった。

思い返すと数週間前、学内のとある先生から、「広島大学と提携のお話をするために、インドネシアの大学の先生が来学する予定になってるけど、あんたも会う?」というお誘いが来ていた。結局、会議と講義のためにお会いすることを断らざるをえなかったけど。

で、電車の中でご婦人と話を続けると、彼らがそのインドネシアの大学の先生たちだったことが判明した。まじっ!?

セレンディピティ

偶然乗合わした電車の、偶然隣に座った、(いつもしないけどなぜか)話しかけたご婦人が、会うはずだった人。

広大との連携がうまく取れることをお祈りいたします。

アディオス!

2018年11月01日

件名 海外における体調管理について(2)

1990年代の後半だった。
私はポスドクをしていた。
その時のボスは私とともに、今回調査に来ているマレーシアの森で調査をしていた。いや逆だ。私がボスに連れられて、ボスとともに私が調査をしていたんだった。主体はあくまでボスだった。

で、その時のボスなんだけど、この森に着くと大概、直ぐに耳から粘液を出していた。

耳から粘液を出す。

その姿はその姿でおっとろしいんだけれど、ボスはそれを気にともせず、「耳などなんともない」という感じで毎日毎日ハードに調査を行っていて、正直、そういうボスの人格の方がおっとろしかった……「少しは気にしろよ!」……言えなかったけれども。

で、耳から粘液を出すボスは、
「耳から液が出ると集中できん!」
と叫んだかと思うと、耳にガーゼを張り付け、それで日常を過ごすようになっていた。私は、「耳から液が出ると、集中できないんだ!」と耳と粘液と集中の間の奇妙で複雑な三極対立関係について学んだのであった。ポスドク時に学んだ重要な事柄の一つだ!

で、耳にガーゼを付けたボスなのであるが、日に日に症状が悪くなり、耳から粘液を垂らすだけでは止まらず、なんと顔全体が腫れ上がれ、「いい加減、休むなり、病院に行く方がいいんじゃないだろうか?」と心配する私をしり目に、ボスは黙々と調査を続けるのであった。ボスの人格は本当におっとろしかった。

で、今日、ベットで寝ているとき、耳には全く違和感がなかったんだけど、なんかのはずみで手が左耳に触れることがあり、その時愕然とした。左耳から粘液がだらだら出ている!

左耳から粘液が出るものの、耳はかゆくもなければ痛くもない。粘液が出るだけで、他に支障はきたしていないのである。ただ、ただ耳から粘液が出る。

翌朝になって、調査の準備を続ける私の耳からも、だらだらと景気よく粘液は出続けた。耳から粘液が出ると集中して調査の準備ができない。私は、
「耳から液が出ると集中できん!」
と叫び、左耳にガーゼを付け、その後いつもどおり調査地へと向かった。

自分の姿は20年前のボスに重なるものだった。ただただボスと違うのは、正直に白状すると、「ボスみたいに顔全体が腫れ上がったらいやだな。他に症状が出たら、速攻で病院へ行こう」と将来を恐れていた点である。

……読者の皆さんの期待を裏切って申し訳ないのですが、残念ながら顔全体は腫れ上がりませんでしたが……

アディオス!

2018年11月07日

件名 海外における体調管理について(3)

マレーシアで“耳だれ”に悩まされた私は、実は帰国後も時々耳から粘液が出続けていて、しょうがなく本日、耳鼻科のお世話になった。

で、耳鼻科に行きながら、「マレーシアで病院に行くこともあり得るな」とも思い、とは言え、「英語で“耳だれ”ってなんていうんじゃろ?言えんかったら、病院行きにくいな」とも思い、家に帰ってから“耳だれ”の英語表記をググることとした。

で、ググって驚愕の事実が判明した。「耳だれ 英語」の検索ワードにより召喚された単語は、


Ear Who


耳誰?


……まさかの、ダジャレ……

アディオス!

2018年11月13日

件名 正規講義時間以外のチャイムについて(2)

最初にお断りさせてください。今日のテーマも、重い。

学年が上がり 娘の塾の終わる時間がさらに遅くなった。
9時半だ。

で、9時半に迎えに行くんだけれども、お迎えには、ひそかな楽しみもある。

もう、皆様はお気づきのことと思いますが、11月に入ると直ぐ、毎年恒例となっているクリスマスツリーが広島駅に飾られた。もちろん、今年のツリーも美しい音色を奏でるガジェット付だ!

ただ、去年と違う工夫も施されている。音色を奏でるスイッチとして、去年は鐘をカーンとやるシステムを採用していたのだけれども、今年は、指定された場所に手をかざすとアラ不思議、音楽が流れ始めるというからくりになっているのである!まるで、魔法を使えるようになったかの錯覚に陥ってしまう、マジカルツリーに仕上がっているのだ。

で、10時に指しかかろうという時間に通る広島駅で、クリスマスツリーに音色をかなでさせ、その音色により魂を洗ってもらうのが二人のひそかな楽しみなのである。

で、昨夜、娘と順番を待っていたのだけれども、だいぶ人もまばらとなった夜10時なので、あまり待つことなくして二人の順番が回ってきた。

で、この親子は音楽を奏でさそうと、指定されているあたりに手をかざした。手をかざしたのだけれども、接触が悪いのか、なかなか音楽が始まらない。二人は、「そこでもない、ここでもない」と見えないスイッチを、文字通り手探りで探していた。

二人の手、つまり4本の手が交差する中、何の前触れもなく、少し渇き気味の手がニューっと入ってきた。私はひどく驚いて、自分の手を引っ込めた。娘もそうした。そして、私は手の持ち主を確認した。すると、気づかぬ間に、私の直ぐ隣にご婦人が立っていて、私たちに混じってスイッチ探しを始めていたのである。

私は、そういうことはすべきでないと思っている。この親子が奏でるのを待てば、直ぐに自分の順番が回ってくるのだから、ちゃんとおりこうに順番待ちをすべきなのである。ご婦人の行動は、横入り以上の暴挙にしか私には思えなかった。

ご婦人は、そんな二人を後目に無言の真顔でスイッチのあたりをまさぐり続け、ほどなくしてクリスマスツリーはそれに反応した。

音楽を奏ではじめたクリスマスツリーの前で呆然と立ちすくんでいると、ふと、このナゾの出来事を統一的に説明できる理論が頭の中に浮かんできた。まさに『降りてきた』という感じで……

つまり、こういうことなのである。

私のような人間に、あの至福の音楽を楽しむ資格があるのか考えてみればよい。そして、その問いに対する答えは残念ながら、私以外の民にとっては、 “否”なのである。

「私などには、至福の音楽に預かる資格などない。私が奏でるくらいならば、私以外の誰かが奏でるほうがずっとましなのだ」

民は、少なくともあのご婦人は、そう判断したのだ。理由は釈然としないものの。

私は、なぜに、私にとっては不当と感じられる扱いを、当然のように受け入れないといけないだろうか?

そう思うと、その場にいられなくなり、きびすを返して、無言でクリスマスツリーを後にした。

突然いなくなった父の態度に非常事態を察した娘が、後ろから走ってきて、

「ひどいね。でもね、今日こんなに嫌なことがあったんだから、明日はきっと、倍のいいことがあるよ」

と励ましてくれた。それを聞きながら、もう一日だけ、もう一日だけ、がんばってみようかな、と思っていた。明日は、いいことがあるよね!

アディオス

2018年11月19日

件名 (周知依頼)倫理教育の実施について

「善く生きる」
みんな、「善く生きたい」、と思っている。
そして、「善く生きるとは何だろうか?」、と結構悩む。
人として満足して生きぬくための永遠のテーマだろうし、果てしの無い問いだろう。

で、この前、公園でボール投げしたあと、家に帰るまでの道すがら、上の娘と「善く生きる」ことについて議論しながら帰った。善く生きることを話すチャンスは、どこにだってあるんだ!

私たちは知らず知らずのうちに、ヒトとそれ以外の生き物を区別し、ヒトを特別扱いして考える。ヒトとヒト以外の間の差別は、業界用語で、「種差別」と呼ばれている。差別はよくない。

娘に、「その考えって、(種)差別じゃない?」と気づいてもらうために、歩きながら 次の議論を吹っかけた。

想定した議論の概要はこんな感じだ。
溺れる命が4つある。みんなもう、死にかけているように見える。しかし、あなたには彼らを助ける力がある。しかし、全員を助けることは、たとえあなたにも叶わない。あなたが助けられる命はたった1つだ。
4つの命を見ると、ヒト以外に動物(例えば犬やネコ)がいる。ヒトだけじゃなく、犬やネコも溺れているのだ。さぁ、あなたならば誰を助ける?

この状況で、ヒトではなく動物を助ける人は少ないのではないだろうか?では、どうして私たちはヒトを選んでしまうのか?動物が選ばれないのは、差別じゃないのか?
こんな議論を展開しようとして 娘に話しかけた。

私:「大勢の命を乗せた船が、沈んじゃったのよ。」
娘:「えっ?いつ?誰か死んじゃったの?」
私:「いや、現実に起こったんじゃなくて、例えばそういうことが起こったって想像して」
娘:「あー。現実じゃないのね。よかった。じゃあ、タイタニック号みたいなのを想像するのね。OK」
私:「で、あなたはそこに救助に来た。でもあなたの救助船には、もうあと一人しか乗せられない」
娘:「えっ!?わざわざ救助に来たのに、一人しか助けられないの?それじゃダメじゃない」
私:「まぁ、ダメなんだけど……ほら、お前なら、いかにもやりそうじゃん。そういうこと」
娘:「えっ。意味不明。私だったら絶対もっと大きな船で助けに行くけど!」
私:「わかったよ。だけど、諸般の事情って言うか、大人の事情って言うか、まぁ、その小さな船しか手に入らなかった、ってことにしてくれ」
娘:「……わかったよ。で?」
私:「そうそう、で、海にはおぼれかけたものが4命。
女の人 80歳
男の人 70歳
男の犬 2歳
女のネコ 生後半年
で、誰を助ける?」
娘:「おばあちゃん……と犬とネコ」
私:「だから、一人だけだって」
娘:「おばあちゃん乗せても、犬と猫くらい乗せるスペースあるでしょ!」
私:「だから……おばあちゃん、すげぇでかいんだよ。100kgもあるから。おばあちゃん乗せたら、あと無理なんだって」
娘:「じゃあ、おじいちゃん……と犬とネコ」
私:「だから、一人だけだって」
娘:「犬とネコのスペースくらいあるでしょ!」
私:「だから、おじいちゃんもすげぇでかいの。150kgあるから。おじいちゃん」
娘:「150kg乗せても大丈夫なら、100kgのおばあちゃんと犬とネコ乗せられるでしょ。50kg以上の犬やネコは、まずいないよ。」
私:「……おれは……俺は算数の勉強がしたいんじゃないんだよ!正義について議論がしたいんだよ!……全く、頭ばっかりよくなりやがって、すぐに合理的に考えやがる。ちょっと前まで、俺よりぜんぜん頭悪かったくせに」
娘:「お父さん、その言い方、気をつけたほうがいいよ。少し傷ついた。ぜんぜん正義じゃない!」

正義を教えてやるつもりが、娘から正義を教えられる羽目になるとは……

アディオス

追記。
この状況ならば、多くの場合、ヒトを救助することを選択すると思う。ヒトを差し置いて犬やネコを助けようとは思う人は少ない。でも、どうしてヒトを助けて動物を助けようと思わなかったのだろうか?同じ命なのに……それって動物を差別してるんじゃない?それとも、ヒトは他の生物からは区別される特別な存在なのか?もしそうならば、区別できるのならば、その合理的な区別の理由は何だ?そもそも、あるのか?ないなら……差別?と、こうして延々と議論がしたかったのです。そして、「お父さんすげぇ」と、父の威厳ぶりたかったのです。

2018年11月27日

件名 空港の利用方法について

シンガポール空港で12時間ですか…

旅程を組んだ時から知っておったし、それを受け入れての旅程であった。「12時間もあれば、シンガポール観光だってできるかもしれない」なんてのんきなことを考えていたのだが、インドネシア出国前日に激しくおなかを壊し、今はとても観光する気分なんかではないのである。

で、12時間シンガポール・チャンギ空港に缶詰になる覚悟を決めたのではあるものの、焦燥感・悲壮感と言ったものは全くない。なぜならば、私は生意気にも空港内のラウンジ利用の資格所有者なのである。さすが教授!さすが、HSC(ハイパーサイエンスクリエイター)!まぁ、ラウンジでゆっくりしてれば、12時間くらいすぐ経つに違いないと思っていたのである。

で、痛いお腹をさすりながら、インドネシアの空港で飛行機を待っている最中に大変なことに気が付いた。ラウンジの会員証を持ち忘れたのである。今までは空港ラウンジなんて使ったことがなく、まぁ宝の持ち腐れ状態で、持ち歩かなければならないほど大切なものという認識が全く欠けていたのである。私の会員証は機内預け荷物の中にあり、預け荷物とは福岡空港まで再開できない。

ああ、困った。人生に数度でしかないであろうラウンジを使うチャンスなのに、会員証を忘れては入れないとは…どうしてもあきらめることができない私は、機内に案内されてから、客室乗務員に事の顛末を説明し、荷物を取り戻せないか相談してみた。すると、「シンガポールの空港で、シンガポールエアラインのカウンターで聞いてみればよい」と以外にもポジティブな回答を得ることができたではないですか!「聞いてみるもんだなあ」と、涙ぐんでうれしんでいると彼は、「ただ、期待しないほうがいいよ。預けちまった荷物取り出すのは大変だからね」と忠告してくれた。どうやら彼は「上げてから落とすタイプの人」であったらしい。

で、シンガポール・チャンギ空港に着くや否や、言われた通りカウンターで窮状を相談すると、「わかりました。お取りいたしましょう。そのかわり、一度シンガポールに入国し、入国審査の後にあるバケージクレイムで荷物を受け取ってくださいね。荷物はロスタンファインドで受け取れます」とアレンジしてくれた。問題は何も無い。なにせ、私はもてあますほどの時間(12時間)を持っているのだから。

ロスタンファインドでは、荷物を紛失した先客のいかつく、大きなインド人系の輩が、やや心配そう、かついらいらした感じで、事務員の対応を受けていた。彼の対応に結構手間取っていたのだけれども、15分と待たずに私の順番がまわって来た(その間に順番抜かしをしようとしたうら美しい女性が現れたのだが、事務員は、あいつ(私)の方が先!と毅然とした態度で彼女を退け、「ああ、まともな人が相手をしてくれるのだなぁ」、と安心したのであった)。

で、彼女に事の顛末を知らせると、

「○○番カルーセルから荷物が出てくるけん、そこで荷物を取りんさいや。ほいでもって荷物とともに、ここに戻ってきんさいね。15分から20分くらいじゃけぇ、たいしたことないけぇ」

と指示を与えてくれた。

意外に早いじゃないの、と鼻歌を痛いながら、彼女の言う通りのカルーセルで待ってるんだけど、20分どころか、1時間たっても荷物が出てこない。「こりゃあまいったなぁ」、と思っていると、私の対応をしてくれた彼女もなかなか現れない私を気にしてくれたのだろう、何度も私のところに来て、

「いましがた電話し直したけぇ。荷物はもうすぐ来るさいね」

と励ましてくれる(こういう面倒見がいいというか、アフターケアを頼まなくてもしてくれる人は海外であまり見たことはありません)。まぁ、毎度、彼女のこの読みも大きく外れるのだが…。結局待つこと2時間で荷物と対面でき、無事会員証に再開できたのであった。

さて、私が手にした会員証は絶大なパワーを持っていた。なんと、とある日本食レストラン(の指定されたメニュー)が無料でいただけるのである。私は、牛肉生姜焼き定食なるものをごちそうしていただいた。

その後、空港ラウンジに入ったのであるが、驚いたことにラウンジには3時間しか滞在できないという。12時間滞在し続ける当初の予定は端から破たんしていたのだ。が、「もう荷物の引き取りで3時間位経っちゃってるし、まぁ、ラウンジで3時間も潰せるならば」と、とあるラウンジに入った。

さて、このラウンジであるが、セルフサービスでビールやワイン、ウイスキーやらの各種お酒が飲めるだけでなく、ソバやパン系のスナック類が食べ放題であり、食事の方だけでもホテルの朝食ビュッフェくらいの勢いがある。ただ、先ほどの牛肉生姜焼き定食で完全に腹痛をぶり返した私は、もう何も食べる気がしないので、今回は、スナック、ドリンクはスキップだ。

スナック・ドリンクを愉しめないとしても、シャワー室もあるし、インターネットはつなぎ放題なので、まぁ、十二分に、いやそれ以上に空港ラウンジを3時間堪能することができたのであった。空港ラウンジさいこー!

ただ、一つだけ忠告することが許されるならば、
「鞄の中に大切なものを入れたまま預け荷物にするものではない!」

アディオス

2018年12月06日

件名 空港の利用方法について(2)

広島空港からシンガポールに飛行機が飛んでいるの。

今からインドネシアに行くんだけど、この飛行機がとっても便利だから、まず広島空港からシンガポールに飛んで、そこからジャカルタへ行って、ジャカルタからマッカサールに向かうという旅程を組んじゃった。全行程17時間の結構長旅になっちゃうんだけどね。

で、海外旅行というものは、誰しものテンションをあげる破壊力を持っているようで、それは私の後ろの席でボーディングを待っているおじさん(といってもチラ見した限り、私よりかなり若かった)にもあてはり、見た目や声のトーンは、じぇーんじぇーんテンションが上がっているようには見えないものの、それでも彼のテンション最高潮のようで、なぜならば、朴訥ながら意気揚々とシンガポールの観光プランについて語りつづけているから。後ろの席から漏れ聞こえてくる二人のおじさん会話はこんな感じで……

おじさん1「わしゃのぉ、シンガポールに行ったら、アレ。アレが見たいんじゃけどね。アレ、見る時間あるんかのぉ?アレ、名前なんじゃったかのぉ?ラー…?ラー…..?何だったかね?ラーで始まるやつ?」

おじさん2「ラーで始まる観光名所?そんなもん、シンガポールにあったかいのぉ?」

おじさん1「じゃけぇ、わからんかいのぉ。ぶち有名なやつなんじゃけどのぉ。わしゃ、ど忘れしてしもうたのぉ。ほいじゃけぇ、ラー…ラー…少し思いだしてきたけぇ!!!ほいじゃけ、あれじゃラーマ…ラーマ…ラーマ…!?ラー・マイオン!」

……そりゃ、マー・ライオンじゃ。ラーから始まったら、一生、答えにたどり着かんけぇ。

みんなのテンション上がっている空港の雰囲気、好き。

アディオス

2018年12月11日

件名 空港の利用方法について(3)

海外旅行に出るたびに荷物がなくなるとです。

8月9日のことだった。私はその日、成田空港からジャカルタへ飛んだのであるが、当日、なぜか広島空港から羽田空港行のフライトしかなくって、羽田空港から成田空港はリムジンバスで移動することを余儀なくされたのだけれども、そのリムジンバスにあろうことかバックパックを置き忘れ、まぁ、バックパックの中は着替えしか入っていなかったはずなので、そのままバックパックはあきらめて、インドネシアで着替えを買いそろえようかとも思ったのだけれども、よく考えるとお気に入りのシャツを何枚か入れていたことを思い出し、それを失うのは嫌だなぁという気持ちが溢れ出してしまったものだから、一応バス会社にバックパックの回収が可能か問い合わせてみると、なんと親切に届けてくれると言ってくれるのは大変助かるんだけれども、届くタイミングが問題で、それはなんとか成田発のフライトに間に合うかどうかくらいらしく、正直に言うとたぶん間に合わない位になっちゃうだろうねぇ、と仰るのである。バックパックを忘れたのは全面的に私が悪いし、「じゃあ仕方がない、この度は大変ご迷惑をおかけした」とバックパックをあきらめ、いろいろ迷惑をかけた旨、できる限り丁寧にお詫び申し上げたところ、その後、成田空港からの飛行機出発が台風のため2時間遅れていることが判明し、結果としてバックパック回収が飛行機出発に間に合うというミラクルを演じたばかりだった。

で、本日9月17日、広島からシンガポール経由でジャカルタに着いたところ、なんと私の荷物はシンガポールに置き去りにされていることが判明し、でも心配なかれ、次の便でシンガポールからやってくるからと説明を受け、実はこちらはジャカルタから次の目的地であるマッカサールへの乗り継ぎ時間が迫っていたのだけれども、イライラしてもしょうがないかなぁと思い、言われた通りロスタンファインドのロビーで待っていたところ、1時間ちょっとで荷物は無事到着し、ぎりぎりのタイミングでマッカサール行の飛行機に間に合ったのであった。

で、マッカサールに到着したのは深夜12時30分だったのだけれども、マッカサール空港でもまたまたミラクルが発生した。荷物が到着しない。荷物はまだジャカルタにあるという…….でも心配なかれ、次の便でジャカルタからやってくると説明を受け、こんな深夜にまだ飛行機とんどるんかいな?と不安になりながらも、説明によるとあと30分くらいで必ず荷物は到着するということなのですが、その説明を聞いた後、なぜかもうこうして、一時間以上もロスタンファインドのロビーで、この記事を書きながら荷物の到着を待っているのである。

怒ってもしょうがないんですが、この場合、怒っていいでしょうか?

海外旅行に出るたびに荷物がなくなるとです。

アディオス

2018年12月20日

件名 質疑応答について

もうそろそろ、卒論発表会やら修士論文発表会、学会での研究発表会などが立て続けに開催される時期がやってくる。こうした発表会に出席するにつけ、いつも思うのは質疑応答の難しさである。というのも、どこからどう見ても、かみ合っていない風に見えてしまう質疑応答にちょいちょい出くわしてしまうからである。

「かみ合っていない」とは、会話としては一見成立しているようには見えるものの、その実、質問者の意図とは全く別ベクトルを向いた回答が回答者から続けられている状態を指している。いわゆる、蒟蒻問答。

とはいえ、こうなってしまったのは回答者のみに落ち度があるのではなく、ともすると質問者の方に問題があることが多いかもしれないのである。つまり、効果的な質問ができていないことが、質疑応答をかみ合わせない原因かもしれないということなのだ。賢い私は、効果的な質問が、議論の発展にどれだけ重要性かについて、かなり小さいときから認識し、かつ慎重に検討していたのであるが、今回はその認識に至らせた経験を紹介しようかと思う。

あれは、小学校の低学年だった気がする。社会科のテストで、

「イカ釣り漁船はなぜ夜に灯りをともすのでしょうか?」

という問題に遭遇したのだ。

私が育った愛知県における知多半島、その付け根の街には、“知多半島”にもかかわらず海がない。それに、そもそも知多半島ではイカ釣り漁は盛んではない。にもかかわらずイカ釣り漁船に関する知識を履修するのには、きっと何か深い理由が隠されているはずなのだろうが、それは今回の主題ではないし、そこまで暴露するのはこのブログの範疇を超えるというか、荷が重すぎるので、それについては皆さんが独自に専門書などで調べてもらえればと思っている。

さて、どのような理由が隠されているか釈然とはしないものの、とにかくこの問題が与えられてしまったのだ。

そして、小学生低学年の私は、この問題を前に激しく動揺した。たぶん、先生が求めている方の理由(答え)は授業で教わっていたはずだ(さもないと、出題されないだろう)。しかし、いつものように話半分で授業を聞いた私は、イカ釣り漁船の話を聞いた覚えが全くなく、本当の理由が思い浮かばなかったのだ。ただただ、

「夜に灯りを付けるのはあたりまえじゃろ。山田家だって、夜に灯りをつけるわい」

と思ってしまったのである。至極当たり前のことを聞く先生の気持ちが全く分からず、ともすると、

「先生はお狂いになられてしまったのか?」

と勘ぐってしまうほどだった。

そのころの私は恥ずかしがり屋さんで、テスト時間に手を上げて

「先生、お狂いですか?」

と出題に対する質問をすることなどできなかったのだが、この点については、

「恥ずかしがり屋さんでよかったなぁ」

と今となっては心から思っている。

しかし、実は直ぐさに

「きっと先生がお狂うはずがないだろう」

と思いを改め、

「では、彼はいったい何を求めているのか?」

と再び問題に向き合うこととしたのであった。

さて、答えに窮した私は、山田家が夜に灯りを付ける理由をヒントにそれを探ることした。その結果、解答欄には

「夜は暗く、灯りをつけないと危ないから」

と書いたのではあるが、ほどなくして

「これじゃない。こんな解答を先生は期待していない」

と思い直し、解答欄にあるこの答えを景気よくもみ消し、代わりに

「暗いとお化けが出そうで怖いから」

と書き込んだのであるが、どうもこれもしっくりこない。と申しますのも、相手はイカ求めて荒れ狂う海に出るほどの豪傑のはずで、よしんば彼が本当に

「お化け怖いな、灯りつーけよーっと」

と思ったとしても、立場が立場なだけに、お化けが怖いために灯りを付けたとはさすがに言えないだろうと思ったからである。彼は豪傑な自分を演出しなくてはならないはずで、”お化けが怖い”はその演出には貢献しない。っーことは、これもなし。

なぁーんてことを考えているうちに妙案が浮かんだ。そして、解答欄には

「昼に灯りを付けてもしょうがないから」

と書き込んだのだ。問題文の“イカ釣り漁船”をフィーチャーするのではなく、“夜”の方にフォーカスした答えだ。

もし私が、「夜は暗く、灯りをつけないと危ないから」とか「暗いとお化けが出そうで怖いから」と解答していれば、先生は容赦なく×を付けられただろう。一方、私の答えはというと……×が○に、○が×に何度も訂正された後、最終的には○になっていた。

全くかみ合っていない質問と解答なのだけれども、形式上は成り立ってしまっているのである。

この経験をもって、効果的な質問とは何か?が私の人生の指針、座右の銘となったのであった。たぶん、イカ釣り漁船問題の場合は、

「イカ釣り漁船は何の目的で夜に灯りをともすのでしょうか?」

が正解の質問文だ。

で、学会発表時などの質疑応答では、この聞き方ではだめだ、とか、そう質問しちゃだめだな、などと思っているうちに質問時間が過ぎ去ってしまい、結局、肝心の質問ができないことが多いのである。

学会会場でもじもじしている私を見たら、それはおしっこに行きたいわけではなく、質問の方法に悩んでいると思っていただければ、うれしゅうございます。

アディオス!

2018年12月25日

件名 冬期休暇取得のお願いについて

冬休みが始まってしまった。

とはいえ……とはいえである。
このままぐずぐず過ごしていては、あっと言う間に冬休みが終わってしまうことだろう。一方、私はというと、素敵な冬休みを、有意義に過ごしたいと切に願っている。そこで、冬休み一日目の特別企画として、映画を見に行くことにした。映画……「素敵な冬休み」のキックスタートに最適なガジェットだ!

で、鑑賞した映画の情報を提供する前に、伝えておくべきことがあると思うので、迂遠にはなるものの、そこから始めさせていただこうかと思う。

もうかなり前のことになる。5年とか6年前。その頃は、配属先の研究室選びをしている学部3年生を集めて、教員が研究内容をプレゼンするという「研究室紹介」と呼ばれる儀式があった。で、なぜか私はその儀式で熱く、好きな音楽家について語ってしまったのであった。講義内容はもちろん、レッドツェッペリンとクィーンだ!

レッドツェッペリンとクィーン……実は両方ともリアルタイムでは経験したわけではない。いや、クィーンの方は、ぎりぎり活躍を直で拝見できたんだけど、生で見れたのは、レディオガガとかブレークフリーくらいで、当時、中学二年生の私は、「なぜ、このひげ面のおじさんはすぐに裸になるのだろう?」という感想くらいしか持っていなかった。

さて、ここまで読んだ皆様はきっと、「中学生の頃にクィーンを見たからと言って、それを理由にフアンを語るのはいかがなものか? これは、フアンフアン詐欺に該当する卑劣な行為なのではないだろうか?」と遺憾の意を表されたことかと思うのであるが、それについては残念ながら、至極当然な反応、まっとうな指摘であると、私自身認識しているところである。「先生、ご意見ありがとうございます。ご指摘、ごもっともでございます」と言ったところだ。

実は、私とクィーンの間には、「中学生の頃に聞いた」以上の関係があるのだ!聞いてほしい。

そう、確かに中学時代に、クィーンに傾倒した記憶はない。バンドの一つという認識でしかなかった。実はそんな気持ちは、大学4年生まで続いていた。

大学4年生だった頃、フレディーが死んだ。フレディーの死はそれなりにショックだったけど、クィーンのフアンでも何でもなかった私にとっては、「それなりにショック」程度の出来事でしかなかった。

で、フレディーが死んでほどなくして、同級生がクィーンのCDを研究室に持ち込んできた。で、

「山田君、クィーン聴こうや」

と言うのである。私は少しうろたえた。というか、嫌だった。その当時の私は、特にさしたる理由はないものの、「クィーンはダサい」と思い込んでいたのである。

「クィーンってレディオガガの人でしょ。今更クィーンって……ダサいからやめようや」

と、丁寧にそのオファーを峻拒した。すると、その友人は、

「俺らにとってクィーンはレディオガガだけど、クィーンがすごかったのは、それよりずっと前だったらしいぜ。クィーンが一番すごかったころのCDだから、聴く価値あるって」

と、無理からCDを流し始めた。ボヘミアンラプソティだった。

流れ始めたボヘミアンラプソティは、どこかで聴いたことがある曲だった。しかし、ちゃんと聴いたのは、この時が初めてだった。

……衝撃だった。そして、正直、今聞いたものが何だったのかわからなかったのだ。「ガリレオ ガリレオ」って言ってたし……「マンマミア マンマミア」とも言ってたし……

これは、(確か中学校の時)友達に初めてエッチな本を見せてもらった衝撃に匹敵するものだった。初めてエッチな本を見たあと、私が友達に発した一言は、

「もう一回見ようや」

だった。そして、ボヘミアンラプソティを聴いた後、私は同じことを言っていた。

「もう一回聴こうや」

で、その後、ボヘミアンラプソティを6回立て続けに聴いた。7回目に友達が、

「もうそろそろよそうや」

と言ったので、それ以上聴くのをやめたのだけれども、6回聴いても、それがなんであるかはわからなかった。

振り返って、今言えることが二つだけある。まず一点目は、それが“ボヘミアンラプソティ”だということ。そして残りの点は、エッチな本は6回も読み返さなかったことだ。私とボヘミアンラプソティのファーストコンタクトは、私とエッチな本のファーストコンタクトを凌駕していたということだ!

それからというもの、私はクィーンのフアンを語るようになったのである!

で、映画を見終わった今、熱い決意を抱いている!

来年は、口ひげを蓄え、白いタンクトップを着て、棒みたいなのがついたマイクを持って講義をしようかと思う!

アディオス!

2019年01月04日

件名 新年のご挨拶

まぁ、夢なんて支離滅裂だし、落ちがあるわけでもないしで、人から夢の話を聞かされると辟易することが常なんだけど、夢を見た本人の方はなぜか夢の話をしたがるもので、結果として聞かされた方は、「へぇ~。すごいですね」くらいの感想を言うのがやっとなのである。で、これについては、たとえ夢が初夢だとしても御多分に漏れないのである。

で、今から私が見た2019年初夢の話をするので、覚悟して読んでほしい。例の如く支離滅裂な話が続くわけだから、これ以上読み進めない方が身のためではあるものの、それでも、読む?じゃあ、止めないけど…… 酷いよ……よろしおすか?



私は 片側一車線の道路の路側帯にいた。路側は舗装されていなくって、土があらわになっていて、乾いた土が大型車が通るたびに舞い上がっていた。路側帯は結構広くって、片側3mくらいあった。そんなところに突っ立っていた。交通量は結構あって、乗用車やら、トラックやらが、まぁまぁ走っていた。まぁまぁというのは、結構なタイミングで、車列が途切れる時間があったからで、ひっきりなしに車が通るような状態ではなかった。

路側帯の奥は、ゴムのプランテーションのような森だった。つまり、私が日本にいるのか、異国にいるのかは定かではない。

不意に私の背後の森の方で、ごそごそと音が鳴ったものだから、私は音のなる方に振り向いた。すると、そこに結構立派なイノシシが、一匹おった。イノシシは私から多少、たぶん10mくらい離れていて、そんなに怖くはなかった。

「イノシシ出てきよったなぁ」と思って見ていると、イノシシは道路を横切るつもりだろうか?道路に向かって走り出した。

ちょうど車が途切れていた時間だったから、たとえ車道に入ったとしても、このタイミングならば車に引かれる気配はない。このイノシシは、ちょいちょいこの道を横断しているのだろうか? 

道路に出たイノシシを凝視していると、イノシシは道路に猛進し、なぜか、中央分離帯のところで、景気よく横転した。中央分離帯は畝上になっていて、そこに足が引っかかってしまったようなのだ。

おなかを出しながら、もんどりうった見事な転倒に、大笑いしていると、おもむろにイノシシは起き上がり、今度は右車線に入り、道路沿いに、車が走行する方向とは逆向きに猛スピードで走り始めた。右車線前方は小高い丘になっていて、それを登り切った先は、私の位置からは見えなかった。

イノシシは早かった。あっという間にイノシシは丘の向こうに消えて行った。私はというと「イノシシ、逆走しとるのぉ。このまま走り続ければ、遅かれ早かれ対向車に衝突する運命じゃのぉ」とは思ったものの、猛スピードで逆走するイノシシに対して、なす術がなかった。

そのすぐ後だった。岡の向こうから、“ダダダダダッ”というけたたましい足音とともにイノシシがものすごい勢いで戻ってきた。その後ろには、猛スピードでトラックがイノシシを追跡しておる。

「イノシシが道から離れるか、トラックがスピードを緩めなければ衝突しちゃう!」と思ったものの、トラックはイノシシの後をぴったりとつけていて、スピードを緩める気配はない。意地悪。

「イノシシ、かわいそうだな」と思っていると、そのイノシシがこともあろうか、わたしのほうに突進してきたのである。“ダダダダダッ”というけたたましい足音とともに!

「やっばーっ」と思った私は、逃げ場を求めて周りを見渡した。すると、路側帯とゴムのプランテーションの間に、水色にペイントされた、コンクリート製の2階建ての小売店が立っているのが見えた。私のすぐ後ろに建っていた。そこに逃げ込むことにした。

小売店の扉は、ガラス製で、観音開き方式を採用していた。で、間一髪、私は小売店に逃げ込めたものの、観音開きの扉を閉めないと、店の中にイノシシまで入ってしまう。「店の中にイノシシといっしょに閉じ込められるのは嫌だな」と思った私は、慌てて扉を手で押さえた。

扉を抑えながらも、「力勝負ならイノシシに勝てるわけないのだから、扉を手で押さえても無駄かな?」と少しあきらめたことを思っていた。で、ガラスの向こうにいるイノシシを見ると、扉が閉まったタイミングで店に入るのを何故かあきらめ、扉の向こうをうろうろしているだけだった。結構、行儀の良いイノシシだった。

セーフゾーンに入った私は、なんとなく、「イノシシおなかすいているんじゃないのかな」と思った。で、小売店の売り物であるクッキーをイノシシに与えてやろうと思った。で、クッキーを持って再び扉に戻ってくると、イノシシはもういなくなっていた。でも、イノシシは見えないだけですぐ近くにいるはずで、外に出てイノシシと遭遇するのが結構怖かったので、扉の外にイノシシを探しに出ることはよしておいた。

扉のこっち側で、クッキーを片手に、「あいつ、どこいったんじゃろうなぁ」と思っていた。

ここで、目が覚めた。

以上。1月2日夜に見た初夢でございます。

アディオス!

2019年01月07日

件名 海外視察について(2)

インドネシアに来ているの。これからインドネシアのシンポジウムで基調講演するの。

で、主催者がホテルやらなにやら用意してくれていて、結構上等なホテルに滞在させてもらっているの。

今朝起きると、ドアのすき間から手紙が挿入されていた。寝ている間に届けられたようだ。あまり気にすることもなく、「まぁ、朝ごはんでも食べながら読むか」と、手紙を片手に三階にある朝ごはん会場に向かった。

朝ごはんはブッフェ形式で、それはもう食べ切らないほどの料理がカウンターや卓上に用意されていて、訪れた私に「ここはなんじゃぁ、竜宮城なんかいなぁ~」と思わせるほどの空間にしあがっている。

で、竜宮城は、外を眺めると、屋外プールやら併設してあるバーとかが見えるように工夫されているんだけど、私は竜宮城気分が最高に盛り上がっちゃう窓際の席について朝ごはんを食べることにした。で、朝ごはんを食べながら手紙を読み始めたんだけど、手紙を読み、しばらくすると目を疑った。そこに驚愕の事実が書いてあったのだ!

いろいろ書いてある手紙の一番下に、

「・・・・・・本日は当ホテルの最上階にあるエグゼクティブラウンジでご朝食をご用意させていただいております。ぜひとも、エグゼクティブラウンジで極上のご朝食時間をお過ごしください」

と書いてあるではないかぁ!!

こういうことは一行目に書いてよぉ!!もう、朝食食べちゃったよー!!

アディオス!

2019年01月17日

件名 海外視察について(3)

最近、どうも眠れないとです。

インドネシアのシンポジウムで完璧な基調講演を行った後、都会の喧騒を離れて近くの国立公園に移動し、そこで3日間、森を見たり研究計画を立てたりする予定を立てていたのだけれども、国立公園に来るまでの道すがら何度も、アレンジしてくれた先生が、

「マッカサールの街は賑やかすぎてうるさいぐらいですが、ジャングルは静かで、風の音と虫や鳥の鳴く音しかしないので、とってもリラックスできます。」

と言っていて、「そりゃ、そうだろうなぁ」と思っていたのだけど、国立公園に着いてびっくり、500名の大学生のキャンプと日程がぶつかっていて、彼らが夜十時くらいから本当に一晩中、朝の7時半まで歌い続けやがって、うるさくって全く眠れなかったのである。

アレンジしてくれた先生をチラ見すると、「普段はこんな所じゃないんだけど」とでも言いたげな、泣きそうな顔をしておった。

いや、若い人が元気なのは日本も一緒で、それ自体はいいことなのだから、全然気にしないでください……寝不足だけど。

アディオス!

2019年01月23日